第26代 継体天皇(けいたいてんのう)
和諡 : 男大迹王(おおどのみこと)
生没 : 允恭天皇39年(450年)~継体天皇25年2月7日(531年)3月10日
在位 : 継体天皇元年2月4日(507年3月3日) ~同25年2月7日(531年3月10日)
磐井の乱を鎮圧し王朝をかためた
継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた
継体天皇は即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った
しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している
日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している
531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した
ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった
男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした
これが現在の足羽神社である
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳(前方後円墳)
第27代 安閑天皇(あんかんてんのう)
在位 : 継体天皇25年2月7日(531年3月10日)~安閑天皇4年12月17日(536年1月25日)
和諡 : 広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)
在位 : 継体天皇25年2月7日(531年)~安閑天皇4年12月17日(536年)
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した
安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている
なお、『日本書紀』に引く「百済本記」によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという
このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある
陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
形式は前方後円
第28代 宣化天皇(せんかてんのう)
在位:宣化天皇元年12月18日(536年)~宣化天皇4年2月10日
和諡 : 武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)
初めて蘇我氏を大臣に起用した
継体天皇の第2子
先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した
筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った
即位元年(536年)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる
高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い
また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変仮説)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる
人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵、むさのつきさかのえのみささぎ)
前方後円
第29代 欽明天皇(きんめいてんのう)
生没 : 継体天皇3年(509年)~欽明天皇32年4月15日(571年)
在位 : 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)~欽明天皇32年(571年)4月15日
和諡 : 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
継体天皇と手白香皇女との間の息子
父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれた傍系の出自であった
このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった
従って、継体天皇は即位までの妃と間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた
宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった
なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さらに欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる
百済の聖明王の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう
これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する
同年高句麗にも軍を送っている
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという
陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵、ひのくまのさかあいのみささぎ)
形式は前方後円
第30代 敏達天皇(びだつてんのう)
在位 : 敏達天皇元年4月3日(572年)~同14年8月15日(585年)
和諡 : 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)
欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている
また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年?)に宮大工の集団として発足したと伝わっている
敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた
崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた
その年の8月15日(585年9月14日?)病が重くなり崩御した
仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された
陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町大字太子にある河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
形式は前方後円
和諡 : 男大迹王(おおどのみこと)
生没 : 允恭天皇39年(450年)~継体天皇25年2月7日(531年)3月10日
在位 : 継体天皇元年2月4日(507年3月3日) ~同25年2月7日(531年3月10日)
磐井の乱を鎮圧し王朝をかためた
継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた
継体天皇は即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った
しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している
日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している
531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した
ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった
男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした
これが現在の足羽神社である
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳(前方後円墳)
第27代 安閑天皇(あんかんてんのう)
在位 : 継体天皇25年2月7日(531年3月10日)~安閑天皇4年12月17日(536年1月25日)
和諡 : 広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)
在位 : 継体天皇25年2月7日(531年)~安閑天皇4年12月17日(536年)
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した
安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている
なお、『日本書紀』に引く「百済本記」によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという
このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある
陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
形式は前方後円
第28代 宣化天皇(せんかてんのう)
在位:宣化天皇元年12月18日(536年)~宣化天皇4年2月10日
和諡 : 武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)
初めて蘇我氏を大臣に起用した
継体天皇の第2子
先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した
筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った
即位元年(536年)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる
高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い
また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変仮説)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる
人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵、むさのつきさかのえのみささぎ)
前方後円
第29代 欽明天皇(きんめいてんのう)
生没 : 継体天皇3年(509年)~欽明天皇32年4月15日(571年)
在位 : 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)~欽明天皇32年(571年)4月15日
和諡 : 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
継体天皇と手白香皇女との間の息子
父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれた傍系の出自であった
このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった
従って、継体天皇は即位までの妃と間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた
宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった
なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さらに欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる
百済の聖明王の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう
これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する
同年高句麗にも軍を送っている
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという
陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵、ひのくまのさかあいのみささぎ)
形式は前方後円
第30代 敏達天皇(びだつてんのう)
在位 : 敏達天皇元年4月3日(572年)~同14年8月15日(585年)
和諡 : 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)
欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている
また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年?)に宮大工の集団として発足したと伝わっている
敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた
崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた
その年の8月15日(585年9月14日?)病が重くなり崩御した
仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された
陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町大字太子にある河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
形式は前方後円