高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

熱田神宮 : 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)

2015-11-29 11:54:48 | 神社
二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)





お休み処「きよめ茶屋」の近くにあります

尾張名所図会(おわりめいしょずえ)や名古屋甚句(なごやじんく)で名高く、板石が25枚並んでいるところからこの名がついています

昔は熱田神宮の周りのお堀に架かっていた橋だそうで西行法師がこの橋で休んだという言い伝えもあるようです

名古屋では最古の石橋といわれております

熱田神宮(信長塀)

2015-11-23 15:50:23 | 神社
今日(2015年11月23日)は新嘗祭で熱田神宮へ参拝に行きました

七五三参拝や神前挙式などで賑わっていました

熱田神宮について何回かに分けて紹介します

今回は【信長塀】です


信長塀とは織田信長が熱田神宮に寄進した築地塀です

永禄3年(1560年)、押し寄せる今川義元の大軍を迎え撃つため、集結した劣勢な織田軍は熱田神宮に必勝祈願をしました

信長は、天才的な戦略と果敢な行動力で有名な
「桶狭間の戦い」に勝利をおさめました

このお礼として熱田神宮に築地塀(信長塀)を築造・奉納しました

塀は土と石灰を油で練り固め、瓦を積み重ねて、上部を桟瓦で葺いた優雅で重厚な形式です


目の前にあるこの塀が、かの織田信長が寄進した455年前のものだと思うと不思議な感じがしました

この塀の姿を江戸時代、明治、大正、昭和に生きた著名人達も見たかと思うと感慨深くなりました



天皇125代の足跡(56代~57代)

2015-11-22 15:01:21 | その他

第56代 清和天皇(せいわてんのう)


生没 : 嘉祥3年3月25日(850年5月10日)~元慶4年12月4日(881年1月7日)

在位 : 天安2年11月7日(858年12月15日)~貞観18年11月29日(876年12月18日)

諱は惟仁(これひと)

後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖



文徳天皇の第4皇子

母は藤原明子

父の死で,天安2年9歳で即位(最初の幼帝)した

母が補佐したが,実権は外祖父の藤原良房(よしふさ)ににぎられ,応天門の変(866)後,良房を摂政とする


貞観(じょうがん)18年27歳で譲位

元慶(がんぎょう)3年出家

陵 : 京都府京都市右京区嵯峨水尾清和にある水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)公式形式は円丘




第57代 陽成天皇(ようぜいてんのう)


生没 : 貞観10年12月16日(869年1月2日)~天暦3年9月29日(949年10月23日)

在位 : 貞観18年11月29日(876年12月18日)~元慶8年2月4日(884年3月4日)

諱は貞明(さだあき

清和天皇の第1皇子
母は藤原高子
父の譲位により9歳で即位した

母の兄で藤原良房の養子藤原基経(もとつね)が摂政となり,実権をにぎる

病弱の理由などで,17歳で譲位


【格言など】筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵(ふち)となりける(小倉百人一首)


陵(みささぎ)
京都府京都市左京区浄土寺真如町

神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)


天皇125代の足跡(53代~55代)

2015-11-08 15:43:22 | その他
第53代 淳和天皇(じゅんなてんのう)


生没:延暦5年(786年)~承和7年5月8日(840年6月11日)

在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日)~天長10年2月28日(833年3月22日)

和風諡号:日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)

桓武(かんむ)天皇の第3皇子

母は藤原旅子(たびこ)

平城(へいぜい)・嵯峨(さが)天皇の異母弟

嵯峨天皇の譲位をうけて即位した


良吏をえらび,勘解由使(かげゆし)を復活させるなど,政治を刷新し,令(りょう)の解釈を統一する「令義解(ぎげ)」をつくる

詩文にすぐれ「凌雲集」「経国集」などに多数の作品がある


陵(みささぎ): 大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)京都府京都市西京区大原野南春日町



第54代 仁明天皇(にんみょうてんのう)


生没 : 弘仁元年(810年) ~嘉祥3年3月21日(850年5月6日)

在位:天長10年3月6日(833年3月30日) ~嘉祥3年3月19日(850年5月4日)

和風諡号 : 日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)

嵯峨(さが)天皇の皇子で母は橘嘉智子(たちばなのかちこ)(檀林皇后)
淳和(じゅんな)天皇の譲位で即位した


淳和天皇の皇子恒貞(つねさだ)親王を皇太子としたが,伴健岑(とものこわみね),橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子を奉じて謀反をくわだてた(承和(じょうわ)の変)として廃し,子の道康親王を皇太子とした

【格言など】いつのまに厭ふ心をかつ見つつ蓮(はちす)にをるは我が身なるらむ「新拾遺和歌集」



陵(みささぎ): 京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)



第55代 文徳天皇(もんとくてんのう)


生没 : 天長4年8月(827年) ~天安2年8月27日(858年10月7日)

在位:嘉祥3年4月17日(850年5月31日) ~天安2年8月27日(858年10月7日)

諱 : 道康(みちやす)

仁明天皇を父とし,藤原冬嗣の女順子を母として生まれた


842年(承和9),嵯峨上皇の死を機として起こった承和の変によって皇太子恒貞親王が廃されたため,皇太子に立てられ,850年(嘉祥3)父仁明天皇の病死により位を譲られ即位した



しかし,藤原良房の強大な政治力によって,ほとんど天皇親政を行うことができず,その皇太子も,長子惟喬(これたか)親王の才能を愛したにもかかわらず,良房女明子の生んだ惟仁(これひと)親王(のち清和天皇)を立てざるをえなかった

陵 : 田邑陵(たむらのみささぎ)
京都府京都市右京区太秦三尾町


公式形式は円丘
考古学名は太秦三尾古墳。




天皇125代の足跡(51代~52代)

2015-11-07 15:59:55 | その他
第51代 : 平城天皇(へいぜいてんのう)


生没 : 宝亀5年8月15日(774年9月25日)~
弘仁15年7月7日(824年8月5日)

在位:延暦25年3月17日(806年4月9日)~大同4年4月1日(809年5月18日)

日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこ)

桓武天皇を父とし,藤原良継の女皇后乙牟漏(おとむろ)を母として生まれた

785年(延暦4)皇太弟早良(さわら)親王が藤原種継暗殺に連座して廃されたため皇太子となり,806年(大同1)即位した

父桓武天皇の平安京建設と蝦夷征討の大事業による国家財政の破綻を収拾するために,律令制の官司を大幅に整理し,地方の民情視察のため観察使を創設するなど政治に努めた


陵 : 奈良県奈良市佐紀町、楊梅陵(やまもものみささぎ)
公式形式は円丘。考古学名は市庭古墳。




第52代 : 嵯峨天皇(さがてんのう)

生没 : 延暦5年9月7日(786年10月3日)~
承和9年7月15日(842年8月24日)

在位:大同4年4月1日(809年5月18日)~
弘仁14年4月16日(823年5月29日)

諱は神野(賀美能・かみの)

桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれた

同母兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位


平城上皇が寵妃藤原薬子(くすこ)らとともに,多数の官人をひきいて平城旧京に移り,〈二所朝廷〉の観を呈したので,坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した

これを〈薬子の変〉という

以後,弘仁の14年間(810‐824),異母弟淳和天皇の天長の10年間(824‐834),皇后橘嘉智子(かちこ)との間に生まれた仁明天皇の承和9年に没するまでの計30余年は,皇室家父長としての嵯峨天(上)皇の権威のもとに,古代史にまれな政治的安定が出現し,弘仁文化と呼ばれる宮廷中心の文化が開花した


陵 : 嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町

公式形式は円丘