都会の生活全部捨て、、、阿蘇の山奥暮らし

父の友達、、に、、採用された、『赤』 気ままな雄猫

吉本{なんば花月} & 角座

2012-06-22 08:07:27 | わが道
青春 と、吉本{なんば花月}

私が通う美容学校は、なんば花月の前を通っていく。

なんば花月には、友達が二人見習いのようなかたちで、はいっていた。
もうすでに2年も、芽が出ていなかった。

新喜劇の方に、一人、、漫才のコンビを組んだ一人、、、
私は、学校の帰りに良く無料で入れてもらった。

当時、最も面白かった、漫才ブーム、、と、新喜劇、、吉本の歴史を飾る人たちが、軒並み活躍していた。
最初は、窓口まで来てもらって、入れてもらっていた、、そのうち窓口の人も、顔パスで入れてくれた。
見たい人だけ見たら帰っていく、、、最短15分、、長いときでも、1時間もいなかった。
本当にスポットで見て帰る。

『桂三枝』 が、やっと、人気路線になってきたところだった。
友達二人は、新喜劇で、やっと、せりふをもらえる程度で、3年もがんばったが、誰に知られることもなく、消えていなくなっていた。

いまっだってとても難しい世界であるが、当時だって、半端な能力で出来ることではなかった。

『やす、きよ』 は、美容学校に通っている間、『なんば花月』 に、興行しているときは、必ず見た、、。
「コイさん」に借りたDVDを、見ながら、学校からの帰り道、が、懐かしく思い出だされた。

歯医者さんの路地、、黒門市場、、キャバレー前、、カレー専門店、、入れたてのコーヒーの香る店、、、

その、『なんば花月』 も、もうとっくの昔に、なくなってしまった。
『グランド花月』、になって移転してからは、一度も行っていない。



青春 と 角座

「なんば花月」 の、後 3年半のころ、、

私は、スタイリストデビュー1年弱のころ、、、松竹芸能所属の当時売れっ子のトリオ女性漫才師の、お姉さんが、私のアップセットを、いたく気に入って、近くもないのに、通って来てくれた。
角座に出演の日で、私の休みが合うときは、必ず招待してくれた。

私は、指定された時間に、楽屋の方に先にお邪魔する。

そんなに広くない楽屋は、相部屋で、名前の売れた人たちだけが使っていた。
楽屋の隅で、TVでおなじみの方々にお邪魔にならないように、お姉さんたちが、楽屋入りするのを、静かに待っていた。


三代桂米朝さんは、音もなく畳の上を歩き、私の前を通り際に、私に、『ようお越しやす!』 と会釈をされた。
とっさの事ながら、私は、正座をしていてよかった、、と、冷汗をかきながら 『お邪魔いたしております』
と、だけしか言えなかった。

私のはす向かいに、羽織を脱いだだけのピシッとした着物姿の米朝さんがいた。

米朝さんの楽屋入りを待っていたがごとく、お弟子さん達が、5分刻みで、稽古に上がってくる。
米朝さんは、振り向きもしない、、お弟子さん達は、米朝さんの背中に講座と同じように、扇子を置き、挨拶をして、真剣に、5分、、、稽古の成果を、見てもらいに上がってくる。

その中には、四代目米朝さん?{息子さん} も、いた。

2年ぐらい後には、その人たちを、TVで、よく見かけるようになっていた。
米朝さんは、声を荒げることもなく、口移しに間違いを正す、、


そんなすごいことが、見れるうれしさに、自分からせがんだりはしなかったが、お誘いを受けたときは必ず行った、、



そんなすごいことが見たいために、約束の時間より、いつも10分早くお邪魔した。



そんな角座も、時代の波に押されて、もうずいぶん昔に、閉館、取り壊しになって、松竹芸能の、芸人さんたちの、活躍の場所がなくなってしまった。



『やす、きよ』 の、DVDで、私の青春と、ふる~~い大阪の「みなみ」 が、なつかしい。


 
**桂米朝
   重要無形文化財{人間国宝}
   文化勲章受賞
日本の芸能界で素晴らしい功績を残された方です。今後このような、素晴らしい方が、たくさん出てこられると、うれしいのですが、、、。






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