天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

きれいな満月

2008年10月13日 | 日記・紀行

 

この連休は美しい秋晴れの日が続いた。体育の日の今日草取りに山畑に行く。怠けて放っていたニンジンの周囲の草取りをする。ブロッコリー、大根、水菜、壬生菜、菊菜、タマネギなどの芽は、ズボラにわか百姓をも免じてそこそこに芽を出していた。自然は慈悲深い。農家のように生活がかかっていないからのんきなものだ。秋ナスとシシトウと最後の葉生姜を抜いて帰り、食卓に添える。

日が落ち、夕闇が濃くなってくると、東の空に満月が輝きはじめる。空から落ちてくる月の光はわが姿を影絵のように道ばたに写しだした。象牙を丸く掘り出したような月が浮かんでいる。地球のようには青くはない。紫式部や西行も見た月だ。

ここしばらく、マスコミはどこでもアメリカの「金融恐慌」を取りざたしている。プロテスタント・アメリカに対する罪と裁きということか。そして昨日、そのアメリカはなりふり構わず、テロ国家北朝鮮を指定リストから外した。そして、アメリカに泣きつくしかない日本は、いつものように悪女のように愚痴の泣き言をたれるばかりだ。口に出しては誰も言わないが哀れなものである。

また三浦和義氏がロスアンジェルスの拘置所で自殺したことが報じられていた。取り立てて語るほどのことでもないかもしれないが、それでもエポックを象徴する小さな事件として記録しておいてもよいかと思った。

三浦氏の事件についてはさまざまな点から論評できるだろうし、またその論評自体が評者の立場や思想をあらわすことになるだろう。

三浦氏はよかれ悪しかれ日本の戦後を象徴する人物としてみていた。ある社会に病理が伏在しているとすれば、おりに触れて吹き出物がある個所から現象してくるものである。

太平洋戦争の日本の敗北とその後のアメリカ占領軍統治。その帰結としての「半植民地文化」、その土壌に咲いた戦後日本文化を象徴する仇花。アメリカ文化の表面的な模倣と日本人の民族性の一面とがミックスされた土壌の上にのみ咲く。

三浦氏が犯罪者であったかどうかは分からない。しかし、三浦氏の言動はやはり戦後日本人のものであったと思う。そして、日本の司法においては無罪が宣告されたが、アメリカの司法当局は死に至るまで追求の手を緩めなかった。アメリカの「半植民地文化」の申し子が、もう一つのアメリカによって裁かれようとしていたのである。アメリカは広く懐も深い。それを知らずして傲った戦前の日本は戦いを挑んで破れた。これが私にとっての三浦氏の死のもつ意義である。

日本の戦後はまだ終わらない。太平洋戦争の敗北以降の、戦後という区分とその終焉についての定義は人によってさまざまだろうけれど、少なくとも私には戦後はまだ終わらない。

日本の戦後の終焉とは、日本国内からアメリカ軍基地がすべてなくなり、戦前の日本のように、自国の軍隊の独力で国土の防衛を果たす日である。その日が来るまで私には日本の戦後は終わらない。

今晩、NHKで――NHKも公営放送として少なからず問題を感じているが今ここでは触れない。もちろん評価できる点もある――『月と地球46億年の物語』という番組が22時からあり、月探査機「かぐや」が伝えてきた映像とデータにもとづいた月と地球の新しい宇宙像を伝えていた。

今夕おりしも山合の畑から見た白い月も、昔かぐや姫が月の世界から天上の使者の迎えに来るのを知ってひどく泣きじゃくったのと同じ月だ。かぐや姫はこの洛西の竹林のどこかに生まれ育ったそうだ。


[短歌日誌]⑤2008/10/13


満月の浄き世界を捨ててまで穢土の翁媼に泣いてすがりし

 

 


短歌と哲学(2)

2008年10月13日 | 文化・芸術

 

芸術作品に共通する特徴の一つとして、その軽やかな美しさというものがある。その典型が音楽である。音楽はあらゆる芸術の中でももっとも抽象的で、それゆえあらゆる現実存在の重苦しさからは解き放たれている。それは時間と空間のもっとも抽象的な世界へと私たちを誘うものであり、音楽は一つの啓示である。少なくとも啓示とはどのようなものであるかを予感させるものである。音楽はその意味で純粋な形而上の世界のミメーシスであるといえる。

文学もまた芸術の一つのジャンルとして、言語の表象とリズムによる「影の国」を形成する。それは音楽よりは具体的ではあるかもしれないが、それでも「影の国」としてあるいは「光の国」として、現実存在から自由に解き放たれた精神はその饗宴に遊ぶ。

そして、それぞれの芸術もまた多くの分野で特殊な発展を遂げている。音楽にも交響曲のような重厚長大の作品から小夜曲にいたる小品までさまざまな様式がある。絵画も同様で巨大な壁画、天井画からデッサンやスケッチの類までさまざまである。

短歌という様式はもちろん文学の中の一ジャンルではあるけれど、また詩歌に属するが、とくに五七五七七音と三十一文字という日本語に特有の音韻にそって歴史的に発展してきた。それゆえ当然のことながら、その形式のもつ特殊性のゆえに、短歌においては長編小説のように深刻な人間ドラマや哲学的な主題をその中で具体的に展開することも追求することもできない。

しかしまた、その軽薄短小としての形式として弱点は、一方では長所とも利点にもなりうる。短歌の近隣芸術である俳句などと同様に、その形式の簡易さ単純さゆえに、より大衆的な要素を備えている。実際にも短歌は俳句などとならんで日本においては、農民、商人、教師、主婦などの勤労者、大衆の間にもっとも広く普及している伝統的な芸術様式である。

短歌については、今においてももっともその本質を規定しているのは、やはり古今和歌集の仮名序の中に紀貫之が語っている次の言葉だろう。貫之は次のように述べている。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」

だからこの本質を外れるものは、もはや短歌ではないといえるかもしれないが、しかし、この本質を原点としながらも、短歌がその歴史の中でさまざまに発展してきたことも事実である。それは和歌の初心としての万葉集から始まり、古今集などのさまざまな勅撰和歌集へと、さらに歴史的にさまざまな停滞と変革と発展を遂げながら今日に至っている。

その中で初心を失い完全に様式化されてしまう時代の来ることも避けられない。独自のみずみずしい豊かな発想も失い、マンネリズムにおちいって芸術としても停滞してしまったと言われる古今集以降、あるいは江戸期を経て、今日に至るまで短歌の世界もさまざまな革新の試みがなされてきたようである。学校における文学史の学習でも、とくに近代においては明治維新後の西洋文化の影響を受けて正岡子規らによってなされた短歌・俳句の革新運動がよく知られている。

そうした歴史的な発展の足跡については、別に専門書で調べていただくとして、この小論で明らかにしておきたかったことは、要するに単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた短歌にも、ただに芸術的な意義のみならず、宗教的な、さらには哲学的な短歌としての可能性を見出しうるのではないかということである。

この立場は、従来の伝統的な短歌の立場に立つ人にとっては「邪道」であるかもしれないけれども、短歌のそうした可能性の一つの方向を追求できないか、哲学の立場からそれを問うのも自由であるはずだ。

この発想をもつようになっていた背景には、国民的な歌人である西行の和歌はすでに単なる美的な叙情にとどまらず宗教的な感情や認識をその和歌に示していることがあった。

さらに直接の契機になったのが、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていたのを読んだことがある。その中でとくに渡辺直己、故宮柊二氏の短歌を詠んで啓発されたことである。

そこで取りあげられた現代短歌に、美的な感情表現と同時に、何よりも短歌が人間の日々の生活の中で実存的な記録性をもちうることに気付かされたからである。確かにそれらに着目することを短歌入門の契機とするのは、短歌への道としては本来的でもオーソドックスでもないかもしれない。

一方で、概念のもっとも無味乾燥の世界に終始するのが哲学である。そうした仕事の中で短歌は比較的に短時間のうちに芸術的な表現欲を充足させてくれる貴重な形式である。その点において時間にも余裕の少ない者にも都合がよい。また、短歌の日常的な制作が、その制作上での修練が、言語のもつ表象力や概念の彫琢、吟味の素養の上で果たしうる意義も、また、さまざまな発想や認識の記録としても、決して小さくはないと思われることである。

 

 


天高群星近