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☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

バッハの言語――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2007年07月18日 | 文化・芸術

バッハの言語―――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

 

Milstein's Last Public Concert at 83 Years Old: Chaconne (7.1986)

ヴァイオリンという弦楽器が奏でる響きが伝える世界は、純粋抽象の天上の世界で、時間的な系列における啓示である。その表現技法のおそらくこの上なく困難なこの楽曲を、たんなる技巧に陥ることなく、質朴だけれども深い彫りで骨太く演奏しているのは、円熟を迎えたロシアのヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテイン。たった一丁の弦楽器ヴァイオリンが、主題とその変奏の反復のなかで、ヴァイオリンの持つ可能性を極限に至るまで引き出しすかのようにその魅惑的な声で歌う。

バッハの自我の感情の、明朗、活発、苦悩、歓喜などの無限の起伏が、音の連続と断続、対立と混交の中でさらに高みへと上りつめながら、時間の終焉に向かって私自身の自我と絡み合い、やがて一体化しながら流れてゆく。ヴァイオリンが、ここではバッハの魂のもう一つの声となって響いてくる。優れた作曲には天衣無縫という言葉があるように、思わせぶりな天才ぶった技巧や創作の跡はない。職人芸のようにすべてが自然で、破綻がなく神の創造物のようにそこにある。

それにしても音楽を、このもっとも抽象的な芸術を分析するのはむずかしい。的確に音楽作品の精神を分析し、把握し、評価するには長年の修練を要するのだろう。しかし、多くのカンタータを創作したバッハには、その歌詞による詩的表現に通じることによって、バッハの音楽の抽象的な内面の表現も、その象徴的性格の把握にもより明確に慣れることも容易になるだろう。それゆえソナタやパルティータにおける純粋な器楽演奏による精神的な内面性の表現についても、バッハの音楽の形式における絶対者の把握へと導かれやすいのではないだろうか。


もちろん、音楽は音楽として、ソナタやパルティータにおいては言語は音楽との結びつきがとかれ、自由により純粋に音調そのものとして、内面的な主観を表現するようになる。それゆえ、純粋音楽という「言語」を通じてのもっとも抽象的な感情把握には、もともとの天賦の感覚とさらなる高度の修練とが求められるに違いない。バッハ自身も、この器楽曲を練習課題曲としても作曲したのではないだろうか。それによって、バッハは今日においても最大の音楽教育者であり続けている。バッハの受容と止揚は、現代の日本でも最重要な課題であると思う。今日においてもそれなくして新しい音楽芸術の創造は不可能ではないだろうか。それはちょうどバッハがヴィヴァルディたちを梃子にして自分の芸術を完成させたのと同じだと思う。

 

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