天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

業平卿紀行録8

2008年05月03日 | 文化・芸術

業平卿紀行録8

在原業平は825年(天長2年)に生まれ、そして紀貫之は866年(貞観8年)頃に生まれたというから、ちょうど昭和の人間が明治の人間を思い出すように、業平の人間像も貫之の世代の人たちにはまだ鮮明に記憶されていただろう。貫之が子供のころには業平はまだ生きていたし、彼は紀貫之と同じ紀氏有常の娘を妻にめとっていた。まして業平は桓武天皇の曾孫でもあり、光の源氏のように浮き名も高かった業平の人間像の伝説は隣人のようにその輪郭も明らかだっただろう。


616     起きもせず    寝もせで夜を    明かしては
                  春のものとて    ながめくらしつ  

この歌も古今和歌集の恋歌三の巻に収められてあるもので、そこには次ぎような詞書きが添えられてあるだけである。

「弥生の一日より、しのびに人にものを言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける」

この歌も後朝の思いを女に遣って詠んだもので、伊勢物語には第二段に取り入れられている。その女性が人並み外れて美しかったこと、西の京に住んでいたこと、奈良の都から遷都してまだ間もないころの出来事であったことなど、この歌の詠まれた背景がさらに詳しく物語られている。

747     月やあらぬ    春やむかしの    春ならぬ
                  わが身ひとつは    もとの身にして

仁徳天皇のお后が五条の后と呼ばれていたこと、お后の姪の藤原高子がお后の屋敷の西の対に住んでいたこと、この女性を業平が恋い焦がれたこと、かっては忍んで通い親しく語り合いもしたのに、やがて高子が宮中に上って業平の手の届かないところに行ってしまったことなどが明らかにされている。

梅の花盛りのころ、女性がいなくなってがらんどうになった部屋の板敷きに伏せりながら月が西に沈むまで眺めながらこの歌を詠んだという。

梅の花や月などの自然の景物に、自然の悠久と春の反復を感じる業平の時間意識を感じることができる。そこに同時に業平は自分たちの恋だけが反復を許されないという人間の宿命の悲しみを詠う。その心情は、西洋の近代で詩人哲学者のキルケゴールがレギーネとの恋の反復の不可能を嘆いたものと同じである。私たちの生は反復も不可能な、不可逆な時間の宿命におかれている。このことは業平の時代も近代もまた現代も、洋の東西を問わず変わりはない。

 


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