鉄人 須藤 將のホームページ

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RX7物語その7

2009-07-27 06:27:14 | 車・バイク
そうした、8月、須藤はセールス出向から本社に帰任した。
主査室に配属され、RX-7の担当プランナー&プロモーター(開発推進者)になった。
後の内山主査は、市場導入後の北米に長期出張中で、その留守を預かることになった。
最初の仕事は、国内販売と海外営業本部の受注を生産に反映することであった。生産技術は、快く引き受けてくれたが、生産現場は残業と休日出勤であった。
北米では、プレミアム価格$1000が上乗せされていた。それでも$500のデポジットを置いて、ウェイティング・リストに登録していた。そのウェイティング・リストが毎日のように北米課に届いていた。

それと同時に、市場導入後の製品調査が行われ、シート布地の変更、オーディオの追加、上級バージョンの設定を行ったP642は、1979年10月に市場導入された。
企画当時は、アフォーダブル・プライスのエントリークラスのスポーツカーであったが、想定したユーザーの範囲を超えて、幅広いユーザー層になったことは、商品内容の修正を求められることになるのである。

スポーツカーとしてRX-7ブランドをいかに確立するかが導入作戦のテーマで、最大の市場であるアメリカのモータースポーツに参加して好成績を得ることで、クルマ関係の雑誌をにぎやかし、PR・宣伝効果をあげるというRX-7ブランド確立のための神話作りを松浦は担うことになった。
1979年2月、デイトナ24時間レースGT-Uクラスで1位(片山義美/寺田陽次郎/従野孝司組)、2位(ロジャー・マンデビル/ジム・ダウニング/ウォルト・ボーレン組)、総合では5、6位入賞というすばらしい記録を樹立した。
この快挙には、アメリカの自動車専門誌だけでなく、TV,新聞や経済誌、一般誌にも取り上げられ、宣伝費に直せば気の遠くなる額の記事の露出で爆発的な反響を呼んだ。
ガスガズラーから不死鳥のごとく甦ったことを実証したこのレース結果をアメリカマスコミがこっぞて賞賛の拍手を送ってくれた。
以後、レーシング用のエンジン、車体、足回りの部品を現地に提供・サポートする体制を整えることで100勝につながってゆく。
こうした、レース結果は、RX-7ブランド確立に大きく寄与し、販売を側面から支えてくれた。それと同時に、スポーツカーとして求められる要件も変化してきた。

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