すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

パターンに気付く パターンから抜ける

2019-01-21 | 心で生きる
ここのところ
日々の何気ない語り合いの中で
あぁ、私ってそういう観念を持ってたのか
そういう前提で生きてきたのか
って気付くことがポンポンと頻発している



自分にとってのアタリマエが
相手にとってはまったくピンとこなかったり
相手にとってのアタリマエが
私にとってはありえないことだったり

前は、そんな場面に出会ったときに
理解できないことに失望のような、寂しいような気持ちになったりして
相手を非難するか
自分に劣等感を感じたり
瞬間的に、自動的に、反応してた


でも最近は
へー
そうなんだ
そういうのもアリなんだなぁ と
違いを「可能性」として見るようになった



自分にとってのアタリマエ(観念)は
きっと生まれてからこれまでの歴史の中で
出会ったいろんなことが絡み合って
いろんな作用をしてきて
結果こういうアタリマエになったってことで

それは人の数だけあるし
人の数だけ宇宙がある


どうしてこういう観念を持つようになったのか?
なんて考える必要はなくて
それは絶対ではない
それは変えることができるものだ と
ただ知っていればいい


その観念をずっと持ち続けたっていいし
ジャマになったら捨てることもできる



観念を変えることは
はじめはそう簡単ではない
パターンから抜けるのは
はじめちょっとの勇気がいる


なんか、負けたような気がしたり
新しい道を行くような感じで不安になったり
古い自分が騒ぐのだ

じっさい観念を捨てることは
まっさらな道を歩くようなもの
馴染みのあるパターンに沿って歩くのではなく
まっさらな道に「いま」足を踏み入れる
どんな足跡が付くのかは後からわかること





変わらない観念を持ち続けることのほうが
辛いことなのかもしれないね

流れに抗うのをやめて
力を抜いたら
新しい景色がやってくるんだな





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怖いものが教えてくれること

2019-01-11 | 心で生きる
冬至のあたりから
私の世界から怖いもの(怖いこと)をなくしたい
という思いが出てきた





怖れがあると
その怖れることが起こらないようにと目を光らせて
いつのまにか疑いの目になってたりする、、

そういうことって
些細なことでも
私をどんどん下におとしめる 

疑ったり
窺(うかが)ったり
見張ったり
媚びたり
・・・

怖れがあるとこんなことをしだす
そんなときに私から出てる波動はどうかなって
ちょっと止まって みてみれば、すぐわかること

その波動は微細なものでも埃となって、心の目を曇らせて
私の心身を蝕むだろう
有害そのもの(私にとって)




怖れることがあると
それが起こらないようにと心配ばかりして
いまを味わえない
なんて意味のないことだろう
いまにしか生きられないっていうのに

いまを味わえないことは
私の中心に私がいないということ
誰のストーリーに呑みこまれてるんだろ?
私の世界の主人公は私しかいないって言うのに




例えばどんな嘘や理不尽を
誰かが私にはたらいたとしても
それは私のものではない
その人のものだ
それが毒か薬かになるのは
それを発した本人にとってだけだ
私は痛くも痒くもないのだ(ということは もはや理不尽ですらないってことだ)
そこに気付いたら頭で理屈をこねるのがアホらしくなった 

私にとってはただ起こることが起こってるだけ
そして「私にとって」の世界しかない

その「いま」の中で、私はどう思うか?どう感じるか?だけだ

それに従い 次の展開がある



だから怖れることなんて
ほんとはなんにもない


見逃しちゃいけないのは ただ一つ
自分が自分につく嘘や理不尽だ

自分につく嘘って使い古されたフレーズだけど
自我(思考)は平気でだまくらかすからね、自分を
自我(エゴ)の生き残りをかけて、巧妙なのだ
(自我がいうことはすべて愛じゃない。それが自我ってもん)
自我は自分を騙してまで自分を正当化しょうとする

だけど 感覚、体感、直感はちゃんと本当のことわかってる
何かしら違和感となってサインを出してる
だけど言葉で言ってこないから気付くのが遅れたりする
ちゃんと聞いてあげれなくて、なかったことにしたりする


私にとって嫌なことが起こってやっと、
この感覚をないがしろにしていたことに気付く

嫌なことっていつもそこに気付かせてくれる

だから結局はいいことってことになる





それでもまだ怖いものがあるって見つけたら
むしろ自分のほうから迎えに行ってやることにしてる (笑)

なんでそれが怖いの?
それのどこがいけないの?
そうなったらいいよ!って


外側を変えようとするんじゃなくて
自分の側を壊すことに快感を覚えはじめている今日この頃


壊しては創造するのだよ
観念の書き換え

そうやっていくうちに自分オリジナルに還れたらいいな



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借りもの・仮もの

2019-01-05 | 心で生きる
物心ついてから ずっと
あたりまえのように
「私が」生きてるって思ってきて
「私の」家族や友達がいて
「私の」家や車や持ち物いろいろを
所有してきたつもりできたけれど

すべては
ぜーーーーーんぶ
なにもかもが、
借りもので


この体も
この私も
(この名前でこの顔でこの性格で・・っていう私)

借りもの

仮もの



必ず いつかは 
別れがある。



ただひとつ
仮じゃない
確実なものは

この“存在している”という感覚

いま、ここにこうして在る、という感覚

移りかわる心もように気付いてる“意識”



それ以外は
ぜーんぶ、借り物

縁あって、巡ってきただけ


そう思うと







ああ~~~

ありがたいなぁ~~~~








こんな凸凹の自分でも

ありがたいね

この自分を
もっと可愛がろうっておもう
もっと最大限に活用しなきゃっておもう
生きてるうちに使い切らなきゃね



そして
目の前に
巡ってきたもの(いのち)すべて

ありがたいなぁ~~~~





生きているからこそ、の
一期一会だね

丁寧に
慈しみたいなぁ って思う







暮れにゆきさんからパクチーどっさり貰ったから
最近はパクチー祭り(*´▽`*)


パクチーたっぷりスープにサラダに
右のは弥彦さんに貰った山芋たっぷりのネギ焼き ネギは母から
ファミリーよ ありがとう


そーめんチャンプルみたいなやつ
パクチーとナンプラーでタイの屋台の味(行ったことないけど)
おいしかった!

自分のために
しっかり料理してしっかり味わって食べる♪
最近もりもり食べてるなぁ(*´▽`*)





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愛は なにも するコトがない

2018-12-31 | 心で生きる
2018年は私の中で激動の年だったなー

観念の天変地異だった



振り返ってみれば

結局のところ

苦しみはただ道先案内人なんだ

苦しみの“内容”は、じつは重要じゃないのかもって気がしてきた

それは私から見たストーリー、思考の産物

それは移りかわる



それよか苦しさや絶望がでっかいと
(そしてそれを何かのせいにして責めたり、被害者になったり、をやめにして
苦しさの“元”を内側に探求するならば)

もう自分をごまかす人生を終わりにして
本当の自分を生きることを
いまに生きるってことを
本気でやりだすんだ って思った



そして
愛についていっぱい学んだ

今まで愛だと思ってたけどそうじゃなっかたことが、
自分の内側にも外側にもあった。


愛を生きたかったら、
どんな私であろうと
私が私のままで完全だったってことを思い出すことからだった

漠然と満たされなさを抱えたまま、外に向かうと
その欠乏感を埋めるために他人を“利用”してしまう

それは愛じゃない

(この“欠乏感”って
気が付いてみればこれは
長年、ずっと私にくっついてまわって時々顔を出した
その度に私はあっちこっち右往左往して
外側(知識や成果や人や物や…)に埋めるものを探していた)


外のあれやこれやに気をとられる前に
自分の内側を観る
そして
ありのままのそのままの、いまに落ち着く



私はいま、どう在るか
私はいま、自分の中心にいるか
意識を上(思考)から→中心(肚(ハラ))へ下ろして、観(感)じる
(↑これやるのに瞑想ほど効果的なものはないと思う)

そして、いちばんやりたいことをちゃんと(やりたいことを後回しにしないで)やってるか


自分の中心にいれば満たされているんだ
これ即ち自家発電
自分で自分にエネルギーチャージ、だから外に求めることがなくなる

まず私個人が独立個人として立って、自分内循環させる
その基礎の上で
他人と向き合う
(パートナー、親、子、友人、誰に対しても言えることだと思う)

これができていてはじめて
打算のない 
条件付きでない
純粋な愛を生きれるんだと思う

これは本当の自立
そして本当の自由だ



愛は
なにも
するコトがない



ただ ここに在ることを味わう
ただ ここに共に在る喜びを 分かち合う



外側の景色も
心の景色も
移りかわる

ただこの“在る”ということだけは変わらない


ここが愛

いつでもここに戻ってこれる





まぁ また波にのまれてアップアップすると思うけど 

その度に そこが浅瀬だってことを早く思い出せますように






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集団的勘違い

2018-12-19 | 心で生きる
10日ほど前に下書きして放置してた日記
やっぱりupしよ





「12月8日の日記」


今朝 目が覚めたとき
ふと
子供の頃に見た夢のことを思い出した。


*******

その夢を見たのは
5歳か6歳、小学校上がる前だったと思う。

目が覚める直前のところだけ覚えている。
夢の中で
姉が私の手のひらを持って
「人はみんな死ぬ。ともちゃん(私)も死ぬと。それば忘れんように印を付けとく」
と言って
手のひらにスーッと一本
ナイフで筋を引いた。
筋はぱっくり開いて赤い血が流れ出た。
私は「痛い・・」と言って泣き出した。
そこで目が覚めた。

目が覚めても
怖くて泣いてたのを覚えてる。

******



子供はいつもいまを生きてる。
将来の心配をしてる子供なんていない。
さっきまで泣いてたと思ったらもう笑ってる。
子供にとっては、今この目の前のことしかなく
先のことなんて考えず全力で遊ぶ。

だけど社会に出会っていき
「ありのままの、そのままのあなたではダメなんだ」
もっと○○しなきゃ
もっと○○すべき
もっと、もっと
という観念を教えこまれるし
それが正しいのだと信じて疑わなくなる。


5,6歳の私が見たこの夢は
これから出会っていくであろう、そんな社会の
なんだか暗示めいてる。


だけど
今朝
目が覚めてふと
この夢のことが思い浮かんで

「あぁ あれ(あの夢が伝えてたこと)は、勘違いだったんだぁ・・・・」と思った。



その暗示、
「ありのままのあなたではダメ」
「命って有限なんだから うかうかしてられないんだからね」
っていう刷り込みは
人間社会の「集団勘違い」なんだなって思った。
集団催眠。


その強迫観念が
人間の怖れや不安の根本にあって
それが多くの行動の基準になってる。
こうならないように・・、ああならないように・・


でもやっぱりそれって勘違いなんだ・・



死ぬなら
今 この瞬間生きて
今 この瞬間死んでる

生き「続け」てると思ってる「私」は
観念の粘土で、私の形に積み重ね盛り上げてきたもので
それは思考(記憶)の中にしか存在してないんだ。
すべては変化しているだけなんだ。


観念が固まるのを
断ち切る。

それはいまに気付き続けるということ。



瞑想やヨガに出会ってよかった

言葉の指す先 にあるもの
その感覚を教えてくれるから

日常にもその感覚を持ち込む
そのようにやってみる
すぐ忘れるんだけども
何度でもトライしてる




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