高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

二日市保養所

2016-02-20 11:03:42 | その他
僕は九州出身だが二日市保養所(ふつかいちほようじょ)の存在については皆無であった。

Twitter仲間からの情報でここ最近知ったありさまである。

Wikipediaを読み、存在していた過去を知る事が出来た。

大変デリケートな問題なので敢えて公にしなかった出来なかったのであろう。

戦時下だったから起きた事だと言うのは否めないが、只ひとつ言える事は闇にまぎれて、そう言う事を犯した朝鮮、支那の民族度の低さ醜さが改めて分かった。

又、朝鮮、支那人に犯された女性の気持ちを考えると尚更、朝鮮、支那人を許せない。

Wikipediaを引用し概要を記します。



二日市保養所



二日市保養所は福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。



ここでは、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った。

終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。

追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。

これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。

そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出た。

釜山日本人世話会による1945年(昭和20年)12月 - 1946年(昭和21年)3月の調査では、調査対象者885人のうち、レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が示された。

在外同胞援護会救療部では、引揚船に医師を派遣し、引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。

こういう経緯で、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった。


二日市保養所は、かつての愛国婦人会の保養所だったところである。

小さい部屋に分かれていたので、プライバシーが保てる病室に最適で、皮膚疾患によい温泉も湧き出ていた。

そして何よりも交通の便がよいが、人目に触れにくい場所であることから選定された


麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの堕胎手術が行われ、死者も少なからず出た。


二日市保養所は、優生保護法の施行にともない、1947年(昭和22年)秋頃に閉鎖した。

保養所の主務官庁である引揚援護庁は1954年(昭和29年)まで存続した。




千鳥ヶ淵 戦没者墓苑

2016-02-19 19:30:45 | その他
千鳥ケ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)は日本の戦没者慰霊施設で第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置しています。



東京都千代田区の千鳥ヶ淵のほとりに立地しています。



昭和天皇から下賜された骨壺に各地の遺骨を少しずつ納め、それを全戦没者の象徴として六角堂に安置されています。





2013年5月の時点で、35万8260柱の遺骨が安置されているとの事です。

近くに寄られた際は是非とも拝礼に行かれる事をお勧めします。


(住所)

東京都千代田区三番町2番地

地下鉄 九段下から歩いて行けます

*靖国神社の近くです


(一般の拝礼公開時間)

4月から9月にかけては午前9時から午後5時

10月から3月にかけては午前9時から午後4時


1945年硫黄島の戦い

2016-02-18 22:13:26 | 歴史
この島は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200 kmに位置する。

活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で噴気が有り、噴出する火山ガスにより特有の臭いが立ち込めている。

島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成しているこの島名を「硫黄島」という。



硫黄島は大東亜戦争当時から日本の要として重要視されていた。

この島が占領されると日本本土が空爆可能になるからである。

硫黄島を巡る日本軍とアメリカ軍の攻防戦を

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい)

と言い1945年2月19日 ~1945年3月26日にかけて行われた。


硫黄島の戦い概要

1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定として、同年12月20日にフィリピンのレイテ島(のちのレイテ島の戦い)に上陸、翌1945年2月20日にはルソン島(のちのルソン島の戦い)もしくは3月1日に台湾上陸、との作戦計画を立案したが、台湾か沖縄かはこの時点では決定されていなかった。

しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部ではすでに1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。


レイテ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫したため戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。

その中、陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(のちの沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。

これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。

上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本陸軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。

日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。

一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。

大東亜戦争、後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦いや沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。

背景


日本軍は1941年12月の大東亜戦争開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。

1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領しトラック島へ大規模空襲を行い、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力を粉砕した。

日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定した。

防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。

1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し(マリアナ・パラオ諸島の戦い)、11月以降、従来は中国大陸から行っていたB-29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を同地から開始した(日本本土空襲)。

しかし、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張り、無線電信で報告する早期警戒システム(防空監視所)の監視拠点として機能していた。

特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。

これにより、日本軍は本土上空で戦闘機をB-29迎撃に向かわせることができた。

そして、しばしば日本軍の爆撃機・四式重爆撃機「飛龍」や銀河、一式陸上攻撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島にある飛行場を急襲し、地上で駐機中のB-29に損害を与えていた。

そのため、アメリカ統合参謀本部は、爆撃機の中間着陸場の確保、爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保、日本軍航空機の攻撃基地の撃滅、日本軍の早期警報システムの破壊、硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消等を目的として、硫黄島の占領を決定した。

日本軍の編成

1944年5月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。

当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した。

硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した。

制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であったが、栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をし、島の全面的な要塞化が立案された。

地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになり、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。

この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、また砲隊を中心に増強され秘密兵器のロケット砲隊も配備された。


そして栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長28kmの坑道構築を計画した。

栗林中条、自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。

栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。

摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。

1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。

釜山へ移動していた戦車第26連隊も配備された。

連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車、計28両からなっていた。

26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「コビア」によって撃沈された。このときの連隊の戦死者は2名だけだったが戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともにすべて海没した。


アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。

最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。


栗林中将は防御戦術を練っていた。

水際防衛で対抗すべしという当時の原則もあったが栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた。

栗林中将の採用した戦術は

アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。

アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。

上陸された際、水際では抵抗を行わない。

上陸部隊が一旦約500m内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。

上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。


火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。

1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。

兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。


また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。



(日米戦力比)

日本軍
約2万2千名

アメリカ軍
約11万名


戦闘の経過

1945年2月16日

アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。

新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で各受け持ち地区を砲撃した。

そして、これに付随した護衛空母の艦載機は弾着観測と個別陣地の撃破を行なった。通常弾はほとんど効果がないことから、ロケット弾が多用されるにいたった。

効果ありと判断したアメリカ軍は、これにより、歩兵を乗せた12隻の上陸用舟艇が東岸に移動した。

すると、摺鉢山の海軍管轄の海岸砲が舟艇を砲撃し9隻を行動不能にし、3隻が大破した。

この攻撃により重砲陣地の場所を知ったアメリカ軍は摺鉢山の海岸砲陣地に対して戦艦「ネバダ」より艦砲射撃を行い摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を失った。

2月17日

機雷や暗礁などの障害物を調査するため、掃海艇と武装舟艇 が東海岸に接近した。

さらに、アメリカ海軍水中爆破処理隊 は東海岸へ一時上陸し、上述の上陸地点を示す小旗を砂浜に立てて撤収した。

2月19日

午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による銃爆撃に交代、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。

9時、米海兵師団の第1波が上陸を開始した。

水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。

だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。

午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。柔らかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたためたちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出した。

これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がなかった。

19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。

夕方までに海兵隊30,000名が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ではあるが、突進して西海岸に到達する将兵も現れた。

海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えたが、日本兵は来なかった。

日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃であり、アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の一部がこの攻撃により炎上し損害を受けた。

しかし、それも海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本兵が徐々に増えていった。

この夜襲は日本軍にとっても死傷率の高い作戦であり、所属部隊が全滅後に他の隊と合流した将兵や、陸戦に慣れていない海軍兵が主に指名された



2月20日

準備砲爆撃の後、第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。

海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と島の中央部に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断された。

摺鉢山の日本軍は摺鉢山地区隊が守備にあたっており、その斜面は1mごとが戦闘の連続だった。

砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進し、日本軍では摺鉢山守備隊長の厚地兼彦陸軍大佐が戦死した。




2月21日

予備兵力の第3海兵師団が上陸する。

同日、千葉県香取基地から出撃した爆撃機・彗星12機、攻撃機・天山8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。



この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。

同隊突入前に、木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔を撒いてレーダーを攪乱した。

御楯隊は艦隊の混乱に乗じ、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上、護衛空母「ルンガ・ポイント」と貨物船「ケーカック」損害などの戦果を挙げた

米艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む」と発信。

その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。

その後も、日本は陸軍航空部隊の四式重爆撃機「飛龍」や、海軍航空部隊の陸攻による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施している。


2月22日

元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。

摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。

アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。

2月23日

午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、2星条旗を掲揚した。


米軍はようやく攻撃開始7日目に擂鉢山山頂を制圧したが、擂鉢山付近での散発的な日本軍の抵抗はまだ継続していた。

2月24日

硫黄島に派遣された経験を持つ秋草鶴次によると早朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っているのを、玉名山から目撃したという。


2月25日

早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗がはためいていたため、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ていたのではないか、と秋草は推測して書いている。

その後の戦闘ののち、米軍によってもう一度星条旗が掲げられ、それが日章旗に代わることはもうなかったという。

硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。

24日から26日にかけ、海兵隊は元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。


2月26日

摺鉢山を攻略したアメリカ軍は夕刻、元山飛行場を陥落した。

この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。

同日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された千島飛行場で観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。

元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。

混成第2旅団は元々練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練の下で強兵に生まれ変わっていた。

元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。

だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。

3月5日

栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。

3月7日

第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。


そして栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報である総括電報を発した。

水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。

暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻って来なかった。

3月14日

小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼する。

3月16日

16時過ぎ、栗林は大本営へ訣別電報を送っり詩をうたった

国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ


南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送した。

3月17日

アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達する。

この日、大本営よりその多大な功績を認められ同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊へ最後の指令が送られた。

戦車第26連隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19~21日頃に戦死したとされる。

3月25日

深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉の一式陸攻のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行った。

これが硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となった。


3月26日

17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。

栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。

この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥った。


アメリカ側では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。


栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。



一説には、突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされている。


米海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、栗林は軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用・所有者の階級や職が把握できる物を外して最後の総攻撃を率いていたため、見つけることはできなかった。

これを以って、日本軍の組織的戦闘は終結した。

しかし、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いている。


3月15日

アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。

3月21日

日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。



硫黄島の奪取によってアメリカ軍は

4月7日

硫黄島の米陸軍戦闘機P-51が初めてB-29を護衛。

目標は中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)



組織的な戦闘が終わり島の大部分がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。

生き残った日本兵が地下陣地に潜伏しており、アメリカ軍は投降を促した。

生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降したが、拒否する日本兵もおり、アメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。

最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。

海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹 (38) と、岩手県出身の二等兵曹 (25) であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。

1949年1月22日

この元日本兵2名は羽田空港に帰国した。

その後、二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記を取りに戻りたい」とアメリカ軍に申し出て
5月7日
再びアメリカ軍機に乗って硫黄島へと戻った。

ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。

この二等兵曹は日本に帰国したあと周辺の者に
「生きて返ってきて申し訳ない」

「硫黄島へ日記を取りに行って見つからなかったら日本へは戻らない」


などと漏らしていたことから自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察された。

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。

捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までに併せて1,023名であった。

アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。

硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなった。


1985年(昭和60年)2月19日

硫黄島において、日米双方の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。

かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。

この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」



2015年(平成27年)4月30日

安倍晋三首相のアメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、かつて海兵隊大尉として戦闘に参加したローレンス・スノーデン(英語版)退役中将と栗林大将の孫である新藤義孝衆議院議員が握手を交わし、安倍首相は「歴史の奇跡」と紹介し両国の和解を象徴した。

また、スノーデン退役中将は硫黄島の合同慰霊祭に頻繁に出席し、「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」とコメントしている。

1945年(昭和20年)1月まで海軍の硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防衛戦術に関して栗林中将と対立し更迭、アメリカ軍上陸前に本土へ送り返されていた。

戦後、和智は天台宗の僧となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦いにおける戦没者の供養と遺骨収容とに取り組んだ。

2005年(平成17年)6月19日

小泉純一郎内閣総理大臣が、現職首相として初めて硫黄島を訪問し、政府主催の戦没者追悼式に出席した。

同追悼式は、終戦後60年を記念して「硫黄島戦没者の碑」の改修が3月に完了したことから、工事完了式典を兼ねて行われたものである。

日本側の戦死者約21,900人のうち遺骨が回収されたのは2008年(平成20年)3月時点で8,638人である。

平成28年現在
未だ硫黄島に約1万柱の英霊が残された状況である。

私達が今ここに存在している意味を考えれば何よりも先に1柱でも多く我が祖国へ我が大地へお迎えする事は日本国政府、そして日本人の責務であると考える。


現実的な問題として手間暇、費用がかかるが、少なくても、それを成し遂げる姿勢が無ければ英霊は報われない。









天皇125代の足跡(58代)

2016-02-11 13:03:57 | その他
第58代 光孝天皇(こうこうてんのう)


生没 : 天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)

在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))

諱は時康(ときやす)

仁明天皇の第三皇子で母は藤原総継の娘沢子

藤原基経に擁立されて884年に即位した

光孝天皇は先帝と異なり小松殿にあって華美を好まず質素にして毅然とした人物であったという

ただ、政治は摂政藤原基経にすべてを託し関心がなかった
藤原基経を関白に任じる




陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている