SUN PATIO

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機械仕掛けの母

2010-06-20 | 神話、民俗学
 遠野郷松崎村の寒戸という所の民家で、
 若い娘が梨の樹の下に草履を脱いだまま
 行方知れずとなった。
 そして三十年後になって、
 老いさらばえた姿で帰ってきた。
 「どうして帰ってきたのか?」と問うと、
 「皆に会いたくなって・・・」と答えて
 ふたたび姿を消してしまった。
 その日は風の激しく吹く日だったから、
 遠野の人々は、風の騒がしい日は今でも
 「きょうはサムトの婆が帰ってきそうだ」
 と言い交わすそうな。
           『遠野物語』より

こういった素朴で無垢で不思議な物語は私の好物だ。
(いわゆる“神隠し”にグルーピングされるような
民間伝承について、異界コスモロジーという視点で
考察を行った『神隠しと日本人』(小松和彦著)は
大そう興味深い内容だった)
著者の柳田国男自身も、このような物語に惹かれて
明治時代に帝都からはるばる遠野を訪ねたそうだし、
神田の古書街で偶然『遠野物語』を手にしたという
折口信夫は、むさぼるようにページを繰った直後に
旅費を借金してまで遠野へと旅立ったらしい。
現在でも、この書物に刺激を受けて遠野を訪れたり、
田舎暮らしに憧れを抱く人々は沢山いる。

『遠野物語』は、岩手の山深き土地・遠野の民話や
奇談のコレクションであり、いわば自然と人間とが
密接に繋がって生きている状況下で、その生活者の
内面から自然に紡ぎ出されたものだ。
これとは対極的な環境に身を置いている現代人は、
“自然という母”から別れて、都市文明という名の
“機械仕掛けの母”の世話になってきた。その間に
もとの母親の記憶もすっかり薄らいでしまった。
“機械仕掛けの母”は色々と便利で気が利くけれど、
よく観察すると冷淡であり非情でもある。対照的に
“自然という母”は普段はどちらかというと厳しく、
時々子供たちを叱りつけるが、実は包容力があり、
いつも変わらぬ愛情で辛抱強く見守ってくれる。
日本民俗学の出発点たる『遠野物語』が文明開化の
時代に生まれ、多くの読者を魅してきた背景として、
<母なる自然への回帰願望>の潜在的高まり以外に
何が考えられるだろう?


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