ドーピングについて考える

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 「メジャーリーガーがオリンピックに参加しないのは、ドーピング検査を恐れるから」なんて、まことしやかに噂されることもありますが、実際のところはどうなのでしょう?

 “ドーピングはなぜいけないのか?”について、少し考えてみました。

 少しでも良い成績を収めるため、ましてそれが収入、人生につながるのであればなおさら、アスリートたちは薬を求めることでしょう。それを「ダメなものはダメ」と諭したところで、彼らが聞く耳をもつかどうかは分かりません。

 一般的にドーピングが禁じられている理由としてあげられるのは、以下の3つです。
1.副作用(攻撃的になる、発ガン性が高い、身体の異性化による生殖能力の減退)
2.公平性の欠如(薬を手に入れられない人が不利)
3.他者への悪影響(よい子は真似しないように)

 でも、「自分の体なんだから、どうなろうが勝手だろ。大体、練習施設も何もかも違うんだから、今さら不公平もクソもないし、他人が真似するのはそいつの問題であって、オレには関係ないことじゃん」という選手だっているはず。

 なら、どうやってドーピングが「悪」であることを明示するか。私はドーピングによって不利益を受容するのが自分だけでなく、他者(ファンやアマチュアアスリート)も含まれることがポイントではないかと考えます。

 真似して薬を服用した子が体をこわす。クラブのチームメイトに暴行を受ける。スポーツマンたるもの、他者を傷つけることがあってはならないはず。人々の注目を集める分だけ、市民の規範となるべきスポーツマンが、人(当然、自己を含みます)を傷つける危険性をはらみながら利己主義に走ることは許されないのです。

 「スポーツマンシップとは何か」という広瀬一郎さんの著作がありますが、スポーツを楽しむ上で、スポーツの存在意義を考えることは欠かせません。
 それはスポーツに限らず、どんなものでも同じこと。昨今、CSRが話題になることが多くありますが、それとて企業というものの存在意義に思考を巡らせれば、そんな横文字に頼らざるとも見えてくるものなはず。

 “ドーピングがなぜいけないのか?”
 それは、スポーツのあるべき姿に背く行為だからなのです。
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