高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

手紙

2016-10-03 21:56:19 | その他

前略

早いもので秋の虫も寝いいる時期となりました。

如何お過ごしでしょうか。

私は相も変わらず過ごしております。


年をとったせいでしょうか……幼き日々の事が夢や脳裏に浮かびます。

年はとりましたが、あの日の気持ちや思いは心に刻んで居るつもりであります。


まだまだ若輩者ではありますが、我が子へそれを伝える事で感謝の意に表したいと考えております。

何卒ご自愛賜りたく存じ上げます。

草々

二千六百七十六年 十月(神無月)三日





史観

2016-09-25 21:02:06 | その他

史観とは歴史を全体的に把握し、解釈するときの基礎的な立場・考え方である。

歴史観を養う為には様々な観点から己を、そして他人を見る必要があります。

如何に史観を唱え子孫へ伝えて行くか、、大変難しい事だと思いますが、日本国民として軸となる史観を持つ事が大切だと思います。

以下、引用元 :ようこそDr.町田さん




「三つの史観」

現在の日本において、歴史に対する見方には大雑把に三つの史観がある。

三つの史観とは、1進歩的史観 2司馬史観 3自由主義史観である。

1進歩的史観

この史観はもともとマルクス主義学者が唱えていたものである。彼らは戦後、進歩派とか進歩的知識人などと呼ばれたためにこの名がある。

そもそもマルクス主義においては人間の歴史というものは未来に向かって常に進歩しているものだ、と捉える。原始共産制から始まり、封建制、絶対王政、資本主義、帝国主義、と続いて最後には暴力革命が起こり、共産主義に必然的に到達すると考える。全世界が共産主義社会となったとき、人類の進歩はそれ以上は不要となり、貧乏人も金持ちもなく、人は誰に対してもやさしくなり、もちろん戦争などの争いごとはまったくなくなる理想社会が訪れると考えるのである。このマルクス主義の考えをベースにして進歩的史観は以下のようなものとなる。

 人間というものは歴史をさかのぼればさかのぼるほど悲惨な生活をしていた。たとえば江戸時代の庶民の生活は苛斂誅求にあえぎ、秋霜烈日なる権力の行使におびえ、生きるか死ぬかのぎりぎりの生活を強いられていた。明治になってもこの傾向は変わらず、善良ではあるが社会構造の矛盾により貧乏生活を余儀なくされた庶民は相変わらず悲惨なな生活を強いられていた。

 明治の後半に日露戦争が勃発したが、その原因はいうまでもなく日本の帝国主義である。日本の侵略主義的発想が中国大陸への軍の派遣となった。したがって日露戦争は明らかに侵略戦争である。日露戦争後の歴史はさらに侵略主義的様相を深めたが、いうまでもなくその頂点は太平洋戦争である。あれも無論日本による侵略戦争である。そして太平洋戦争は一部の権力者が自らの体制を維持するために起こしたもの、と考える。庶民は戦争なんぞ望んでいない、戦争の責任は一部の権力者のみにある。(この考えは東京裁判を行った連合軍側の考えとたまたま一致している。そのために進歩的史観はまた「東京裁判史観」とも呼ばれている訳だ)

 太平洋戦争が終わって後、やっと日本の近現代史は明るくなる。本当は昭和20年代に共産主義革命が起こり、天皇制も廃止にして欲しかったが、権力の横暴により残念ながらそれはならなかった。(本当は革命が必要であったが、権力がそれを阻止した。そのために日本は資本主義社会であり続けることを余儀なくされた)

以上が進歩的史観の骨子である。

 この考えは戦後の日教組の台頭も相俟って、戦後の日本の教育界を大きく支配した。たとえば皆さんは中学、高校の頃、日露戦争のことを習ったと思うが、その時に東郷平八郎や児玉源太郎、乃木希典といった日露戦争の英雄達の人名を習っただろうか?。私は習った記憶はない。その代わりに教科書に必ず出ていたのが与謝野晶子の有名な「君死にたもうなかれ」の反戦歌と内村鑑三の反戦思想である。これなんぞは「日露戦争は侵略戦争であった」と間接的に教えているようなものである。

 進歩的史観はこうして戦後の日本の歴史教育に大きなバイアスをかけていたのである。私はいつも歴史を習っていて明治から太平洋戦争までの暗い記述を見てうんざりしていた記憶がある。太平洋戦争が終わってやっと日本という国はまともな国になったんだなあ、と子供心に思っていた。

2司馬史観

 こうした戦後日本に支配的であった歴史観をくつがえしたのが司馬史観である。司馬遼太郎氏は特に明治の日本を明るく描いた。私も大人になってから司馬氏の著作を読むようになり

「そうか、明治の日本というのはこんなに明るく楽しい社会だったんだ、それでは自分がこれまで受けてきた歴史教育というのは一体なんだったんだろう」

とハタと気づいた次第である。

司馬史観は以下のようなものである。

 日露戦争までの明治という時代は日本の歴史の中でもよい時代であった。明治維新により中央集権国家が確立し、富国強兵にはげみ、日本という国家は東洋の一小国から世界の列強に肩を並べるまでになった。(ずいぶん無理もしたが)確かに庶民の生活はまだまだ貧しかったが、それはマルクス主義者が考えるように支配階級が搾取をしていたためというよりは、日本の国富自体が少なかったのだ。乏しきを憂えず、等しからざるを憂える、という。皆貧乏ではあったが、国家を強くするために国民一丸となって頑張っていたのが日露戦争までの明治の時代であった。

 しかし日本の発展につれて特に当時極東に食指を伸ばしつつあったロシアとの対立は必然であった。当時の日本人は朝鮮半島が日本の生命線であると考えていたが、それは当時の国際情勢をみればやむを得ないことであった。いかにしても挑戦半島にロシアの勢力をいれてはならなかった。しかるにロシアは朝鮮半島に入ってこようとする。どうしてもこれと戦わざるを得なかった。したがって日露戦争は侵略戦争などではなく、防衛戦争であった。(司馬氏は日本がロシアの言うがままになっていたら私の名前も何とかスキーとなっていただろう、と書いている)

 しかし日露戦争後に日本人は変質する。大国ロシアに勝ったおごりも相俟って調子に乗ってしまった。その象徴がポーツマス条約締結後に起こった日比谷焼き討ち事件である。そしてついに中国大陸にちょっかいをだすようになった。結局中国大陸に大きな利権を持っていたアングロサクソン(米英)と対立するようになり、太平洋戦争を始めてしまった。したがって太平洋戦争は侵略戦争である。すなわち日本の歴史においては日露戦争後から昭和20年の敗戦までは突然変異的におかしな国家になっていた。太平洋戦争後はまた明治期のよい日本に戻り、反映を続けた。

 以上が司馬史観の骨子である。特に敗戦までの昭和の20年間の歴史のみが悪い時代であった、とするのが司馬史観の眼目である。さらに司馬史観の特徴は進歩的史観のように太平洋戦争の勃発の原因を特定の権力者のみに帰することなく、国民全体の責任としていることである。

 昭和40年代に入り、司馬氏の代表作「坂の上の雲」が発表された後、特にこの司馬史観は日本を支えるサラリーマン層に支持された。「明治は明るいよい時代であった」という彼の史観は進歩的史観に毒されて育った世代からは熱烈に歓迎されたのである。私もまた司馬氏の著作を読み、前述の如く、目の前の雲が晴れたような思いをしたものである。

3自由主義史観

 最近になり、さらに自由主義史観というものが出てきた。藤岡信勝氏や渡辺昇一氏の考えなどがその代表である。この史観の骨子では明治以来の日本というのは一貫して悪いものではなかった、日露戦争は無論のこと太平洋戦争もまた防衛戦争であった、ということになる。無論1911年の韓国併合も諸外国が認めた合法的なものであり、当時の世界情勢から判断すればやむを得ない行為であったとする。南京大虐殺などは当然ながら存在しない、盧溝橋事件は中国共産党の挑発である、云々となる。

 この自由主義史観が最近になって出てきた背景にはやはりソ連の崩壊などにより、左翼勢力が弱まってきたことがあるだろう。戦後、日教組を始めとする強い左翼勢力に教育現場が牛耳られてきた。しかし世界での共産主義勢力の退潮傾向により、そうした歴史教育に不満を抱いていた層の不満が一挙に攻勢に出てきた、と見るべきであろう。すなわち最近になっていきなりこうした史観が生まれたのではなく、潜在していた史観が顕在化してきた、と見るべきではないかと思う。今後この自由主義史観がどれほど勢力を拡大するかは不明であるが、明らかに戦前の皇国史観(要するに日本は天皇陛下が支配する神風の国だ、という史観)とは一線を引いているようだし、一つの史観としての健全な発展が望まれる。(なおこの自由主義史観は、提唱者の藤岡信勝氏によれば、必ずしも日露戦争~大東亜戦争間の日本の歴史を肯定するものではなく、むしろ司馬史観に近いものである、とのことであるが、実際にはこの史観は提唱者の概念を離れ、一人歩きしている感がある。そのために、ここでは世間一般で考えられている「自由史観」をもってその概念とした。)

4それぞれの史観
史観というのは人一人一人が自由に持つものであるべきである。どれか一つの史観を他人に強制してはいけない。特にまだ価値判断のできない中、高校生に特定の史観を強いてきたこれまでの日教組を始めとする歴史教育のあり方はやはり問題であったと思う。難しいことかもしれないが歴史教科書は特定の史観に偏ることのない記述が求められるし、教える教師もまた自らの史観を押しつけるような教え方は厳につつしむべきであろう。

 高校の歴史の勉強が暗記偏重となり、無味乾燥なものとなってしまってもそれはそれで仕方がないと思う。「南京大虐殺を考える」式の結果的には特定の史観を押し付けるような歴史教育よりは価値判断のない暗記詰め込み教育のほうがまだよっぽど子供にとってはよい結果をもたらすと考える。

もう一つの歴史観=町田史観

 これは筆者が唱える史観である。筆者(町田)は、司馬史観に修正を加える。すなわち、日露戦争から満州事変までの歴史は肯定できるが、日華事変より大東亜戦争戦争までの歴史は否定的である。

 満州国建国は、当時の日本にとってはやむを得ない選択であった。当時、世界経済はブロック経済となり、日本は世界市場から締め出されていた。どうしても、手近な場所に、大きな市場が必要であった。さらにまた、南下してくるロシアを防ぐためにも、この地にはどうしても防波堤が必要であった。

 当時、満州には中国の国家主権はおよんでいなかった。”無主の地”であったのである。したがって、この地に国家を建設することは、国際法上、主権侵害とはなり得なかった。

 本来ならば、この地には米国資本が入っているはずであった。日露戦争の後に、米国の鉄道王ハリマンが、満鉄の共同経営を持ちかけていた。日本はこの提案を蹴ってしまったが、もしもそれを受け入れていれば、日本は平和的に米国と取引をし、あえて危険を冒してこのような国家を作る必要もなかったであろう。

 満州国は傀儡政権と戦後よく言われるが、この国を作った首謀者である石原莞爾は、まったくそのようなことは考えていなかった。彼は「五族協和」を唱え、あくまでも独立国として満州国を考えていた。政府中枢に日本人が多かったのは、人材の質の面からして、やむを得なかったのであろう。

 もしも日本が大陸進出を満州国に止めておいたら、大東亜戦争が生起することはなかったと思う。日本は満州国と対等な貿易をし、満州から必要な天然資源などを輸入し、工業製品などを輸出しただろう。

 リットン調査団では否定的評価を受けた満州国であるが、それは英米からの見方であり、公平な評価とはとうてい思えない。日本が大陸に軍事的野心を持たず、満州国と対等かつ平和的外交を行なっていれば(つまり石原莞爾が企図したこと)、おそらく早晩、英米もまた、満州国を承認せざるを得なくなったであろう。また、石原らが建国のために行なった強引なやり方もまた、チャラになっただろう。(英米だって、過去には相当アクドイことをして、植民地を作っていったのだから。日本は植民地を作ったわけではないので、その点だけとっても、英米に何かいわれる筋合いはない)

 このように、当時の日本の国益や世界情勢を考えれば、満州国建国は、後世言われているような軍事侵略では決してなかった。問題はそれ以後である。

 残念ながら日本は石原莞爾の制止を振りきり、中国の主権侵害をしてしまった。ここより日中は戦争状態に入る。そして泥沼化・・・。日本は蒋介石と敵対し、彼を支援する英米とも対立関係になってしまった。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

2016-08-31 12:34:42 | その他




天照大御神(あまてらすおおみかみ)

太陽、光、慈愛、真実、秩序を象徴する最も尊い神さまです。

弟の須佐之男命(すさのおのみこと)のあまりにも乱暴な行いを悲しまれた天照大御神が天岩戸(あまのいわと)にお隠れになった時、世の中は光を失い闇の世界となり、作物も育たず、秩序も失われたといわれています。

天照大御神は、現在の天皇さまのご祖先であり、全ての国民の祖神(おやがみ)さまとして伊勢の神宮(内宮)におまつりされています。


悪魔の見分け方

2016-08-26 10:30:13 | その他
悪魔は「排除」の対象です。

悪魔は「差別」しなければなりません。「区別」も必要です。


【悪魔界発の輩(やから)の特徴】
月刊『玉響』2015年6月号P36より


1 自分本位
2 正義装って周囲を巻き込み、集団を作って悪いことをする。
3 欲望、特に金銭欲が異常なまでに強い

4 嘘をつくことをなんとも思わない
5 自分に不都合になると、必ず理屈に合わない難癖をつける
6 驚くほど心の中が冷たい

7 相手のちょっとした欠点をあげつらって仮借ない攻撃をする。
8 しつこい
9 問題を都合よくすり替える

10 他人の不幸が喜び
11 考えが表面的で深みが「全く」ない
12 自分への反省がまったくない

13 他人の悪口が大好き
14 電話魔
15 言葉遣いが汚い

16 固定観念の塊
17 ちょっと御しやすいとわかると、調子に乗って傲慢で支配的な態度に出る
18 根本的に品格がない(下品)

かような特徴を持つのが悪魔界発人間である。
いっけん紳士風に、または淑女風に振る舞うが、少し深く付き合うと、言葉の汚さや態度のあまりの悪さに驚くであろう。
それゆえしばらく付き合うと判別がつくが、人が良すぎると長々と付き合ってしまいたいへんなことになってから気づく人もよくいる。

韓国 初代大統領 李 承晩(り・しょうばん)

2016-08-16 08:56:10 | その他

韓国 初代大統領 李 承晩
(り・しょうばん、イ・スンマン)のです。

〇1948年(昭和23年)8月15日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。

亡くなったのが1960年なので最近の人です。

日本人から見ると滅茶苦茶な人です。私は
李 承晩 は中共と変わりなく思えます。

虐殺の連続です。此奴の虐殺、差別行為が原因で済州島から日本へ逃れてきた朝鮮人が帰化し、また在日韓国人となり反日行為をおこなっていると言っても過言ではありません。

竹島についても1952年(昭和27年)1月18日 、
海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを勝手に設定し独島として主張しています。

韓国の反日政策は李承晩が自らの経歴を打ち消すが為に旧日本軍や日本政府を悪と位置づけ韓国人を洗脳したのです。

反日教育、反日政策の祖がこの李承晩です。

信じられないくらいの外道、下衆です。




Wikipediaをそのまま引用しました。

略年表

〇1875年3月26日 - 黄海道開城市近郊の平山郡馬山面大慶里(現・黄海南道峰泉郡)にて生誕。
桃洞書堂で漢学を学ぶ。

〇1896年(明治29年)- アメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した培材学堂で学び始める。

〇1896年 - 徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わる。

〇1897年(明治30年) - 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。投獄中にプロテスタントの監理教会派に入信。

〇1904年(明治37年) - 特赦による出獄後、アメリカ合衆国に渡る。

〇1907年(明治40年) - ジョージ・ワシントン大学で学士号取得。

〇1908年(明治41年) - ハーバード大学卒で修士号取得。

〇1910年(明治43年) - プリンストン大学で政治学博士号取得。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する。

〇1911年(明治44年) - 寺内正毅朝鮮総督暗殺計画に連座して投獄される。

〇1912年(明治45年) - アメリカ合衆国に亡命。

〇1919年(大正8年) - 中華民国の上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンD.C.に欧米委員部設立。

〇1920年(大正9年) - 大韓民国臨時政府大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。

〇1933年(昭和8年) - 満州事変を討議する国際連盟総会に大韓民国臨時政府全権代表として出席。

〇1934年(昭和9年) - オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。

〇1941年 -『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。

〇1945年(昭和20年)10月 - 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。

〇1946年 2月 - 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。


〇1948年(昭和23年)4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。

〇1948年(昭和23年)8月15日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。

〇1948年(昭和23年)10月 - 連合国軍占領下の日本を非公式訪問(ダグラス・マッカーサーGHQ司令官などとの会談のため)。


〇1948年(昭和23年)10月27日 - 麗水・順天事件反乱鎮圧。

〇1948年(昭和23年)12月1日 - 国家保安法を制定。

〇1949年(昭和24年)12月24日 - 聞慶虐殺事件。

〇1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。

〇1950年(昭和25年)6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺(保導連盟事件)。

〇1951年(昭和26年)1月 - 前線で戦闘中の将兵の物資を転売し着服(国民防衛軍事件)。

〇1952年(昭和27年)1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。

〇1952年(昭和27年)5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。

〇1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副には野党の張勉が当選。

〇1958年(昭和33年) - 進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。

〇1959年(昭和34年) - 新潟日赤センター爆破未遂事件。

〇1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。

〇1965年(昭和40年)7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。





済州島 四・三事件です。

これもWikipediaをそのまま引用しました。

済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。

また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。

また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。

(背景)

済州島民の蜂起と韓国による鎮圧

1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。

済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が多数生じることとなった。

済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。

これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。

韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている。

1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。

1949年12月24日には、韓国本土で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した。

1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。

また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。

海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。

歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。

韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。

日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。

日本へ逃れた島民は大阪などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは韓国人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。

この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範氏は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては市民団体の妨害もあった。