私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

禅の悟りについて

2024年07月01日 16時59分46秒 | 悟り
◇禅の悟りについて◇


今朝のブログツイート記事でも書いたのですが、悟りについて情報や意見の交換や、試し合い等も含めて、多くの方とやり取りが出来たらと考えています。
仏教系、非二元系、独覚の方など、系列にかかわらずオープンにやりとりができたらと考えています。

と言いながら、また禅の悟りを批判する記事を書くのはどうなんだろうと思うところもあるのですが、改めて禅の悟りについて批判してみようと思います。

つい最近、ある禅系の覚者の方のサイトを読む機会がありまして、そこには禅系の覚者の悟りや悟ったときの様子がいくつか例を挙げて書かれていました(この場では、そのサイトに関する具体的情報は伏せさせてください)。
それで、彼らの悟りがさらに明確にわかった部分がありまして、それをもとに今回の記事を書いてみようと思った次第です。

彼らの悟りには、なぜか共通する特徴があるようなのです。
どういう特徴かと言いますと、まずは頓悟であるということです。
次に、その頓悟が起きるときの様子です。
具体的には、座禅中や掃除など何かに取り組んでいるときに(このとき、思考や認識機能が抑制され、取り組みになり切っていることがポイントであるようです)、小鳥の鳴き声等の音や現象(実際は何かの音が多いようです)を切っ掛けに、悟るというものです。
悟ったときの様子を表す言葉としては、事実に気づくとか、ことが起こっているだけなんだとか、そのまんまとか、その他、自我の喪失、脱落等に関する言葉が用いられるようです。

このような悟り体験をどう捉えるかですが、私は以前から指摘している通り、やはり主客の統合体験の一種であろうと考えています。
通常の感覚や理解では、この世界について、私という主体と、その私が五感を使って認識している対象(客体)とが独立して存在しているように理解しています。
しかし、悟り体験をしなくとも、我々が事物を認識するという現象について、それがどういうことなのか突き詰めて見ていくと、そもそものところで、主体と客体が別個に存在しているかのように感じるのは、我々の錯覚であることがわかるのです。
ですから、悟りの行程を歩んで行くと、自ずと主客に関する錯覚に気づくようになり、それに伴う握り締めている囚われの手放しが起こるのです。
補足しますと、主客の統合という表現がしっくと来ない方には、何かを観ている観照の視点の脱落が起こるという表現の方がわかりやすいかもしれません。

個人的には、禅者の悟りが凡そわかったのではないかと思っています。
(このことを含めて、ご批判等がありましたらお受けしますので、ご意見や情報等、コメント欄等にお書きいただければと思います。)

それで、です。
問題は、彼らの悟りはそれで本当に決着しているのか否かです。
彼らは、すべてそのまんまなどと言い、何かを求める衝動もピタッと止まったと言ったりするようです。
私は、本当にピタッと止まったのか、あるいはそれが持続しているのか疑問だと思っています。
それなりに大きな悟り体験があった直後は、とてもスッキリした感覚になったり、納得した気分になったり、探求に対する衝動が止まったりするものですから。

むしろ、そんなことどうでもいいのです。
悟ってどうなった、こうなったなんていうことより、私は、彼らがその悟りで何を悟ったのかが重要であると考えています。

もったいぶらずに短刀直入に書くと、彼らはまだ苦を悟ってないのです。

苦を悟るには、もう一度、私という自我を捉え直し、未だなおもがき苦しんでいる自分自身と向き合う必要があるのです。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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