すべてのみちはここに

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いつもここにある

怖いものが教えてくれること

2019-01-11 | 心で生きる
冬至のあたりから
私の世界から怖いもの(怖いこと)をなくしたい
という思いが出てきた





怖れがあると
その怖れることが起こらないようにと目を光らせて
いつのまにか疑いの目になってたりする、、

そういうことって
些細なことでも
私をどんどん下におとしめる 

疑ったり
窺(うかが)ったり
見張ったり
媚びたり
・・・

怖れがあるとこんなことをしだす
そんなときに私から出てる波動はどうかなって
ちょっと止まって みてみれば、すぐわかること

その波動は微細なものでも埃となって、心の目を曇らせて
私の心身を蝕むだろう
有害そのもの(私にとって)




怖れることがあると
それが起こらないようにと心配ばかりして
いまを味わえない
なんて意味のないことだろう
いまにしか生きられないっていうのに

いまを味わえないことは
私の中心に私がいないということ
誰のストーリーに呑みこまれてるんだろ?
私の世界の主人公は私しかいないって言うのに




例えばどんな嘘や理不尽を
誰かが私にはたらいたとしても
それは私のものではない
その人のものだ
それが毒か薬かになるのは
それを発した本人にとってだけだ
私は痛くも痒くもないのだ(ということは もはや理不尽ですらないってことだ)
そこに気付いたら頭で理屈をこねるのがアホらしくなった 

私にとってはただ起こることが起こってるだけ
そして「私にとって」の世界しかない

その「いま」の中で、私はどう思うか?どう感じるか?だけだ

それに従い 次の展開がある



だから怖れることなんて
ほんとはなんにもない


見逃しちゃいけないのは ただ一つ
自分が自分につく嘘や理不尽だ

自分につく嘘って使い古されたフレーズだけど
自我(思考)は平気でだまくらかすからね、自分を
自我(エゴ)の生き残りをかけて、巧妙なのだ
(自我がいうことはすべて愛じゃない。それが自我ってもん)
自我は自分を騙してまで自分を正当化しょうとする

だけど 感覚、体感、直感はちゃんと本当のことわかってる
何かしら違和感となってサインを出してる
だけど言葉で言ってこないから気付くのが遅れたりする
ちゃんと聞いてあげれなくて、なかったことにしたりする


私にとって嫌なことが起こってやっと、
この感覚をないがしろにしていたことに気付く

嫌なことっていつもそこに気付かせてくれる

だから結局はいいことってことになる





それでもまだ怖いものがあるって見つけたら
むしろ自分のほうから迎えに行ってやることにしてる (笑)

なんでそれが怖いの?
それのどこがいけないの?
そうなったらいいよ!って


外側を変えようとするんじゃなくて
自分の側を壊すことに快感を覚えはじめている今日この頃


壊しては創造するのだよ
観念の書き換え

そうやっていくうちに自分オリジナルに還れたらいいな



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