高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

天皇125代の足跡(26代~30代)

2015-08-30 20:54:23 | その他
第26代 継体天皇(けいたいてんのう)

和諡 : 男大迹王(おおどのみこと)

生没 : 允恭天皇39年(450年)~継体天皇25年2月7日(531年)3月10日

在位 : 継体天皇元年2月4日(507年3月3日) ~同25年2月7日(531年3月10日)

磐井の乱を鎮圧し王朝をかためた

継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である

近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた

継体天皇は即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った
しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している

日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している

531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した




ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった
男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした
これが現在の足羽神社である

陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳(前方後円墳)

第27代 安閑天皇(あんかんてんのう)



在位 : 継体天皇25年2月7日(531年3月10日)~安閑天皇4年12月17日(536年1月25日)

和諡 : 広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)

在位 : 継体天皇25年2月7日(531年)~安閑天皇4年12月17日(536年)

継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した
安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている

なお、『日本書紀』に引く「百済本記」によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという
このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある

陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
形式は前方後円





第28代 宣化天皇(せんかてんのう)



在位:宣化天皇元年12月18日(536年)~宣化天皇4年2月10日

和諡 : 武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)

初めて蘇我氏を大臣に起用した

継体天皇の第2子

先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した

筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った

即位元年(536年)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる

高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い

また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変仮説)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる

人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている





陵(みささぎ)は、奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵、むさのつきさかのえのみささぎ)
前方後円

第29代 欽明天皇(きんめいてんのう)




生没 : 継体天皇3年(509年)~欽明天皇32年4月15日(571年)

在位 : 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)~欽明天皇32年(571年)4月15日

和諡 : 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)

継体天皇と手白香皇女との間の息子

父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれた傍系の出自であった
このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった
従って、継体天皇は即位までの妃と間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた
宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった

なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さらに欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた

大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる

百済の聖明王の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう
これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する
同年高句麗にも軍を送っている

なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある

欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという

陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵、ひのくまのさかあいのみささぎ)



形式は前方後円

第30代 敏達天皇(びだつてんのう)



在位 : 敏達天皇元年4月3日(572年)~同14年8月15日(585年)

和諡 : 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)


欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている
また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年?)に宮大工の集団として発足したと伝わっている

敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた
崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた
その年の8月15日(585年9月14日?)病が重くなり崩御した

仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された

陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町大字太子にある河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)

形式は前方後円



天皇125代の足跡(21代~25代)

2015-08-30 11:34:17 | その他
第21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

和諡 : 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)


陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)公式形式は円丘







生没 : 418年~479年

在位 : 安康天皇3年(456年)11月13日 ~雄略天皇23年(479年)8月7日

允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子

気性が荒かった天皇のようです



日本書紀では



” 朝(あした)に見(まみ)ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され ”

と記してある

吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進めた

さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした


第22代 清寧天皇(せいねいてんのう)





在位:清寧天皇元年1月15日 ~同5年1月16日

和諡 : 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

雄略天皇の第三子

御名の「白髪皇子」の通り、アルビノで生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという



雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位

皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる

翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした

5年正月に崩御した

陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に治定されている
公式形式は前方後円



第23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)





在位 : 顕宗天皇元年1月1日~同3年4月25日

和諡 : 弘計尊(をけのみこと)

安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した

丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた

清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした

子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした

清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否

皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する

引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない

罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる

同3年4月25日、崩御




陵(みささぎ)は、奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)

公式形式は前方後円

第24代 仁賢天皇(にんけんてんのう)





生没 : 允恭天皇38年(449年)~仁賢天皇11年(498年)8月8日

在位:仁賢天皇元年1月5日~同11年8月8日

和諡 : 億計天皇(おけのすめらみこと)、大石尊(おおしのみこと)

仇の雄略天皇の娘を皇后にした

安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした

清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた
4月に億計王が皇太子となった

同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した
翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した

これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した
3年2月に石上部(いそのかみべ)舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた
また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いた
仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から

「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」

と評された

7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御した

陵(みささぎ)は、大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)形式は前方後円



第25代 武烈天皇武烈天皇(ぶれつてんのう)



ちょっと怖い天皇でした



生没 : 仁賢天皇2年(489年)~武烈天皇8年(506年)12月8日

在位 : 仁賢天皇11年12月~武烈天皇8年12月8日

和諡 : 小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)


仁賢天皇7年正月3日に立太子する

同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした

大伴金村などは、それを苦々しく思っていた

皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた

海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた

そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした

天皇には子がなかった
御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという

武烈天皇8年12月8日に、後嗣なく崩御した

陵 : 奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
形式は山形







続く またね









天皇125代の足跡(16代~20代)

2015-08-26 23:00:39 | その他
第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)


仁徳天皇稜は有名ですよね

在位:仁徳天皇元年(313年)1月3日 - 同87年1月16日

和風諡号 : 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)




応神天皇の第4皇子で「民の竃(かまど)」の故事で知られている


人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除しその間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった

3年後再び周囲を見渡すと家々に煙が再び立ち上っていた

その時に詠んだとされる

「高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり」は有名

「民のかまど」に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来している

第17代履中天皇(りちゅうてんのう)




在位 : 履中天皇元年(400年)2月1日 - 同6年3月15日

和風諡号 : 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)

略歴

仁徳天皇の第一皇子として生まれる
聖帝仁徳天皇がお隠れになられると、実弟の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)が履中天皇の婚約者の黒媛(くろひめ)を犯し、事が露見することを恐れて皇居を包囲し履中天皇を焼き殺そうとしたが、履中天皇の命をうけた実弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)によって殺されるという事件が発生した

即位4年目の403年に、国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を各国に配置して、各地の情勢を中央に知らせる体制をつくりあげたが、この頃には有力豪族であった蘇我氏や物部氏が国政に参加するようにもなった

405年に70歳でお隠れになられた(古事記では64歳)。実弟を殺してまで得た天皇の座ではあったが在位6年の短さだった

後継は、実子で仁賢天皇・顕宗天皇の父となる磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)ではなく、住吉仲皇子を殺させた多遅比瑞歯別尊が即位した
後の反正天皇である

履中天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、古事記では大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)、日本書紀では大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)と呼ばれている

第18代反正天皇(はんぜいてんのう)


在位 : 406年2月3日~410年2月12日

和風諡号 : 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)



概要
仁徳天皇の第三皇子として生まれる

第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子
(すみのえなかのおうじ)は同母兄

弟は後の允恭天皇

天皇家にとって所縁の深い淡路島の生まれで、容姿端麗で歯並びが美しく、瑞歯別とも呼ばれていた
また、古事記には身長が約4メートルあったと記されている

実父の仁徳天皇がお隠れになられた後に、実兄の履中天皇を、実兄の住吉仲皇子が焼き殺そうとする事件が発生した際に、履中天皇の命をうけて住吉仲皇子を殺害した

そして履中天皇が即位すると立太子された

405年に履中天皇がお隠れになると、すでに壮年期ではあったが即位した

そして、河内の丹比に都を定め、戦乱や天変地異のない天下泰平な治世を送り、在位5年の410年に60歳でお隠れになられた

反正天皇 百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市



反正天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円(全長148m)

第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)

在位 : 允恭天皇元年(412年)12月 - (453年)年1月14日

和風諡号 : 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)

概要

仁徳天皇の第四皇子として生まれる

第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)と第三皇子の反正天皇は同母兄

実兄の履中天皇に続いて即位した実兄の反正天皇が、皇太子を決めずにお隠れになられた為、新たな天皇へと群臣の推薦をうけたが、病気を理由に再三の要請を辞退し続けていた

しかし空位が続くのは良くないという事もあって412年に仁徳天皇の息子の系譜で三代目の天皇として即位した

都は天皇家では初となる飛鳥の地を選んだ

応神天皇の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とし、後の安康天皇となる第三皇子や、雄略天皇となる第五皇子らを設けた

権力欲が無く謙虚な人物だったとされ、病を治す為に医者を招聘した新羅は、お隠れになられた際に弔使を送っている

しかし、豪族に対しては厳しい姿勢をとり、氏姓の乱れを正す為に呪術的な裁判である盟神探湯(くかたち)を実施したり、有力豪族葛城氏の玉田宿禰(たまだのすくね)が、反正天皇の遺体の管理を任せられながらも地震の際に酒宴を開いていて職務を放棄して事態を調査にきた使者を殺す事件を起こすと、これを誅殺した

治世の晩年には、第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と、その同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)による近親相姦な関係が発覚し、軽大娘皇女は伊予へと流され、木梨軽皇子は允恭天皇がお隠れになった後に、実弟の穴穂皇子(あなほのみこ)=後の安康天皇により殺害された


惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)

(前方後円墳、全長228m)


第20代 安康天皇(あんこうてんのう)


在位 : 允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日

和風諡号 : 穴穂尊(あなほのみこと)


概要

允恭天皇42年1月に允恭天皇が崩御する

皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、弟の穴穂皇子の側に付いた

軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ

穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した

安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた

同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56と伝えられる

皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる

陵(みささぎ)は、奈良菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
奈良県奈良市宝来4丁目
形式は方丘



*1代~20代天皇名一覧




1 神武天皇 じんむ

2 綏靖天皇 すいぜい

3 安寧天皇 あんねい

4 懿徳天皇 いとく

5 孝昭天皇 こうしょう

6 孝安天皇 こうあん

7 孝霊天皇 こうれい

8 孝元天皇 こうげん

9 開化天皇 かいか

10 崇神天皇 すじん

11 垂仁天皇すいにん

12 景行天皇けいこう

13 成務天皇せいむ

14 仲哀天皇ちゅうあい

15 応神天皇おうじん

16 仁徳天皇にんとく

17 履中天皇りちゅう

18 反正天皇はんぜい

19 允恭天皇いんぎょう

20 安康天皇あんこう


続く







天皇125代の足跡(1代~15代)

2015-08-15 12:51:52 | その他
歴代天皇第1代から125代今上天皇までの足跡を紹介します



その後、国体、皇国史観や万世一系、そしてその精神的支柱背景について自分なりの解釈で紹介します

なお表記については「日本書紀」を基本とします



第1代 神武天皇(じんむてんのう)


和風諡号(死後に送られた名称) :神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)

生没年 : 庚午年1月1日~神武天皇76年3月11日

在位 : 前660年~前585年

足跡 : 九州を出てヤマトを征服した古事記、日本書紀が伝える初代天皇

高天原から天降ったニニギの曾孫で、兄五瀬命らと語らい東の美しい土地を目指して日向から宇佐・筑紫をを経由して瀬戸内海に入り大和をめざした

河内に至り、その地の先住民の長髄彦がおり孔舎衛坂で戦いとなった

戦いは神武一行に不利で兄の五瀬命を戦いで失い、また暴風雨に遭って海神を鎮めようとして稲氷命と御毛沼命の両兄が海中に身を投じた

神武は日の神の啓示により日に向かって戦うことの益なきことを悟り、紀州へと迂回した

その後熊野の荒坂津に上陸して一路大和を目指した

途中ヤタガラスらの導きもあってようやく畿内大和に入った

そこで長髄彦と戦いになったが饒速日命が神武を天神の子孫と認めて長髄彦を殺して帰順したのでようやく戦いは収まった

しかし、神武の行く手はまだまだ困難が伴った

橿原宮で即位して初代天皇がここに誕生した


第2代 : 綏靖天皇(すいぜいてんのう)

和風諡号 : 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノミコト)

在位 : 前581年~前549年

足跡 : 神武天皇の第3皇子,母は皇后ヒメタタライスズヒメノミコト

皇太子になっていたが,父神武天皇の没後,政務をとっていた庶兄タキシミミノミコトが皇位を望んで皇太子を除こうとしたので,皇兄カンヤイミミノミコトとはかり,タキシミミノミコトを殺して即位し,大和葛城高丘宮に都したと伝えれる。84才没

第3代 : 安寧天皇(あんねいてんのう)


和風諡号 : 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこ-たまてみ)

在位 : 綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月

67歳没(日本書紀)

足跡 :
『日本書紀』によると、綏靖天皇25年1月7日に立太子
綏靖天皇33年5月10日の父天皇の崩御を受け、同年7月3日に即位

そして翌々年の安寧天皇2年に宮を片塩浮孔宮に遷した
その後、安寧天皇38年12月6日に在位38年にして崩御した
時に『日本書紀』では57歳[1]、『古事記』では49歳でほうぎょした
遺骸は「畝傍山南御陰井上陵」に葬られた

第4代 : 懿徳天皇(いとくてんのう)



和風諡号 : 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

在位:懿徳天皇元年2月4日~懿徳天皇34年9月8日)

安寧(あんねい)天皇の第2子で母は渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)、安寧天皇11年に立太子、懿徳元年即位、同2年に軽(かる)橿原(かしはら)市大軽町付近の曲峡宮(まがりおのみや)に遷都して天豊津媛(あまとよつひめ)命を皇后とし、同34年に没して畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのかみのみささぎ)に葬られたという

『古事記』は母を阿久斗比売(あくとひめ)命、皇后を賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)命とし、45歳で没したと伝える

第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)



和風諡号 : 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)

在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日

『日本書紀』によると懿徳天皇34年9月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝昭天皇元年)1月9日に即位。そして孝昭天皇元年7月に宮を掖上池心宮に遷した

その後、孝昭天皇83年8月5日に在位83年にして崩御した

時に『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳という

遺骸は「掖上博多山上陵」に葬られた。


第6代孝安天皇(こうあんてんのう)



和風諡号 : 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

在位 : 孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)

足跡 : 日本書紀によると、孝昭天皇68年1月14日に立太子

孝昭天皇83年8月5日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝安天皇元年)1月7日に即位

そして孝安天皇2年10月に宮を室秋津島宮に遷した

その後、孝安天皇102年1月9日に在位102年にして崩御した(歴代天皇中最長)

時に『日本書紀』では137歳、『古事記』では123歳という

遺骸は「玉手丘上陵」に葬られた。


第7代 孝靈天皇(こうれいてんのう)



和風諡号 : 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

『日本書紀』によると、孝安天皇76年1月5日に立太子。孝安天皇102年1月9日の父天皇の崩御を受け、同年12月4日に宮を黒田廬戸宮に遷して、崩御の翌年(孝霊天皇元年)1月12日に即位した

その後、孝霊天皇76年2月8日に在位76年にして崩御した
時に『日本書紀』では128歳、『古事記』では106歳という

遺骸は「片丘馬坂陵」に葬られた

第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)



和風諡号 : 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

『日本書紀』によると、孝霊天皇36年1月1日に立太子

孝霊天皇76年2月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝元天皇元年)1月14日に即位した

そして孝元天皇4年3月12日に宮を軽境原宮に遷した

その後、孝元天皇57年9月2日に在位57年にして崩御した

時に『日本書紀』では116歳、『古事記』では57歳という

遺骸は「剣池嶋上陵」に葬られた。

第9代開化天皇(かいかてんのう)



和風諡号 : 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる

『日本書紀』によると、孝元天皇22年1月14日に立太子

孝元天皇57年9月2日の父天皇の崩御を受け、崩御の同年11月12日に即位した

そして翌年の開化天皇元年10月13日、宮を春日率川宮に遷した

その後、開化天皇60年4月9日に在位60年にして崩御した

遺骸は「春日率川坂本陵(または坂上陵)」に葬られた

第10代崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう)



和風諡号 : 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)

崇神天皇は学術的にも存在が確認されている

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある

また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる

第11代 : 垂仁天皇(すいにんてんのう)




和風諡号 : 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)

父崇神天皇の崩御の翌年に即位し、都を纒向珠城宮に移した

垂仁天皇も伝承の多い天皇で、皇后狭穂姫とその兄狭穂彦との謀反、皇后狭穂姫が戦いの火中で生んだ誉津別皇子が口がきけなかったという伝承

また、出雲の野見宿禰の武勇伝(力士の始祖といわれている)や野見宿禰の献策によりそれまで行われていた殉死をやめ、土師部の作った土偶(埴輪の起源)を陵の周囲に廻らしたという

さらには田道間守(たじまもり)が常世国へ非時の香菓(ときじゅくのかぐのみ)を探しにいって帰ってみると天皇はすでに140歳で没しており、田道間守はこれを嘆き悲しみとうとう死んでしまったという伝承がある

第12代 : 景行天皇(けいこうてんのう)





在位 : 景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日

和風諡号 : 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

皇居 : 都は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師か)

父は垂仁(すいにん)天皇
母は日葉洲(酢)媛命(ひばすひめのみこと)
子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に九州の熊襲(くまそ),東国の蝦夷(えみし)を平定させ,諸国に田部(たべ)と屯倉(みやけ)をもうけたとつたえる


【格言など】倭(やまと)は国のまほらま畳(たたな)づく青垣山籠(やまこも)れる倭し麗し(「日本書紀」景行天皇17年)

第13代 : 成務天皇(せいむてんのう)



在位 : 成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)

和風諡号 : 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)

母は八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)

「日本書紀」によると,同日生まれの武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣とし,国郡(くにこおり)に造長(みやつこおさ),県邑(あがたむら)に稲置(いなき)をおき,邑里(むら)をさだめたとつたえる

墓所は狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)



第14代 : 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)



在位 : 仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)

日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である

伝によると熊襲を討つため,皇后とともに筑紫に行幸したとき,まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため,神の怒りに触れて戦陣で没したという

第15代 : 応神天皇(おうじんてんのう)

諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)

出産した場所は筑紫の宇美といわれ今でもその地に宇彌神社がある


神功皇后と胎中天皇一行は三韓征伐後、九州から瀬戸内海を東へと進み大阪湾に入り大和を目指したが、留守役の異母兄弟である香坂王・忍熊王に大和入りを阻まれた

なぜか香坂王は猪に喰われてしまい障害とはならなかったが、忍熊王は摂津から山城に入り抵抗を示した

しかし神功皇后側の武勇人である建振熊に計られて近江に退き琵琶湖に入水して果てたという

応神天皇の時代は朝鮮半島を通じてさまざまな技術集団が渡来して、農地改良・馬・太刀・縫製・論語・千字文・典籍などをもたらし技術の改革、文化の振興が行われた