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辞書引く日々

辞書が好きなのだ。辞書を引くのだ。

こてん【古典】青銅器時代の文献〈カビパン小辞典〉

2005年09月12日 | 言葉
こてん【古典】青銅器時代の文献〈カビパン小辞典〉

宮崎市定は古典とは青銅器時代の都市国家においてつくられるものなりというようなことを言っている。してみると、鉄器時代以後につくられた源氏物語などはとうてい古典とは呼べぬ。

考えてみると、「古典というのは文明の象徴である→わが国にも古典があるべきである(願望)→源氏物語はさしずめそれである→源氏物語のようなものを古典という(定義)」という流れがあるやも知れぬ。

(宮崎市定によると、中国ですらギリシアなどに比べると、青銅器時代が短かったので、じゅうぶん古典が発展せなんだいうことになる。青銅器文明がシルクロード経由で中国に伝達される速度より、鉄器文明が伝達された速度のほうがずっと速いおかげで、西アジアから東へ行けば行くほど、青銅器時代は短く、したがって古典も発達しないというのである。)

アジア史論

中央公論新社

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矢と箭

2005年09月10日 | 言葉
矢も箭も「や」と訓じ、同じような意味と思われる。

小さな漢和辞典(『全訳漢辞海』三省堂)を見ると、矢は木製、箭は竹製とある。

しかし、本当にそんな使用法の区別があるのか、そういうことを言ったのは誰なのかまでは書いてないから、辞書に書いてあったからといって、こんなことを人に対して主張する根拠にはなりそうもない。

こうして、本当かどうかかわからぬが……という知識がまた増えてしまうわけだ。大人になると、その種のものがどんどん増えてしまうが、それがまた味のあるところだと言っておこうか。

大きな漢和辞典は手元にないから、どう書いてあるかわからぬ。

例によって大言海で「や」を引いてみると、矢も箭も並列してあって、区別がない。

「状」って本当に手紙のことなのか

2005年09月06日 | 言葉
年賀状とか書状とか言うものだから、「状」というのは手紙のことかと思っていたが、よく考えてみれば、「状態」「形状」「名状」などというのがある。こっちは手紙とは関係ない。

そもそも「状」って何だということが気になる。岩波国語辞典第二版を引いてみると、「状」という字の項目に、すがたや形、事のなりゆきというような意味のほかに「書き付け。手紙。」とある。しかし、なんで形が手紙になるのかわからぬ。

手近な漢和辞典(『漢辞海』、三省堂)を引いてみると、「状」のどこにも手紙なんて意味は載っていない。いよいよ、怪しい。

大言海で「書状」というのを引いてみる。例によって怪しく楽しい語源解説がある。「居家必用」という本(料理本らしいんだけど、なんで?)の注釈が紹介してあって、状というのはかたちのことであり、情を筆墨によってかたちにするのじゃ、というようなことが書いてある。

ようするに、キモチにたいしてカタチということで、「状」が手紙を表すことになったと言いたいらしい。これに従うと、年賀状とか書状とかいうのに状を使うのはなにやら奥ゆかしく感じられる。ぎゃくに「果たし状」とか「状差し」というのは、なにやらギャグっぽく響いてくる。

特撰と特選は違うのか

2005年09月04日 | 言葉
しばしば海産物の加工品などのラベルに特撰という文字を見掛ける。特撰は特選と違うのか。

撰というのは、勅撰などと使われるのを見掛けるが、この場合の撰は文を編集するという意味だろうから、海産物とは関係がなさそうだ。

国語辞典をいくつか引いてみると、特撰=特選と書いてあるものもあるし(たとえば新潮現代国語辞典)、特選に (1) と (2) を設けて、(2) は特選と同じで、(1) は特に作った、という意味だといっているものもある(たとえば三省堂国語辞典)。もちろん、この場合の撰は作ったという意味であろう。

特選しか載っていないものもある(たとえば大言海)。

岩波国語辞典第二版では、(イ)と(ロ)にわけて、(イ)は展覧会の賞のごときもので、(ロ)は念を入れて選び出したもの、とあり、「(ロ)は『特撰』と書くことが多い」などとある。

ようするに、各辞書別々なことが書いてあって、ビン詰めのウニの「特撰」とは一体何なのか、結局よくわからぬのである。

パチットモンスター、略して……

2005年09月02日 | 言葉
パチモンというのは大阪のほうで偽物のことを言うらしい。語源がなにかありそうだが、どうも調べ方が悪いせいか、わからなかった。パチる(=盗む)という動詞から来ているのであろうが、なぜパチるというのかになると、とんとわからぬ。

ところで、パチモンというのは、なかなか味わい深いものがある。たいがいのパチモンは一見本物に似ているのだけれども、どこか違う。そっくりに作ろうとして、技術が足りずに似ていないというところもあれば、あきらかにわざと改変しているような箇所もある。ちょっとくらい改変したからといって、著作権上の問題が解決するとは思えないのに、言い訳がましく相異点を作るのである。

下の写真はヒ◯グマとそのパチモンである。刻印されたロゴはそっくりであるが、パチモンのほうは目と額の月が盛り上がっている。これは、技術不足であろう。しっぽの形がまったく違うのと色がまったく違うのは、当然わざとであろう。


テレタビーズ

2005年08月28日 | 言葉
以前テレビ東京系で「テレタビーズ」という幼児番組を放送していたがことがある。イギリスではいまでもやっている。テレタビーズという宇宙人の子どもたちが出てくる番組だ。

主食はタビートーストで、おやつはタビーカスタード、体を洗うのはタビースポンジである。

足が極端に短くてふとっちょ(tubby というのはそもそもふとっちょの意味の形容詞なり)の体形をつくるために、テレタビーズが立っている状態でも、中に入っている俳優さんは中腰になっているはずである。その姿勢のまま動きまわるのだから、さぞかし疲れるだろうと想像される。



ヽヾとゝゞは違うのか?

2005年08月25日 | 言葉
1997年に定められた JIS X 0213:2000 の「附属書4 表5 仮名又は漢字に準じるもの」によると、

JISコード 2133「ヽ」片仮名繰返し記号
JISコード 2134「ヾ」片仮名繰返し記号(濁点)
JISコード 2135「ゝ」平仮名繰返し記号
JISコード 2136「ゞ」平仮名繰返し記号(濁点)


という違いがあるのだそうな。つまり、「つゞく」とか「ツヽジ」などと使うわけだ。もっとも、近年は手書きするときでも、仮名のくりかえし記号はめっきり使わなくなってしまったので、あまりお目にかゝらないのであるが。無理に使ってみるのも一興かもしれぬ。

まあ、こんな記号を使うと、検索エンジンに引っかゝらないだろうけどね。

ストリーキング

2005年08月24日 | 言葉
もう何十年(?)も昔のことである。ストリーキングというものが逸ったことがある。裸で街路を駆け回るのである。私はそのころ小学生であった。そして、目立つためなら何でもしようという健全な精神をまだ持っていた。(むなしさというのは、大人の持っている最悪の感情である。たぶんこれは見栄よりもずっと後ろ向きなものだ。)

しかしながら、校内でストリーキング試みる気にはならなかった。校内でそれを行うのは、真のストリーキングではない――と思ったのかどうかは覚えていない。今考えるに、校門を一歩入れば、そこは保護された空間であり、その中で羽目を外して満足するのは、少々卑怯のように思える。

クラスメイトの誕生会に招かれたときに、機会はやってきた。このクラスメイトの家は、住宅地の中にある一戸建ての住宅であった。部屋の中でさんざん騒いだあげく、私は服を脱ぎ、玄関から表に走り出た。服を着ていないということによる無防備な感覚と、不思議な開放感を今でも思い出すことができる。私と行動をともにした者がもう一人いたと思うが、誰だったのか、思い出すことができぬ。

走り回ったのはそう長い時間ではなかったはずだ。私は玄関のドアを開けようとした。が、それは鍵がかかっていた。しばらくドアを叩いて、なんとか中に入ることができた。裸で走っているうちは、裸の人間の勝ちだが、いざ戻ろうとすると、服を着た人間の勝ちなのだ。(これは覚えておくべき教訓だ。)もちろん、その家にはその後二度と招待されなかった。

ちなみに、ストリーキングというのは、streaking と綴る。(私はずっとストリ-トのキングだからストリーキングだと思っていたが、ぜんぜん違うのだ)。streak という名詞・動詞もある。streak は、もともと「細く長い印」「人の性格の特徴的なところ」という名詞や、「たいへん速く動く」という動詞があり、20 世紀になってから「裸またはトップレスで公衆の面前を走る」という意味になったらしい。POD(9版) には、so as to shock or amuse つまり、ショックを与えたり楽しみのためにやる、とつけ加えられている。


冑と胄は別字

2005年08月23日 | 言葉
ものすごく紛らわしい漢字に冑と胄がある。甲冑(かっちゅう)は冑で、「源氏の胄」(世つぎの意なり)とかいうときは胄だ。JIS のコ-ドも別のものが割り当てられている。

どこが違うかというと、月の部分の中に入っている二本の線をみると、冑は左右にすき間があり、冑は左右にすき間がない。

ちなみに Google で検索してみると、甲冑(正)は約130,000件、甲胄(誤)約49,900件で、正解のほうが多い。それでも、誤りもかなりある。

ほとんどの人が、かな漢字変換を使っているのにどうして間違えるのかというのが不思議といえば不思議である。

姑息(こそく)

2005年08月21日 | 言葉
姑息(こそく)というのは、会話で結構使う言葉である。なぜか、「セコい」という意味で使われることが多いのが気になって仕方がない。

国語辞典を見る限り、その場しのぎの、という意味しかない。(漢和辞典には他の意味も載っているが、セコいという意味はない)。セコいことがその場しのぎであることも少なくないので、文脈から意味を推測して、間違うのであろうか。

新編大言海によれば、姑息の姑は、「しばらく」、息は「やむ」という意味だとある。当面なんとかやりすごしてしばらく休む、というようなことらしい。

この種の漢語なんぞ会話で使わぬに越したことはないようにも思えるが、なぜか好んで使われるやつがあるものだ。しかも誤用が多い。不思議なことである。