高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

天皇125代の足跡(47代)

2015-10-18 14:00:06 | その他
第47代:淳仁天皇(じゅんにんてんのう)


生没:天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日)

在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日)

淡路廃帝(あわじはいたい)
諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された

父は舎人(とねり)親王

母は当麻山背(たいまのやましろ)


孝謙天皇の譲位をうけ,藤原仲麻呂(なかまろ)に推されて即位した

新銭(万年通宝,大平元宝,開基勝宝)をつくり,旧銭(和同開珎)と併用させた




藤原仲麻呂の乱がおきると,孝謙上皇に実権をうばわれ,天皇は廃され淡路(あわじ)に流された

明治3年弘文・仲恭天皇とともに歴代にくわえられた

陵:淡路陵陵(あわじのみささぎ)(兵庫県南淡町)


天皇125代の足跡(46代、48代重祚)

2015-10-18 13:39:43 | その他
第46代:孝謙天皇(こうけんてんのう)
重祚して第48代:称徳天皇(しょうとくてんのう)






在位期間 : 孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)

称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)

和風諡号 : 宝字称徳孝謙皇帝(ほうじしょうとくこうけんこうてい)、高野天皇(たかのてんのう)


父は聖武天皇で母は藤原不比等の娘の光明皇后

考謙天皇も父親の聖武天皇同様に仏教への信仰は厚く、753年に東大寺の大仏が完成すると開眼供養を行った


この孝謙天皇は独身で子供がいなかった為、皇太子を誰にするべきかが当時大きな問題であった

この時、大きな力を握っていたのは、藤原仲麻呂という人


この仲麻呂の推薦で大炊王(おおいおう・天武天皇の孫)を皇太子にすることを決めた

この大炊王とは、仲麻呂の息のかかった人物だった


孝謙天皇は仲麻呂に大きな信頼を寄せており、その後、皇位を大炊王に譲ったがその後、僧侶道鏡と考謙上皇との出会いがあり複雑になってきた


病で倒れた考謙上皇をひとりの僧侶、道鏡が看病し病を治してみせた

その後、考謙上皇は道鏡に絶対の信頼を寄せるようになった

いったんは、皇位を大炊王に譲った孝謙天皇だったが再び政権を取り戻すことにした

裏で道鏡の思惑もあったと推測できる


そして、仲麻呂を謀反の罪で捕らえ、淳仁天皇(大炊王)の帝位を廃止すると、寵愛する道鏡に法王の位まで授けた

そして、考謙上皇は、再び天皇の座につき、称徳天皇となった


その後、道鏡は天皇の座まで狙うのが失敗し、770年に称徳天皇が崩御すると後ろ盾をなくした道鏡は、下野国の薬師寺別当に左遷された


陵所:高野陵(佐紀高塚山古墳)







天皇125代の足跡(41代~45代)

2015-10-10 15:39:43 | その他
第41代 持統天皇 (じとうてんのう)




生没 : 大化元年(645年)~大宝2年(703年)

在位 : 持統天皇4年(690年)~持統天皇11年(697年)

和風諡号 : 大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)

高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)



天智(てんじ)天皇の第2皇女

母は蘇我遠智娘(そがの-おちのいらつめ)

天武の死後,即位せずに政務をとり(称制),4年後に即位した

夫の遺業をついで,飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)の実施徹底をはかり,藤原京を造営してあたらしい都とした

陵 : 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)




小倉百人一首春過ぎて夏来にけらし白妙(しろたへ)の衣干すてふ天(あま)の香具山(かぐやま)


第42代 文武天皇(もんむてんのう)


生没 : 天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7)

在位:文武天皇元年(697年) - 慶雲4年(707年)

和風諡号 : 倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)
天之真宗豊祖父天皇(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)


草壁皇子の子

母は阿閉(あべの)皇女(のち元明天皇)

祖母持統天皇の譲位をうけて,藤原宮で即位した

はじめて鋳銭司を設置し,度量(物差しと枡(ます))を諸国に配布,大宝律令を制定するなど,国家としての体制整備をはかった

また遣唐使を復活させた

陵 : 檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)(奈良県明日香村)




「万葉集」
み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜(こよひ)もわが独り寝む


第43代元明天皇(げんめいてんのう)


生没 : 斉明天皇7年(661年) - 養老5年(721年)
在位:慶雲4年(707) - 和銅8年(715)

和風諡号 : 日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみしろとよくになりひめ)



天智(てんじ)天皇の第4皇女

母は宗我嬪(そがのひめ)蘇我姪娘(そがの-めいのいらつめ)

子に文武(もんむ)天皇,元正天皇

文武天皇の遺詔により即位した

和同開珎の銀銭・銅銭をつくり,都を藤原京から平城京に移した


官吏の俸禄の支給規定をつくり,蓄銭叙位令をだした

「古事記」を完成させ,「風土記」をつくらせた


陵 : 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)




これやこの大和にしてはわが恋ふる紀路(きぢ)にありとふ名に負ふ背の山(万葉集)

第44代元正天皇(げんしょうてんのう)


生没 : 天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年)

在位:霊亀元年(715年) - 養老8年(724)

和風諱号 : 日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)


草壁(くさかべの)皇子の娘

文武天皇の同母姉

母の元明(げんめい)天皇の譲位をうけ即位した

「養老律令」を制定し,「日本書紀」を完成させた

按察使(あぜち)をおいて国内の治安をはかり,衣服の襟(えり)をはじめて右前にさせ,四等官以上の官吏に笏(しゃく)をもたせたり,三世一身法を施行するなど,律令体制(養老律令)強化・浸透をはかった


日本書紀が完成し日本初の正史となった


陵 : 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)





霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我あを音ねし泣くも

(意味)ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。去年も来て鳴いてくれた懐かしい鳥よ、おまえをこんなに心にかけているのに、一声ばかりで去ってしまって、私を泣かせ


第45代 聖武天皇(しょうむ てんのう)



生没 : 大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)

1在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)

日即位前の名は首皇子(おびとのみこ)

諡号 : 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)



文武天皇の皇子

母は藤原不比等(ふひと)の娘宮子

元正(げんしょう)天皇の譲位をうけ即位した

蝦夷(えみし)の反乱,長屋王の変,天然痘の大流行,藤原広嗣(ひろつぐ)の乱など,政情・世情が安定せず,たびたび都をうつした


仏教に帰依(きえ)して諸国に国分寺,国分尼寺をたて,東大寺の大仏造立をすすめた





743年に墾田永年私財法を施行した

陵 : 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)




「続日本紀」
夫(そ)れ,天下(あめのした)の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天下の勢を有つは朕なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ


要約
「国の財産をもっている者は天皇であり、
国の勢いをもっている者も天皇である。」


聖武天皇は、741年に国分寺をつくることを決め、大和の国分寺と全国の総国分寺をかねる東大寺に、大仏を建立する命令を出した

聖武天皇は仏教を信仰しており、この当時は伝染病が流行し、また、政権内部では勢力争いがあった

その為天皇は、仏教を通して国内を統一し、仏教によって国を安らかに治めていこうと考えた