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すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

瞑想会 & 陶芸ワークショップ ありがとうございました

2019-04-22 | 日記
先日の「瞑想会 & 陶芸ワークショップ」

こんな山奥まで来てくれる人いるのかなぁ??と
内心ドキドキでしたが
瞑想会も陶芸もランチタイムも
このスペースにちょうどいい人数
来ていただきました。



瞑想会では
深いリラックスで心身スッキリ♨



ランチタイムではお天気良かったので
庭石や縁側など皆さん好きな場所で食べていただき
小鳥のさえずりを聴き
ポカポカ陽の光を浴びながら
「たわわごはん」さんの旬の野菜たっぷりで
滋味深~いお料理を味わいました。








そして陶芸ワークショップでは
皆さん黙々と集中して創作




瞑想会と陶芸を同じ日にやるって欲張りすぎかなって思ったりもしましたが
やってみたら
これバランスいいな~と思いました。


日常とはまた違った感覚が活性化されたのではないでしょうか?
とくに右脳

私も と―――っても楽しかったです


ご参加いただきありがとうございました!!




今後も月一ペースくらいで
草ノ尾ハウスのオープンデイやっていけたらいいなぁと思っています。

そしてこちらから山を下りて行っての陶芸ワークショップも開催予定です。


タイミングよろしいときに、ぜひご参加ください!



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ただの日記

2019-02-19 | 日記
言葉は何の 役に立つんだろう

こうして文字を打って
伝えたいことは何だろう



うちは核家族で
家には仏壇も神棚もなかったけれど
子供の頃から
宗教的なものにどこか惹かれていた


法事で行ったお寺で見た地獄絵図が恐ろしくて強烈で、忘れられなかった

寒い日、祖母について行った教会の
石油ストーブで暖かい部屋で
牧師さんと祖母が話してる間、退屈してたら
陶製の小さな人形をもらった
お祈りをする男の子と女の子が対になった人形だった

近所の歴史好きのおじいさんが教えてくれた隠れキリシタンの話にひかれた

18,19の頃はキリスト教や仏教に関する本をいろいろ読んでみた
けどどれも難しくてよくわからなかった

10代後半から20代前半は
強い虚無感がいつもついてまわり
アパートに訪問してきた近くの教会の信者さんのお誘いに応じて
日曜の礼拝に行ったこともあった
行ってみたけど探してるものはここにはないという気がして続かなかった

聖書も読んでみた
般若心経も読んでみた
けどやっぱりよくわからなかった

宗教というより
宗教が指し示しているものは何なのか?に興味があった



絵でも立体でも
祭壇のような
額縁のような作品をよく作ったけど、
いつも
縁どられ奥まっているその真ん中は、空っぽだった
その中心には何が入るんだろう? ってわからないままだった


だけどやっぱりそこに入る“モノ”はないんだと
光が漏れる仕掛けを作った

暖かな家の光だったり
暗い森のなか木々の間から差す光だったり



そうやって
長いこと
憧れていたんだな、、

いつかどこかで
光のきわまで行けるときを
待っていたんだな、、、

待っている、その姿勢こそが遠ざけてるとも知らずに






言葉は額縁のよう
けして“真ん中”は表せない


縁どるだけ
いくらたくさん言葉を使って説明しても
周りを縁どるだけ




私とは何か






存在とは何か






額縁の真ん中の空白は
いま
固定できない、全体
リアル

であって
真ん中の空白は普遍的な
永遠


外側の額縁こそは
カタチはあれど移ろうもの
朽ちゆくもの






いつか光がやってくるんじゃない
いまの
これが
光だ




私とはなにか



この問いは単なる入り口


答えはただ


体験のなかにある




いまここに既にある



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芽吹きの気配

2019-02-10 | 日記
2019年明けて
早くも1月がとうに過ぎ・・・


この10日ほどは風邪が長引いて引きこもり気味だったけど
やっと回復


気がつけば
お山でも
水仙の花が咲き
梅の花が咲き、、

まだ寒いけど、どことなく瑞々しい(みずみずしい)気配というか
空気の中に滴る(したたる)感じがあって
地上に芽吹きのエネルギーがみなぎってきている

春はもうすぐそこだ





今日、突然の訃報が届いた
十年来、マッサージをさせていただいていたTさんが亡くなられた

お通夜に行き
お別れをしてきた



約11年間、毎週病室に通った
TさんはALS(筋萎縮性側索硬化症)だった


はじめて病室に行ったときは
病棟内のあちこちから聞こえてくる人工呼吸器の音にビビった

なんかすごいとこ来ちゃったよ・・(@_@。っておもった
初対面で人工呼吸器で
話せない体も動かないおじさんをマッサージするって・・💦
めちゃくちゃ緊張した


声が出ないから、意思疎通は
はじめの頃はパソコンや
口パクを見て動きを読んだり(表情筋は動かせた)
50音表の文字を指して繋げていったり

病気の進行に合わせて変化していった




声を失ってから
障がい仕様のパソコン(右手の拳がかすかに動くので、グッと力を入れたときにピクッと動く腕の「筋」にセンサーを繋げて、選択・決定で入力できる)を覚えられ
はじめの頃はブログも書かれていたし
メールでやりとりもされていた


体の機能が少しづつ失われていくのには
段階があって
その変化の「時」というのがついに来たとき、
その時の
凄まじさ


入力がうまくできなくなったとき
とにかく来る日も来る日もずーーーーーっと
練習されてた

そしてとうとう
あるとき
練習が終わる

そんなとき
誰もそこには触れなかった
機械もそのまま
しばらくは使えるようにしてあった

そして静かに
その手段は終わり

しばらくすると
また別の手法(機械)を導入し
新しい方法を習得された

それも
また使えなくなる日がくるのだけど
その日がくるまでは
できることをいつも精一杯されてた



ふりかえってみたら
Tさんと過ごした時間は

Tさんのその時その時
いろんなとき

私のその時その時
いろんなとき

ふたりのいろんな時々で
響きあっていたのだろうか

いいトキばかりではなかった
不協和音のトキもあった

それはまるで鏡だな―って今は思う
ふたりが不協和音の時は
既に不協和音でいっぱいの私がいたもの
(その時は気付いてなかったけど。
すんごい頑張ってたけど。
頑張りの方向が間違ってたなーー 笑)



最後のころは
病状が進行して
苦しいに違いないはずだけど
表情は穏やかに
朗らかな日が多かった

表情筋の動きも鈍くなって口パクもほとんどわからなくなってたし
50音表の文字盤使ってのやりとりも
うまくできなくなってたけど
なぜか言わんとしてることがこちらもわかったりして
そんな時
「当たり!?すごくないですか私!?」とか言ったら
ホッホッホッって満面の笑みがこぼれた
声は出ないけど、今にもそう聞こえてきそうな笑顔だった




言葉ではあらわしようもないものを
たしかに
しっかり
頂いたんだなって思う






今日のお通夜でTさんの身内の方が話してくださったこと


10年くらい前
私がちょうどマッサージに行きはじめた時期のこと
Tさんの妹さんに、Tさんからメールがきたそうだ

「いままで僕は
なんともったいない生き方をしてきたことか
これからどんなことが起こるか 
ワクワクしている」



進行性の難病に侵され
肢体の自由がすべて失われ
声も失ったあとのTさんが、だ



その言葉を今日、聞けたこと
ほんとにほんとに
うれしいギフトだった

その言葉の発信源なるものが
この11年間のTさんの
生きざまの
底のほうから光輝いて
照らしてる気がした

ちょうど暗い海底にいて
波の陰から陽の光が挿すように
苦しみの底のほうから光が挿しているような

そんな感じ



大切なことは
けして見えない
表せない

ただ
それを
生きるのみ




Tさんに心からの
おつかれさま を




ありがとうございました











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機能美の 生まれるところ

2018-11-01 | 日記


秋は道端の花も色とりどりで、犬の散歩も楽しい♪



小さな陶芸教室
始まってます。



ひもづくり(ひも状にした粘土を積み重ねて作るやり方)で作る。

はじめに形作ったものを
後日、生乾きの固くなったところでひっくり返し
外側や底の形を削り出す。

基本的に内側は削らない。



皆さんはじめは
作りたての見かけを気にされるのだけど

外の見た目は
後の削りで変わる。

そして
削りは
内側の形状によって決まってくる。


自分にとっての、「ある機能」を果たすための内側。

その器を
どんな場面で使いたいのか
どんなふうに使いたいのか

使ったときにどういう具合になるだろうかと具体的に想像したり・・



その内側の形状に則して
一定の厚みで削り出していけば
外側もスキッと芯の通った心地良いカタチが自ずと現れる。


だからいつも
内側のカタチがだいじですよ~ってお伝えする。



あらわれは ぜんぶ そうなんだな





だから私も
内側に意識を向けよう。

カタチはあとからついてくる(*´▽`*)





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サンガとアート

2018-09-18 | 日記
夏至の瞑想会@塩炊き屋 から約3カ月
秋分間近の9/13はここ草ノ尾ハウスにて瞑想会でした。


今回は10名の方が集まってくれて
素晴らしい場になってたなぁ。。
振り返ると、じ―――んとあたたかいものに包まれる



その時期、私的にジェットコースターのような日々の中だったので
ただ、その時間に自分のコンディションが良くあることだけを考え
何を話そうかとか考える余裕がなかったのが、かえって良かったようだ。

力が抜けた空っぽの中から
体を通して言葉が出てきた。

考えなくても
ちゃんと、必要なことが起こるんだな



瞑想が終わってから、ふと出てきた言葉
「真理のもとに集う人々、場」である“サンガ”があったらいいな
そういう場がつくれたらいいな、ってずっと思ってたので
(今日はまさにそういう場になってたので)とても嬉しいです。
ありがとうございました。」



今回は「持ち寄り市」も同時開催ってやってみたけども
やってみてわかったことは
草ノ尾ハウスの瞑想会は
なーーーーんにもしないのがいいなぁ

瞑想は
「私」が何者か、を横に置いて
誰でもない「存在」に還ること

持ち寄り市はまったく逆のベクトルだなと実感した
自己紹介すら要らないなって思った

やってみたからわかったことだった

ここでは「誰でもない私」としての時間を味わってもらえたらなぁって思う

これからが楽しみだ。




そして
日曜日はそらいろガーデン
これまで描かせてもらったフライヤーの原画展をした。







印刷ではわからない、切ったり貼ったりの質感に触れてもらって
喜んでもらえて嬉しかった


私は「適当」があまりよくわからない。
フライヤーっていう枠、大無視で(笑)
好き勝手にやらせてもらえて
毎回すごく楽しかった。


瞑想レクチャーするということも
このそらいろガーデンがきっかけだった
この場が大きな後押しをくれた。

今回でそらいろガーデンは卒業することにしました。



毎月一枚の絵を描くことで
私の中で確信になったことがあって
それは今の私的ジェットコースターの流れとがっちりリンクしていて
はっきりと照準を定めて
生活をシフトしているところ。

何を中心に据えて生きるか


やっと
はっきりとスッキリとしてきた。




前はこのブログのプロフィール欄に
草ノ尾ハウスは「暮らしがアソビ、アソビがシゴトを実践する場」って書いてたけど
逆に本意が伝わらないことがあったので消した。
(そもそも人によって遊び、仕事、の定義がさまざまだったからなんだけど)


私が書いた「遊び」とは
損得勘定なしで、見返りや評価を期待せず、ただその行為自体が即「純粋な喜び」であること

だけど多くの場合
先にある目的のために、「今在ること」に気付くことなく
今を擦り減らす生き方の場合、遊びは「現実逃避」として捉えられる。
今が苦しいから。
そして仕事・生活・遊びと区切って、そこに優劣をつける。



今 在ること に気が付けたら
私を中心に広がる世界がただあるだけで
「これは生活」「これは仕事」「これは遊び」という区別はなくなる。

だから見返りを考えず損得を考えず、ただ「今できる最善」をやるようになる。
主体的に世界とかかわるようになる。
「世界」に対して「私」が、従→主にシフトする。

そうすると私の世界は彩りを取り戻す。

そうして
内側からの喜びが溢れて
自分からも喜びを周りにも分け合いたくなって
結果的にうまく回り始めるんじゃないかな・・
それを証明したいな・・という想いからの表現だった。


もうそのことを広めたいとかそんなことはどうでもいい
本当に、私がそのように生きたいと思う

探しものは外にはなかった。
内側を発掘する

ワクワクしてる




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