第53代 淳和天皇(じゅんなてんのう)
生没:延暦5年(786年)~承和7年5月8日(840年6月11日)
在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日)~天長10年2月28日(833年3月22日)
和風諡号:日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)
桓武(かんむ)天皇の第3皇子
母は藤原旅子(たびこ)
平城(へいぜい)・嵯峨(さが)天皇の異母弟
嵯峨天皇の譲位をうけて即位した
良吏をえらび,勘解由使(かげゆし)を復活させるなど,政治を刷新し,令(りょう)の解釈を統一する「令義解(ぎげ)」をつくる
詩文にすぐれ「凌雲集」「経国集」などに多数の作品がある
陵(みささぎ): 大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)京都府京都市西京区大原野南春日町
第54代 仁明天皇(にんみょうてんのう)
生没 : 弘仁元年(810年) ~嘉祥3年3月21日(850年5月6日)
在位:天長10年3月6日(833年3月30日) ~嘉祥3年3月19日(850年5月4日)
和風諡号 : 日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)
嵯峨(さが)天皇の皇子で母は橘嘉智子(たちばなのかちこ)(檀林皇后)
淳和(じゅんな)天皇の譲位で即位した
淳和天皇の皇子恒貞(つねさだ)親王を皇太子としたが,伴健岑(とものこわみね),橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子を奉じて謀反をくわだてた(承和(じょうわ)の変)として廃し,子の道康親王を皇太子とした
【格言など】いつのまに厭ふ心をかつ見つつ蓮(はちす)にをるは我が身なるらむ「新拾遺和歌集」
陵(みささぎ): 京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)
第55代 文徳天皇(もんとくてんのう)
生没 : 天長4年8月(827年) ~天安2年8月27日(858年10月7日)
在位:嘉祥3年4月17日(850年5月31日) ~天安2年8月27日(858年10月7日)
諱 : 道康(みちやす)
仁明天皇を父とし,藤原冬嗣の女順子を母として生まれた
842年(承和9),嵯峨上皇の死を機として起こった承和の変によって皇太子恒貞親王が廃されたため,皇太子に立てられ,850年(嘉祥3)父仁明天皇の病死により位を譲られ即位した
しかし,藤原良房の強大な政治力によって,ほとんど天皇親政を行うことができず,その皇太子も,長子惟喬(これたか)親王の才能を愛したにもかかわらず,良房女明子の生んだ惟仁(これひと)親王(のち清和天皇)を立てざるをえなかった
陵 : 田邑陵(たむらのみささぎ)
京都府京都市右京区太秦三尾町
公式形式は円丘
考古学名は太秦三尾古墳。