私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自我について

2014年02月21日 10時06分58秒 | 私の成り立ち
◇自我について◇

先日の記事で全体意識(真我)について書きましたので、個の意識(自我)についても書いてみたいと思います。
ちなみに、真我とは主体と客体が統合された思考又は思考の連鎖そのものであるということでした。
また別の角度から見ると、過去世で溜め込んだ考えである執着(カルマ)の反映活動であるというものでした。
念のため言っておきますが、この理解で間違いはないですから。(^^)
誰がなんと言おうと、間違いないです。
例え、私の師匠であるマスターゲートさんが「慧空、それは間違っているよ」と仰っても、ゲートさんへの説得を試みたいと思っています。(^o^)

自我とは、真我と対をなすものであり、真我を理解し、真我と自我を含めた私という存在を展開させる自由な活動体であり、いわばエンジンなのです。
真我を理解するのは自我であり、自我があるから真我があるのです。
また真我があるから自我があるのです。
まさに表裏一体の関係なのです。
そして、これらはすべて考え、つまり幻の世界のことなのです。

このような自我ですが、別の角度から見ると、自我とは「私(個)」という感覚の種と、その種に誘発された分別の連鎖とからなっているとも言えます。
私という感覚の種とは、分別の種であり、真我である無意識下の執着そのものとも言えますし、その執着に付随しているものといも言えると思います。
真我が存在する以上、分別の種は不可避的に存在します(天界の神々にもちゃんとありますし、梵天界の存在にもしっかりあります)。
そして、その種により断続的に分別が誘発され、自我が出現(顕在化)します。
種による分別の誘発は、例えば音等の外界からの刺激に対する感応により生じます。
自我が出現するとある期間の間、自我そのものである分別の連鎖が続きます。
これが自我であり、自我の活動です。

この分別の連鎖は、絶え間なく連続的に続くものではなく、途切れ途切れの断続的なものなのです。
自我(分別)が途切れている間の期間は、自我が不在となり、真我が顕在化します。
まだ悟りに至らない一般の方でも、自我(分別)の出現期間は断続的なものであり、実際には真我が顕在化している期間の割合が意外に大きいのです。

悟りに近づき、そして悟りが深まるにつれ、自我(分別)が出現する割合が小さくなっていきます。


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2 コメント

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Unknown (ひかり)
2014-02-22 00:36:19
いつも更新ありがとうございます!

真我とは主体と客体が統合された思考又は思考の連鎖そのものであること。
過去世で溜め込んだ考えである執着(カルマ)の反映活動という箇所が
私には初めて触れる表現だったので、今日までピンと来なかったのですが、
過去の記事を繰り返し読んだりしているうちに、今朝ハッとしてつながりました。

思考の連鎖そのもの、その絶え間ない働きでしたら、私の中で今も当然のように起こっています。
という事は、真我(空)はどこか異次元にあるのではなく
つねに今ここにあるということですよね...?

間違ってるかもしれませんが、
そう思うと、真我を遠くに感じる感覚がなくなってきました。不思議です(^-^)
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Re: (慧空)
2014-02-22 20:10:21
>ひかりさんへ
まさにその通りです。
真我の活動である思考の連鎖(但し、この思考は自我の出現を伴わないとても軽いもので、意識が向けられる対象の移り変わりという感じのものです)は、いまここ、つまり無意識下で起こっていく日常の展開そのものなのです。
真我は常にここにあります。

ひかりさんは、真我のすぐ近くまで来ておられるのかもしれまません。
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