鉄人 須藤 將のホームページ

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RX7物語その6

2009-07-26 02:38:12 | 車・バイク
この様にして誕生したRX-7をアメリカという厳しい市場に導入するにあたって、ラストチャンスとして、文字通り生き残りをかけた背水の陣でマツダは臨んだ。
導入戦略の策定が必要であった。
ロータリーエンジンに対するネガティブイメージが定着し、マツダの米国市場に於ける存続にすら疑問が渦巻く当時の市場環境を一気にはね返す為にも、それが不可欠であった。

導入プログラムの一貫として 1978年2月に2組のジャーナリストグループをアメリカ、カナダから広島に招聘したとき、ジャーナリストを喜ばせたのは、本社宇品の埠頭でお披露目されたIMSA GT-Uクラスのレーシングカーであった。
アメリカではスポーツカーとレースは切り離せないものであった。マツダがRX-7の市場導入と同時にIMSA GT-Uクラスに参戦することを聞いて、マツダがRX-7をスポーツカーとしてのブランドを本気で確立したいのだとジャーナリストは理解した。
こうしたロングリードプレビューの内容が北米の自動車雑誌で大きくとりあげられ、RX-7とIMSA GT-UクラスのRX-7レーシングカーの紹介がなされた。

国内では、1978年3月、サバンナRX-7の発表会が東京、大阪、広島で行われ、販売が開始された。

須藤が関東マツダにAM-2でセールス出向していた。東京大山の本社であったが、1階のショールームは連日、お客が詰め掛けた。夜の10時になってもショウルームは、サバンナRX-7の側から離れようとしないのである。スポーツカーマニアでなく、ごく普通のファミーリーが多い。とくに、スーパーカーブームの小学生も多く詰め掛けた。これにはセールスマンが根を上げて、丁重にお帰りいただいたのであったが、困ったのは注文が殺到したしたことである。注文を受けても納車が3か月以上であった。
須藤がお客様に納車に行くとき、道で小学生と会うと、リトラクタブル・ヘッドランプを上げ下げしたら飛び上がって喜んでくれた。納車した先のお子様も同様であった。

1978年5月の北米市場導入以来、市場に於いてRX-7がその地位を確立し、今やマツダ車イメージを代表する車種へと育って行ったことは云うまでもない。

国内では、1000台の予定が、立ち上がりで9000台の受注が入った。
思わぬ誤算である。

米国でも、3000台の予定が、6000台を上回る滑り出しで、供給不足のため、プレミア価格付いた。

ガスガズラーの汚名は払拭され、好感をもって受け入れられた。アメリカには一度失敗しても、努力して立ち直ったものに拍手を送って受け入れる風土がある。
マツダは、オイルクライシスの危機から、このRX-7(SA22C)で立ち直った。

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