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価値と意味のリファイン

2011-04-17 | ノンジャンル
ここ2、3年ほど私は古代史に関心を持ってきた。
歴史をやっている方は皆さん同じかもしれぬが、
人間は変わらない、ということを思い知らされる。

人間は勤勉である。かと思えば怠け者にもなる。
人間は信念をもつ。その一方で無節操にもなる。
人間は徒党を組みたがり、一人では柔弱であるが
衆を頼むと大胆になる。
みずからの利益となる事柄を正義と信じやすく、
常に有利な側に身を置きたいと考えている一方で
大義名分に則った行動を選ぶ人間は多いはず、と
信じたがる傾向をもつ。
他人の評判・評価を気にかける反面、嫉妬深い。
勇敢である半面では臆病、恐怖に負けると思えば
無鉄砲、知的であると同時に感情的・・・・・
人間とは何と詰まらぬ生きものかと思えてくるが、
兎も角こうした「変わらざる人間性」がある限り、
時間的隔たりや諸条件の差異があっても、人間は
相似た状況・事件に対して相似た反応や振る舞い
を見せるはずであって、その事例調査にも歴史の
価値を見い出すことは出来よう。

いま“価値”という言葉が出た。
われわれは「~する価値がある」「~する意味が
ある」という表現をしばしば使う。
たとえば発電所の建設は電力の安定供給とそれの
もたらす経済発展に“価値”を認めて行われる。
〔エネルギーの採取〕は価値中立的な行為であり、
〔生活が便利で豊かになること〕は明らかに善を
志向している。善を希求し、仁義礼節を持すにも
一定水準の衣食住は不可欠だ。
原子力による発電施設について問題視されている
のは、危機管理の不備、その安全性について誤認
(ないし認識上の甘さ)加えて虚偽らしきものが
あったこと、元々原子力なる手段がアクシデント
に際して開けてはならぬパンドラの匣となりうる
ということのようだが、関係者らを袋叩きにして
解消される問題ではないのは言うまでもない。
それにしても被爆国・地震国であるはずの日本に
54基の原子炉が存在している事実は重たい。
ビジネス上の打算や利権は大型事業に付いて回る
ものだが、甚大な被害が出た以上、責任者が潔く
身を処すことが、日本の伝統的な美徳に照らして
妥当であろう(むしろ美風とすべきではないか)。

話しが少々脇道へ逸れた。
考えてみると、この“価値”や“意味”それ自体
にも価値や意味があることに気づく。
若い頃に働いていた職場に「ひとつひとつの仕事
に意味を追求しては駄目だよ」と忠告する上司が
居たが、その調子で目先の実利ばかり追っている
から、豊かなのに幸福の実感が持てなくなるのだ、
と当時ひそかに思ったものだ。
むしろ“価値”や“意味”をもっと掘り起こし、
リファインすることは、最大多数の幸福追求上の
ベースとなる共有認識の形成に寄与すると思う。
具体的にいうと、エコロジーと関連して廃棄物を
少なくすることは疑いもなくプラスの価値を含む。
これについて考察してみれば、
「廃棄物を少なくしようと意識する人」に比べて
「廃棄物を少なくする為の技術を研究する人」は
より立派だという評価を受けるだろう。さらに、
「廃棄物を少なくする技術を広く普及させる為の
活動に従事する人」はそれ以上に賞揚されうる。
活動に資金を提供する人はそれに准じようか。
(学校教育の場で取り扱っても良いテーマである)
このようにして生活空間のあらゆる事柄について、
各々の行為に盛り込む価値の質・量を鑑みつつ、
価値の階層、意味の体系を磨き直すこと自体が、
新たな価値や意味を再生産してゆくと想像される。
磨き直されたものから新時代に相応しい“理念”
が醸成されるに連れ、経済学などの分野にも変革
が及ぶであろうことは、ごく自然な流れである。
日本なしには存続しがたく成りつつある世界に、
日本発の理念は世界を大きく和す結節点となろう。


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