エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

“銭湯”の思い出

2020-02-08 11:16:16 | 日記

1960年代、北海道の“銭湯”事情です。 当地では 銭湯ではなく、“風呂屋”と呼んでいました。 今の様に、いつでも風呂にはいれない不自由な時代でした。

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あの頃は、入浴と言えば“風呂屋”でした。 幸いにも、我が家から約50mの近くに銭湯があったので助かりました。 取り敢えず、1週間に1度程度は風呂に入る事が出来ました。 それでも、恵まれた方です。 住まいが銭湯から遠い子供達は、大きく温かい風呂には中々入れないのです。 町の人口に比べ、銭湯が少なかったからです。 夏ならタライで体を洗う事は可能でも、真冬はタオルで体を拭くのが限界です。 家族の多い農家や漁師の家には、五右衛門風呂程度の入浴設備はあっても、毎日 水を運び薪を燃やして湯を沸かす余裕などなかったと思います。 そんな事で、小学校当時は皆平等に不潔でした。 不思議な事に、仲間の服や体が汚れ多少臭くても、何ら抵抗はありませんでした。 寧ろ、毎日の様に風呂に入り“垢抜け”した子供は、逆に嫌われたものです。

いつも行く銭湯に、仲がいい同級生(風呂屋の息子)がいました。 物心ついた頃から、銭湯の釜場(ボイラー室)に入り込んで遊んでいたので、銭湯の“裏事情”は小学校の頃から知っていました。 毎朝、男湯・女湯を念入りに清掃し、溜めていた地下水を浴槽に流し込み、午後から石炭窯で湯を沸かします。 午後3時前には、入浴の準備が完了しければなりません。 ただし 風呂屋を営むのは、友達の母親と祖母・姉でした。 父親は公務員で、銭湯には殆んど関わっていませんでした。 頼りの息子は 遊び盛りで、当てにはなりません。 たまに手伝う時は いつも私を誘い、力を合わせ“風呂焚き”を遣ったものです。 小学校3~4年頃でした。

釜場の仕事は、案外難しいものです。 石炭窯を、人力で温度管理するのですから、容易ではありません。 友達と話やゲームに夢中になると、決まって浴槽の温度が下がります。(“おやつ”に誘われた子供ですから) 入浴客から「もっと温度を上げろ」と声がかかれば、慌てて石炭を入れ火力を高めます。 お客さんの声は、男湯と女湯にある約 5㎝角の“小窓”から聞こえて来ます。 浴槽側に取っ手があり、釜場に声を掛ける時に使います。 その“小窓”が、魅惑的でした。 ほんの僅かな隙間から、明るい女湯が丸見えです。 子供ながら、綺麗なお姉さんのヌードを“ドキドキ”しながら盗み見したものです。(時効) そんな、お粗末な“銭湯裏事情”でした。

2月6日は「風呂の日」でした。 今年は 暖冬と思いきや、今シーズン最大の寒波が遣って来ました。 南北に縦長の日本でも、冬は平等に寒いものです。 それでも、北国育ちの我々が 九州や沖縄へ行けば、多少は暖かく感じる筈です。 しかし、新型肺炎が流行する中、止むを得ない限り 移動するのは“ご免”です。        


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