高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

天皇125代の足跡(21代~25代)

2015-08-30 11:34:17 | その他
第21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

和諡 : 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)


陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)公式形式は円丘







生没 : 418年~479年

在位 : 安康天皇3年(456年)11月13日 ~雄略天皇23年(479年)8月7日

允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子

気性が荒かった天皇のようです



日本書紀では



” 朝(あした)に見(まみ)ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され ”

と記してある

吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進めた

さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした


第22代 清寧天皇(せいねいてんのう)





在位:清寧天皇元年1月15日 ~同5年1月16日

和諡 : 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

雄略天皇の第三子

御名の「白髪皇子」の通り、アルビノで生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという



雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位

皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる

翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした

5年正月に崩御した

陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に治定されている
公式形式は前方後円



第23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)





在位 : 顕宗天皇元年1月1日~同3年4月25日

和諡 : 弘計尊(をけのみこと)

安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した

丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた

清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした

子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした

清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否

皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する

引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない

罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる

同3年4月25日、崩御




陵(みささぎ)は、奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)

公式形式は前方後円

第24代 仁賢天皇(にんけんてんのう)





生没 : 允恭天皇38年(449年)~仁賢天皇11年(498年)8月8日

在位:仁賢天皇元年1月5日~同11年8月8日

和諡 : 億計天皇(おけのすめらみこと)、大石尊(おおしのみこと)

仇の雄略天皇の娘を皇后にした

安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした

清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた
4月に億計王が皇太子となった

同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した
翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した

これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した
3年2月に石上部(いそのかみべ)舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた
また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いた
仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から

「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」

と評された

7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御した

陵(みささぎ)は、大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)形式は前方後円



第25代 武烈天皇武烈天皇(ぶれつてんのう)



ちょっと怖い天皇でした



生没 : 仁賢天皇2年(489年)~武烈天皇8年(506年)12月8日

在位 : 仁賢天皇11年12月~武烈天皇8年12月8日

和諡 : 小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)


仁賢天皇7年正月3日に立太子する

同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした

大伴金村などは、それを苦々しく思っていた

皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた

海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた

そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした

天皇には子がなかった
御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという

武烈天皇8年12月8日に、後嗣なく崩御した

陵 : 奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
形式は山形







続く またね









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