高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

実語教(じつごきょう)

2016-10-15 12:15:54 | 歴史



『実語教』


『実語教』は全部漢字で書かれていますが、国産です。

平安末期から約千年の間に、江戸時代には寺子屋を通じて広く庶民の間に浸透して、江戸中期にはほぼ日本の常識となっていました。

寺子屋は全国に五万校以上が存在したものと推計されています。現在の日本国人口約一億二千万人、小学校の数約22,500校に対し、江戸時代の最大人口が三千万人であるので、江戸時代の寺子屋数の多さが分かるかと思います。

どういうことかというと、誰もが暗誦できた、
暗誦していたということになります。


福沢諭吉翁は明治時代に
『学問のすゝめ』
を書いて、その中で

「実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」

と書いていますが、この文の元が実語教です。

実語教は日本人の価値観、道徳観の礎となった
教訓書であります。

実語教は難しい、とっつきにくい感覚が有りますが先に述べたように江戸時代には寺子屋へ通う子供達も理解、認識、暗誦していました。

そこで『実語教』を現代語訳を入れ、そのあとに原文と読み下し文を入れ、その内容を知って頂ければと思います。




【実語教】
 
山は高いから貴(たっと)いのではありません。
樹(き)があればこそ、それが貴い存在となります。

人は、太っているから貴いのではありません。
智があればこそ、それが貴い存在となります。

冨は一生の財産ですが、死んだらそれで終わりです。けれど智は、万代の財(たから)です。

なぜなら命が終わっても、魂に刻まれるからです。

玉(魂)は磨かなければ光りません。光りがなければ、石や瓦(かわら)と同じです。
その智は、学ばなければ得ることができません。
智の無い人を愚人といいます。


倉(くら)の財(たから)は朽ちてしまうことがありますが、心の財は朽ちることがありません。


たとえ千両の金(こがね)を積んでも、一日(いちにち)の学に及びません。


血を分けた兄弟でも、志が何時も同じとは限りませんが、智によって得られる慈悲の心は、天下の人々を兄弟とすることができます。


財物は、永遠のものではありません。
才智を財物とすれば、これは消えることはありません。


宇宙を成すのは地水火風の四大です。
それは日に日に衰えます。
ほっておけば魂(心神)も衰えるものです。
幼いうちから勤学しなければ(老いるほどに衰え)、歳をとってから悔いても遅いのです。


書に親しむことを倦(や)めてはいけません。

学文は、怠ってはなりません。
睡眠時間を削ってでも書を読み、食べる時間を削ってでも、終日(ひめもす)学び習いなさい。


たとえ良い師に出会ったとしても、自ら学ぶという姿勢がなければ徒(いたづら)にご近所さんと交わるのと同じで、無益です。


学問するとは言っても、繰り返し読むのでなければ、それは隣の家の財(たから)を数えるのと同じです。


君子(善人)は智者を愛します。

小人(悪人)は、カネを持つ者を愛します。


たとえ財があり、身分の高い人のに近づいて
カネを得ることがあったとしても、それは霜に花が咲くようなまぼろしにすぎません。


たとえ貧しくて賤(いや)しい家の出であったとしても、智の有る人は、宛(あたか)も泥中の蓮(はす)です。


父母は天地と同じです。

師君は日月(じつげつ)と同じです。

親族は、たとえていえば葦(あし)と同じです。

夫妻は雨露をしのぐ丈夫な瓦と同じです。


父母には朝夕に孝しなさい。

師君には昼夜に仕えなさい。

友と諍(あらそ)ってはなりません。

自分より目上の者には礼節と敬意をつくし、
自分より格下の者は、たいせつに思って常にかえりみなさい。


人として智がないということは、木や石に生まれたことと変わりません。

人として孝がない者は、畜生と同じです。


戒(いまし)めと定(さだ)めと恵(めぐみ)の三学の友と交わらなければ、どうして七学(正しい法・修行・真実・快さ・自由・集中・心)を持てましょう。

慈悲喜捨の四等(しとう)の船に乗らなくて、
誰か生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、欲求不満、心身苦しみの八苦の海を渡れましょう。


仏の道は広いけれど、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪の人は道にすら入れません。

極楽浄土の都に楽しむといっても、放縦の者は、そこに行くことはできません。


老人を敬うことは、父母を敬うことと同じです。
幼ない者を愛することは、子弟を愛することと同じです。


自分が他人を敬えば、他人もまた自分のことを敬ってくれます。

自分の親を敬えば、人もまたそれぞれの親を敬うようになります。


自分が立身したいなら、まず他人を立てなさい。


他人の愁(うれ)いを見たら、ともに憂いなさい。

他人の嘉(よろこ)びを聞いたなら、ともに悦びなさい。


善を見たら速やかに行き、悪を見たらすぐに避けなさい。

悪を好む者は禍(わざわい)を招きます。

それは、鐘を打てば響くのと同じです。


善を修行すれば、福がやってきます。

それは、自分の影が、自分の身に随うのと同じです。


冨んだとしても、貧しかったことを忘れてはいけません。始めは豊かでも、後には貧しくなることもあるのです。


地位を得ても、地位が低かったときのことを忘れてはなりません。
地位を得ても、それを失うこともあるのです。


芸事を極めることは難しく、しかも手を抜いたらすぐに技量が下がります。書道もまた同じです。


食べものは身を養いますが、その根源には法があります。身体があれば、そこには命があります。


常に百姓の辛苦を思いなさい。

そして必ず学問に努めなさい。


それゆえに初心の学者は、まずはこの実語教を暗誦しなさい。それが学問の始めであり、終身まで忘れてはならないことです。





【実語教】

(山高故不貴) 山高きが故に貴(たつと)からず

(以有樹為貴) 樹(き)有るを以て貴しとす


(人肥故不貴) 人肥へたるが故に貴からず

(以有智為貴) 智有るを以て貴しとす


(富是一生財) 冨は是(これ)一生の財(ざい)

(身滅即共滅) 身滅すれば即ち共に滅す


(智是万代財) 智は是万代の財(たから)

(命終即随行) 命終はれば即ち随つて行く


(玉不磨無光) 玉磨かざれば光無し

(無光為石瓦) 光無きを石瓦(いしかわら)とす


(人不学無智) 人学ばざれば智なし

(無智為愚人) 智無きを愚人とす


(倉内財有朽) 倉の内の財は朽つること有り

(身内才無朽) 身の内の才は朽つること無し


(雖積千両金) 千両の金(こがね)を積むと雖も

(不如一日学) 一日(いちにち)の学には如(し)かず


(兄弟常不合) 兄弟(けいてい)、常に合はず

(慈悲為兄弟) 慈悲を兄弟とす


(財物永不存) 財物、永く存せず

(才智為財物) 才智を財物とす


(四大日々衰) 四大、日々に衰へ、

(心神夜々暗) 心神(しんじん)、夜々(やや)に暗し


(幼時不勤学) 幼(いとけな)き時、勤学せざれば、

(老後雖恨悔) 老ひて後、恨み悔ゆと雖も、

(尚無有所益) 尚(なを)所益(しよゑき)有ること無し


(故読書勿倦) かるが故に書を読んで倦むことなかれ

(学文勿怠時) 学文に怠る時なかれ

(除眠通夜誦) 眠りを除いて通夜(よもすがら)誦(じゆ)せよ

(忍飢終日習) 飢へを忍んで終日(ひめもす)習へ


(雖会師不学) 師に会ふと雖も、学ばざれば、

(徒如向市人) 徒(いたづら)に市人(いちびと)に向ふが如し

(雖習読不復) 習ひ読むと雖も、復せざれば、

(只如計隣財) 只隣の財(たから)を計ふるが如し


(君子愛智者) 君子は智者を愛す

(小人愛福人) 小人は福人を愛す

(雖入冨貴家) 冨貴の家に入ると雖も、

(為無財人者) 財(ざい)無き人の為には、

(猶如霜下花) 猶(なを)霜の下の花の如し


(雖出貧賤門) 貧賤の門を出づると雖も、

(為有智人者) 智有る人の為には、

(宛如泥中蓮) 宛(あたか)も泥中の蓮(はちす)の如し


(父母如天地) 父母は天地の如し

(師君は日月) (じつげつ)の如し

(親族譬如葦) 親族譬(たと)へば葦の如し

(夫妻尚如瓦)夫妻は尚(なを)瓦の如し


(父母孝朝夕) 父母は朝夕に孝せよ

(師君仕昼夜) 師君は昼夜に仕へ、

(交友勿諍事) 友に交はつて諍(あらそ)ふ事なかれ


(己兄尽礼敬) 己(おのれ)より兄には礼敬(れいきやう)を尽くし、

(己弟致愛顧) 己(おのれより)弟(おとゝ)には愛顧を致し

(人而無智者) 人として智無きは、

(不異於木石) 木石に異ならず


(人而無孝者) 人として孝無きは、

(不異於畜生) 畜生に異ならず


(不交三学友) 三学の友に交はらずんば、

(何遊七学林) 何ぞ七学の林に遊ばん

(不乗四等船) 四等(しとう)の船に乗らずんば、

(誰渡八苦海) 誰か八苦の海を渡らん


(八正道雖広) 八正(はつしやう)の道は広しと雖も、

(十悪人不往) 十悪の人は往(ゆ)かず

(無為都雖楽) 無為(むゐ)の都に楽しむと雖も、

(放逸輩不遊) 放逸の輩(ともがら)は遊ばず


(敬老如父母) 老ひたるを敬ふは父母の如し

(愛幼如子弟) 幼(いとけな)きを愛するは子弟の如し


(我敬他人者) 我、他人を敬へば、

(他人亦敬我) 他人亦(また)我を敬ふ

(己敬人親者) 己(おのれ)人の親を敬へば、

(人亦敬己親) 人亦(また)己(おのれ)が親を敬ふ


(欲達己身者) 己(おのれ)が身を達せんと欲せば、

(先令達他人) 先づ他人を達せしめよ

(見他人之愁) 他人の愁ひを見ては、

(即自共可患) 即ち自ら共に患(うれ)ふべし

(聞他人之嘉) 他人の嘉(よろこ)びを聞いては、
(則自共可悦) 則ち自ら共に悦ぶべし


(見善者速行) 善を見ては速やかに行き、

(見悪者忽避) 悪を見ては忽ちに避(さ)け

(好悪者招禍) 悪を好む者は禍(わざはひ)を招く

(譬如響応音) 譬へば響きの音に応ずるが如し


(修善者蒙福) 善を修する者は福を蒙る

(宛如随身影) 宛(あたか)も身の影に随ふが如し

(雖冨勿忘貧) 冨むと雖も貧しきを忘るゝことなかれ


(或始冨終貧) 或ひは始め冨み終はり貧しく

(雖貴勿忘賤) 貴しと雖も賤しきを忘るることなかれ

(或先貴後賤) 或ひは先に貴く終(のち)に賤し


(夫難習易忘) それ習ひ難く忘れ易きは、

(音声之浮才) 音声(おんじょう)の浮才

(又易学難忘) 又学び易く忘れ難きは、

(書筆の博芸) 書筆の博芸(はくげい)


(但有食有法) 但し食有れば法有り

(亦有身有命) 亦(また)身有れば命有り

(猶不忘農業) 猶(なを)農業を忘れざれ


(必莫廃学文) 必ず学文を廃することなかれ

(故末代学者) 故に末代の学者、

(先可按此書) 先づ此書を案ずべし

(是学文之始) 是(これ)学文の始め、

(身終勿忘失)身終はるまで忘失することなかれ





日本人は平安時代から江戸時代において、これを世間の常識として、誰もが心の財(たから)として、暗誦し、また、長じてはその意味を悟っていました。

昔の寺子屋では3〜7歳で実語教を繰り返し読んで暗誦させられたそうです。
なぜならそれくらいの年齢ですと、意味がわからなくても覚えが早いし、記憶したことは一生忘れないからです。


その上で、年齢が上がるにつれて、言葉の意味を学び、まさに智を得、長じてはそれを人生に役立てて行ったわけです。

昔の日本人の民度が高かったわけです。

今現在の教育には日本人としての価値観、道徳観、倫理観に力を入れるべきではないでしょうか。






手前勝手なご都合主義の人物(李承晩)

2016-10-09 14:15:29 | 歴史
在日韓国人の皆さんは、自分たちは戦前、日本政府によって無理やり強制連行されてきた被害者であるといいます。

そうであるなら、おかしなことがあります。

北朝鮮に無理やり拉致された日本人について、日本に住む日本人は、拉致被害者の一日もはやい帰還を、みんなが願っています。

それが民族としての普通の国民感情です。

米軍でも、兵士が敵国に捕虜になれば、命がけでその奪還に動きます。

それが世界の「あたりまえ」の人の感覚です。

ところが韓国人は、日本にいる在日韓国人のことを、「僑胞」と読んで、頭から軽蔑し、韓国帰還さえも露骨に拒否します。


韓国の歴代の大統領からして

「私は僑胞の連中を信用などしていない。」

「僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」


などと発言しています。

全く酷い話しです。

自国の国民が「拉致」されたというのなら、その国の大統領は拉致被害者の帰還を促進することが、国民感情への答えになるはずだからです。

手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築きました。

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ねずさんのひとりごとより

「李承晩と朝鮮戦争」を下記に転用します。


いま朝鮮半島は38度線によって南北に分断されています。
昭和25(1050)年から昭和28年にかけて起きた「朝鮮戦争」による結果です。

この朝鮮戦争を、韓国では「韓国戦争」と教え、日本と戦い、日本をやっつけて追い出した戦争と教え、38度線によって朝鮮半島が南北に分断されているのも日本のせい、だからもし「韓国戦争」が再度勃発したら、韓国の人達は武器を手にして日本と戦う、のだそうです。

ぜんぜん違います。

そもそも朝鮮半島が二つに別れた、その原因自体が、韓国にその最大の責任があります。
なぜなら、もともとは朝鮮半島は日本の一部でした。
そして大東亜戦争が終結した直後には、半島全体がひとつの国家として独立しようとしていたのです。
昭和20年9月6日のことです。

国名を「朝鮮人民共和国」といいました。


戦時中まで、朝鮮半島は朝鮮総督府がありました。
戦争が終わり、日本が半島を手放したとき、そのまま総督府の機能が統一朝鮮として統一国家の建国に結びつく筈だったのです。
そして朝鮮戦争においても、人々を護るために真剣に戦い、韓国を救った英雄もいたのです。


大東亜戦争の終戦当時、朝鮮総督府には呂運亨(ヨ・ウニョン)という立派な人がいました。

この人は、ほんとうに立派な人で、彼は終戦後すぐに朝鮮建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図しました。

そして「朝鮮人民共和国」の建国宣言も、行ったのです。
実は、これは占領軍となった米軍にとっても必用なことでした。
米軍が効率的に朝鮮半島内を統御するためには、米軍(占領軍)の指令を、効率的に国内に徹底できる行政機構が不可欠だったからです。

この統一朝鮮の立国に、猛然と反対したのが、李承晩でした。


英語に堪能な彼は、米軍に、統一朝鮮といいながら、そこに共産党員が入っているのはケシカランと、呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認するようにはたらきかけたのです。


李承晩は、明治8(1875)年生まれの朝鮮人の独立運動家です。
生家は李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔を名乗っていますから、彼は李氏朝鮮時代の貴族階級にあたる両班(やんばん)です。

貴族というと、日本人なら誰もが平安時代の貴族のようなミヤビで高貴な人たちを想像します。
けれど李氏朝鮮の時代における両班は、日本の貴族とはまるで違います。
単なる民衆からの搾取者、高圧的特権階級でした。

一般の人、これを白丁(はくてい)といいますが、白丁は人でなく、家畜以下、まるで野良犬か野良猫のような存在とみなされていました。
ですから人口の九九パーセントにあたる平民(白丁)たちには、私有財産など認められません。カネも作物も女性も、全部両班たちが収奪していたのです。
そういう家系に育ったのが李承晩だったわけです。

日本が朝鮮半島を統治した時代は、半島の庶民の生活向上や庶民の人権を大切にしようとしましたから、当然、日本は、彼両班の持っていた特権を厳しく剥奪しました。
多くのまともな両班は、そうして国全体が栄えることを良しとしましたが、一部の両班は日本が民衆に力を与えたのが憎くて仕方がない。特権が削がれたからです。

元両班だった李承晩は、日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、上海に渡り「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗りました。

これが大正8(1919)年のことです。

さすがにことのときは、日本も怒って、憲兵隊が李承晩を逮捕しました。

当時の日本は、アジア諸国の独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人の平等を目指して戦っていた時代です。
李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝鮮半島は両班のものであるというものです。
彼にとっては、朝鮮半島の人も富も、すべては朝鮮の特権階級、両班のものでなければならないのです。
これは日本人の持つ、人はみな対等な存在であるという理念とは、まるで指向性の異なるものです。

日本の憲兵は李承晩に対し、理を諭し、情をもって彼への説得を試みました。

しかし李承晩は火病を起こしてわめきちらしました。

このとき、あまりの有様に腹を立てた憲兵が、李承晩に一発、ぴしゃりと平手打ちしました。
生まれて初めて人に叩かれた李承晩は、これを生涯にわたって徹底的に恨み続けました。

当時の日本では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手打ちは、打たれた側は痛いけれど怪我まではしない。
打った側も手のひらが痛い。
打った側の手の平の痛みは、打った人の心の痛みです。
打たれた人は、その心を素直に感じることで反省する。
それが日本ではあたりまえの習慣であり文化でした。

ところがこれが朝鮮人の李承晩には、これがまったく通じない。

李承晩は釈放されたあと渡米し、そこで米国大統領ならびにパリ講和会議の米国代表団に宛てて、「朝鮮半島を国際連盟の委任統治領にしてもらいたい」という請願書を提出しています。

徹底的に日本を排除しようとしたのです。

終戦直後に、朝鮮半島の北部にソ連が進駐をはじめました。
ソ連軍は昭和20年10月までに「各地で自発的に生まれた」という名目の「人民委員会」を組織し、これらを管理下に置いて朝鮮北部を事実上占領していきました。

すこし補足すると、朝鮮北部に進駐したソ連軍は、朝鮮語がわかりません。
ですからソ連軍が朝鮮を支配するためには、軍事力で実行支配するだけでなく、朝鮮語を話す者たちを使って、事実上朝鮮北部を統治していく必要がありました。


そしてその手足となったのが、朝鮮人共産主義者たちでした。
ソ連は彼らに旧日本軍から押収した銃器と金を与え、自分たちが強姦したあとの日本人女性や食い物を与えました。
朝鮮人共産主義者にしてみれば、飯が食えて金がもらえて、いままで支配者側だった「高貴な」日本人女性を強姦できて、金持ち日本人の財物も奪いたい放題となったわけです。

そういうことを喜ぶ馬鹿者どもが、「人民委員会」のメンバーでした。

歴史は複雑に絡みます。

同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっています。
なぜいきなり敗退したかといえば、米英が、蒋介石率いる国民党への支援を打ち切ったからです。
米英はそれまで蒋介石率いる国民党に、日本と戦わせるために豊富な軍事物資や食糧、金銭などの支援を行っていましたが、日本との戦争が終れば、彼らはもう「用済み」です。

薄情なものです。

蒋介石の国民党は軍閥です。

米英の軍事的経済的支援があったから人を集め得たのです。
なにせ軍というのは大勢の兵士たちを養わなきゃならない。
支援物資の補給を断たれたらもはや存続は困難だったのです。

そこへソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東率いる八路軍(中国共産党)が襲いかかりました。
勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党はシナ各地で八路軍に追われ、シナは赤化が目前となっていました。

ソ連は、毛沢東率いる八路軍に豊富な武器や食料を与えたやり方と同じ方法で、朝鮮半島を我が物にしようとしたのです。
ここで使われたのが金日成(キム・イルソン)でした。
そして朝鮮半島の米国進駐軍による半島の国家基盤が定まらないうちに、金日成は、朝鮮北部にはいって昭21(1946)年2月8日、「朝鮮臨時人民委員会」を設立しました。

一方、当時米国にいた李承晩は、朝鮮半島に統一朝鮮国として成立した呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「朝鮮人民共和国」について、米国内であらゆるロビー活動を展開し、新たに設立された呂運亨の「朝鮮人民共和国」には、ソ連に煽動された共産主義者たちが混入しているから、そういった者たちと一緒に統一朝鮮を作ることには疑問があると主張しました。
李承晩は、金日成率いる共産主義者たちを駆逐したあとに、米国進駐軍の力で統一朝鮮を建国すれば良いと説いたのです。

これは、第二次世界大戦後、急速に問題化した共産主義への抵抗運動と結びつき、効果を奏しました。
米国は、呂運亨(ヨ・ウニョン)の「朝鮮人民共和国」を否定、親米家である李承晩を大統領にした、新たな朝鮮半島の運営を模索するようになります。

ところがソ連は、そんな抵抗があるのは百も承知です。
また、北の金日成にしても、せっかく朝鮮半島北部を武力制圧したのに、そこから追い出されたのでは、それまでの努力が水の泡です。
とりわけ朝鮮半島の北側には、日本が建設した工業地帯があります。
朝鮮半島の富のほとんどを北側が握っているのです。
そこを金日成は押さえています。

富があり、武力があり、ソ連の完全なバックアップ体制もある。
そんな北朝鮮を、金日成が手放すわけがありません。
李承晩に引きずられた米国が、半島内の共産党員に手こずっている間に、金日成は、さっさと「朝鮮臨時人民委員会」を設立してしまった、というのが、この頃の流れです。

冒頭に書きましたように、そもそも戦前の朝鮮は日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能がそのまま統一朝鮮の建国に結びつく筈でした。
米国に亡命していた李承晩は、朝鮮半島での反共産勢力による早期国家設立を米国に迫りました。
こういうところの調子の良さは、見事なものです。
そして李承晩は、北朝鮮に遅れること16ヶ月、ようやく李承晩をリーダーとする「南朝鮮過渡政府」を昭和22(1947)年6月に誕生させたのです。


米国は、共産主義者と民主主義者が対立を深める朝鮮半島について、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起しました。
北の金日成は、この動きに危機感をつのらせます。
金日成は、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設しました。
そして同月26日に、北緯38度線以北に「朝鮮民主人民共和国」の成立を一方的に宣言します。

せっかく国連に話し合いを提案したのに、という矢先の出来事です。
米国は北朝鮮を激しく非難しました。
けれど黙って非難されている金日成ではありません。
彼は実力を行使しました。
なんと南半部への送電を全面的に停止したのです。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていました。

同時に半島南端にある済州島にいた南朝鮮労働党の共産ゲリラが、これに呼応して蜂起しました。

李承晩は、すぐさま暴動の鎮圧に乗り出しました。
済州島の共産ゲリラは、少量の武器しか持っていませんでした。
これを良いことに李承晩は、済州島に韓国軍を派遣し、島民8万人を虐殺してしまったのです。
8万人です。たいへんなことです。

これを昭和23(1948)年の「済州島四・三事件」といいます。

実力行使によって暴動を陳圧した李承晩は、同年8月15日に「大韓民国」の成立を宣言しました。

これを受けて、北朝鮮の金日成は翌9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」の建国を宣言しています。
これにより38度線は、単なる緯度ではなく、「国境」となったのです。

昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官は、
「米国が責任をもつ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない」と発言しました。

この発言に、朝鮮半島は含まれていません。
これは、米国が、南北朝鮮の衝突を避けようとしたためだと言われています。
そしてもっと大事なことは、済州島民を大量殺戮して意気軒昂となっている李承晩を抑え込もうとしたためだと言われています。

この頃の李承晩は、日本に対して竹島領有宣言など、報復的、敵対的発言を重ねていました。
理由は単純です。
上海で統一韓国臨時政府樹立を行い、日本の憲兵隊に逮捕されて平手打ちを食わせられたことへの、個人的な怨恨です。
「恨(はん)の国」が聞いて呆れます。


こうして李承晩は、韓国の南に位置する日本に対して激しい敵対心を燃やし、日本に対しての敵対的意思を明確に主張していました。
ところが李承晩はその一方で、北朝鮮を国家として認めず、どこまでも朝鮮半島の統一とそのための戦争を頑強に主張していました。
これは、素人が見ても異常です。
北側に明確な敵がいるのです。
にも関わらず、故意に南側にも敵をわざわざ自分でこしらえているのです。
政治家として、異常としか言いようがありません。

くわえて米軍にしても、もう第二次世界大戦は終わったわけで、いまさら誰も戦争などやりたくありません。
米国内の世論だって、もう戦争にはあきあきです。
だから米国政府は李承晩にいい加減手を焼いていました。
キチガイに刃物を持たせるとろくな事になりません。
ですから米軍は、李承晩直下の韓国軍の軍事力を極力制限させ、その代わり、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしていました。
韓国に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。

一方、このことは、北の金日成にとっては、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味しました。

「いまなら半島全体を北のものにできる」

そう判断した金日成は、昭和25(1950)年3月にソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めました。

スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。

同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じました。
スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものだったといわれています。
同年5月、金日成は支那に毛沢東を訪ね、「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けています。



こうして始まったのが、朝鮮戦争です。
昭和25(1950)年6月25日午前4時、突然、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
宣戦布告なんてありません。

いきなりの侵攻です。

開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を突破しました。

ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張しています。けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定していることです。

このとき前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけでした。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
またソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていません。
李承晩への「北来襲」という報告すら、戦闘開始後6時間も経過してから、やっと韓国政府に届いたという始末でした。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備なんてありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたTー34戦車の大部隊を中核に、次々押し寄せました。
各所で韓国軍は総崩れとなり、潰走しました。

金日成率いる北朝鮮は、初戦の猛攻で大勝利しました。
気を良くした金日成はこのときに、「一気呵成に李承晩を半島から追い落として、5回目の光復節はソウルで行う」と宣言しています。

北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がりました。

開戦三日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しました。
このとき、住民に多くの犠牲を出しながら、李承晩率いる韓国政府は、その李承晩から筆頭に、さっさと南方の水原に落ちています。

このときの有名な話があります。
ソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋の爆破を命じたというのです。

漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝鮮のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせることができ、それだけ南朝鮮政府は、遠くへ逃げおおせるというわけです。

けれど、この爆破のとき、漢江の北側のソウルの街には、まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていました。
孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝鮮軍によって随所で虐殺されました。

このとき漢江の北側で、どのようなことが行われたかは歴史の記録に残っていません。

ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝鮮の兵士たちは、およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行ったであろうということです。

だからこそ記録がないのです。

もっと言うなら、北の兵士たちが戦時捕虜となった韓国兵士や、婦女子を含む一般市民を手厚く保護したという記録も、まったくありません。

さて、水原に落ちのびた韓国政府と韓国軍です。
彼らが落ちのびたとき、軍は敗軍そのものでした。
士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況となっていたのです。

そこにマッカーサーが、東京からやってきました。
水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていたのです。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまいました。
東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように進言しました。

しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しません。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンはようやく一個師団だけの派兵を許可しました。

大統領の許可を得たマッカーサーは、日本に駐留していた第二四師団の第二一連隊第一大隊を基幹とする師団を水原市に派遣しました。

部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けました。

対する北朝鮮第四師団は、ソ連製Tー三四ー八五戦車やSUー七六M自走砲などの車輌を先頭に烏山に迫りました。
ちなみにこのとき派遣された米第二四師団は大東亜戦争での実戦経験を持っていません。

新たな徴用兵たちです。

旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れすでに本国に帰還していたのです。

北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えました。
しかし相手はソ連の誇る新鋭戦車隊です。
バズーカごとできは、まったく歯が立ちません。
北朝鮮軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって大敗してしまいました。

報告を受けたマッカーサーは、米国精鋭部隊の派遣を要請するけれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許しません。トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込みます。けれど明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、やはり各所で敗退してしまいます。

李承晩は、水原も捨て南へ南へと、逃げました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけて、一方的に20万人以上虐殺しています。

自国民を殺したのです。

人というのは哀れな生き物です。
人に危害を加える人間というものは、常に周囲の人が自分に危害を加えるように見えてしまう。
武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国民に対しては平気で虐殺の限りを尽くしたのです。

一方北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあっていたのです。

そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、大挙して日本に逃げてきて、いまの在日朝鮮人問題をひき起しています。

朝鮮戦争の話を続けます。
李承晩は、ついに朝鮮半島南端の釜山まで追い詰められました。
釜山というのは、韓国の最も日本寄りの港町です。
いまでも日本から韓国への観光船の定期便は、福岡ー釜山間を運行しています。
つまり、日本に一番近い韓国の南のはずれの都市が釜山です。
李承晩ひきいる韓国政府と韓国軍は、ついにそこまで追いつめられたのです。

釜山はこの時点で韓国にとっての最後の砦となりました。
一方北朝鮮は、この時点で釜山以外の全朝鮮半島を制圧していました。
韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひきました。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されていました。
けれど国連の多国籍軍は動かない。
兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめたまま、戦いに参戦しなかったのです。
タテマエは「戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ」というのですが、本音は、韓国軍が連戦連敗しているのに、なんで自分たちが命がけで北朝鮮と戦わなければならないのか、というものです。

あたりまえのことです。

ただ、このことは私たち日本人も、よく肝に銘じておく必要があります。
日米安保だ、国連だと言っても、天は自ら助ける者を扶けるのです。
自ら戦おうとしないような弱虫に、誰が変わりに命がけで戦うものか。

それが世界の常識です。

朝鮮戦争で、韓国軍が釜山という南の果てまで追いつめられたのには、もうひとつの理由がありました。
実は、韓国軍の兵士というのは、その多くが日本統治時代に、日本軍に在籍していた者たちです。
けれど個人的怨恨から日本が嫌いな李承晩は、日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝鮮人や、元日本軍兵士だった兵士たちを嫌って、彼らを軍の主要な任務に就けなかったばかりか、元日本軍兵士だった朝鮮人だけでの部隊の編制を厳禁していたのです。

どんなに訓練を受けた強い兵士や士官でも、上に立つ者がアホなら、戦果はあげられません。
なぜなら軍は上官の命令によって動くものだからです。

釜山まで追い詰められた時、韓国軍に金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われます。

彼は漢城出身のコリアンです。

日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、朝鮮人として初めて、また生存している佐官クラスでは、異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

さすがの李承晩も、釜山を追い落とされたら、その先は海です。
もうこれ以上は逃げ場がない状況となったのです。
そこでやむなく(ほんとうにやむなくです)、李承晩は戦争のプロである金錫源に、軍の指揮を委ねることにしました。

金錫源は国連軍の軍事対策会議に、正式に韓国軍代表として出席を許されました。

そこで彼は言いました。

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
 よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう。」


彼はそういって軍刀の柄をたたいたといいます。
軍刀の柄を叩くというのは、決意を示す所作です。

金錫源は、元日本軍兵士たちだけでの師団を編成することを申し出ました。

李承晩も、ことここに至っては、それを認めざるを得ません。
そもそも軍事経験に乏しく、十分な訓練を受けていない日本軍での訓練経験のない韓国人士官たちは、敵が来ると、我先に逃げてしまうのです。

軍は指揮官によって動くものですが、指揮官が敵が見えただけで逃げ出す軍では、そもそも勝てるはずもないのです。

それが釜山まで追いつめられた時、やっと念願の元日本軍士官に率いられた、元日本軍兵士たちによる師団ができたのです。

金錫源は、一個師団を編成すると、全員の前で薫陶を行いました。

このとき演台の変わりに、近くにあった大きな壷に乗って兵士たちに薫陶したそうです。
金錫源将軍は、兵士たちに必勝の檄を飛ばしました。

そのとき力一杯足を踏み鳴らしたために、その壷のフタが割れ、足が壷に入ってしまったそうです。

なんとその壷は糞壷だったそうです。

平時であれば笑ってしまいそうな話ですが、そのときの金錫源将軍の迫力は、ものすごく、兵士たちはひとりとして笑うものなどいず、全員が必勝の意欲に燃えたといいます。

師団は8月15日深夜、粛々と釜山東部の守備に向かいました。
途中、金錫源将軍は師団の一部の兵士を夜陰にまぎれてどこかへ逃がしましました。
なぜ逃がしたのか、この時点で誰も知りません。

師団の移動の様子は、北朝鮮側から丸見えです。
なんのことはない。裸同然で、銃器程度の武器しかない一個師団です。
ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしかありません。

金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、北朝鮮軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲しました。

それは、集中放火によって、完全に金錫源将軍の師団を殲滅する作戦でした。
包囲によって、金錫源の師団は完全に孤立しました。

戦いが始まりました。
金錫源将軍は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちました。

そして敵軍を睥睨し「撃て~!」と叫びました。

その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だ、と兵の士気を著しく高めたといいます。

金錫源たちが奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守ったままです。
つまり金錫源率いる師団に援軍はありません。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦いました。

金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中すると、北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけました。
そしてにわかに突撃を命じました。

命知らずの旧日本軍の吶喊攻撃です。

北朝鮮軍はあわてて後退しました。

敵殲滅の好機到来です。
師団の士気はいやがおうにもあがりました。
ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じてしまいます。

深夜です。
日付はすでに16日になっています。
北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると反撃に転じ、金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきます。

金錫源将軍の師団は、岬を回って潰走しました。
とにかく逃げる、逃げる。
北朝鮮側は、まさに好機到来と金錫源将軍の師団を追いました。
全軍一丸となっての猛烈な追撃です。
北の戦車部隊も、全機前台一気に追い、責め立ててきました。
そして北の戦車隊が岬を回り込んだときです。
そこにこつ然と、米軍の大艦隊が出現しました。

ソ連製の戦車は、装甲が厚く、銃や迫撃砲、バズーカ砲などはまるで歯がたちません。
まさに陸の魔人そのものです。
けれど戦艦から繰り出される対戦艦用の大砲門相手では、どうにもなりません。
戦車の巨体より大きい艦砲弾が雨あられと北の戦車部隊に降り注いだのです。
北の自慢の戦車部隊は、一瞬で破壊させられつくしました。

実は、前夜、金錫源将軍の師団が移動中、一部の兵士に命じ作戦の詳細を米艦隊に連絡させてあったのです。

「師団がおとりになり、北朝鮮軍が進路を東に転じて海岸線にでたところに、米艦艇から一斉に艦砲射撃をあびせるように」

と、です。

それまでの弱腰だった韓国軍に、最初は半信半疑だった米海軍も、金錫源将軍が元日本陸軍の左官であり、勲章ももらっている人物であると聞き

「それならもしや」

と艦隊を待機させてくれていたのです。

要するに日本の信用で、米艦隊が動いたわけです。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびき、無数の砲弾が北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎました。

米国誇る太平洋艦隊の主砲です。
T型戦車などひとたまりもありません。

それを待っていた金錫源の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始しました。
艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴きました。

北朝鮮の戦車は粉砕され、兵は空中に飛ばされ、隊列を乱して逃げる北朝鮮兵士は、金錫源将軍の師団の銃撃の恰好の餌食となりました。

こうして岬を回って追って来た北朝鮮軍は、一瞬で壊滅してしまいました。
北の兵士たちはバラバラになって敗走をはじめます。

ところが、です。

その潰走ルートには、金錫源が、やはりこれも前夜のうちに忍ばせてあった伏兵が待ち受けていたのです。

深夜、こっそりと師団を離脱した兵たちでした。
伏兵たちは、潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせました。
「草木皆ナ兵ト化ス」

日本軍の伝統的戦い方が、ここに生きてきます。

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能となってしまう。
北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり再編を余儀なくされてしまいます。
それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなり、各部隊の孤立化がはじまりました。

8月22日、金錫源将軍たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退しはじめました。

ここにも元日本兵が数多くいました。

このままでは米軍第二七連隊の側面が敵にさらされてしまいます。
韓国も、米軍も、戦線の崩壊はまぬかれません。

そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけてきました。
彼は散らばっていた朝鮮人元日本兵だけを集合させて座らせました。

白善燁も日本軍の出身です。

昭和14(1939)年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学し、昭和16(1941)年に卒業して満州国軍に任官し、昭和18(1943)年には間島特設隊に配属され戦った経歴を持ちます。

実はこの日、白善燁師団長はマラリアを患って高熱を発し病院にいました。
けれど釜山西側の危機を知った白師団長は、集まった西側守備隊の兵士たちに

「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」

とねぎらいの言葉をかけると

「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」

と静かに語りました。
そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに向かって言ったのです。


「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」


彼はそうさけぶと、銃をとり、たったひとりで先頭にたって突撃を敢行したのです。

兵たちは驚きました。

いきなり前線にマラリアで入院中の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。


「師団長に続け~~!」

鬼人と化した元日本軍の韓国兵は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいます。

そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせました。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走します。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、わずか一ヶ月半後の9月28日には、ソウル奪回まで果たしました。
勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧してしまいます。

これで北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦してきました。

100万人以上の大兵力です。

米韓多国籍軍はシナの人海戦術の前に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走してしまいます。
白村江の戦いのときと、似たような展開です。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。
米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回します。

そして戦況は三八度線付近で膠着状態となりました。

最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

いまも北朝鮮と韓国は公式には戦争状態です。
以上が朝鮮戦争の概略です。



こうした史実をみるとき、いつも思うのは、戦いにおける「勢い」と「転機」ということです。
北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し数々の武功を立てた元日本兵でした。

金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし

「攻勢こそは最大の防御」

「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」

と部下を叱咤激励したといいます。


韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたかだったのです。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中にあって

「日本刀は武人の魂である」

と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でした。

昭和55(1980)年、金錫源将軍は来日し、靖国神社に参拝しています。


靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られているのです。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちに、流暢な日本語でこう語ったといいます。

「自分の息子は戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう。」

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もなかったのです。

逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に

「軍人精神の神髄」

を見たと感嘆したといいます。

ご存知の通り、朝鮮半島は北と南に、いまも分断されています。

日本統治時代までは、朝鮮半島はひとつだったのです。

それがいまでは、親戚であっても行き来ができない。
厚い鉄のカーテンによって北と南は分断されています。

けれど大東亜戦争が終わったとき、統一朝鮮がちゃんとできていたのです。

それを潰したのが、米国でロビー活動をしていた反日主義者の李承晩でした。

そしてその李承晩が、シノゴノ言っている間に、ソ連は北の金日成に力を与え、半島北部を共産党によって占領させています。

慌てて李承晩は南に政府を作るのだけれど、これを危惧した金日成は三八度線を超えて、南に攻め込んだわけです。


そのとき李承晩は、味方さえも見捨てて逃げ出しました。
逃げ出しただけでなく、あたりにいる韓国市民が、みんな共産ゲリラに見えた李承晩は、行く先々で同国人を片端から虐殺しています。
卑怯卑劣、このような人物を初代大統領に頂いたところに、韓国の国家としての不幸があるように思います。


自国民を殺しながら逃げる李承晩、追う北朝鮮軍。

南朝鮮もちゃんと戦えば、もしかしたら早期に北を駆逐できたかもしれないけれど、それを阻害したのも、やはり李承晩でした。

日本嫌いな彼は、元日本軍関係者だというだけで、疑いを持ち、元日本軍士官だった者たちを重用せず、指揮はいつの時点でも、日本軍と関係なかった者だけを用いたのです。

その結果は、常に南朝鮮の敗走でした。
それだけでなく、米軍にも多大な損害を与えてしまっているのです。

そしてついに韓国最南端の釜山まで追いつめられたとき、李承晩はやっと元日本軍士官と、元日本軍兵士に軍の指揮を委ねました。
その結果、なんと最南端の釜山まで追いつめられていた南朝鮮は、逆に北のはずれの平壌まで、北を追いつめることになったのです。

毛沢東率いる百万の支那人民解放軍の参戦を得た北は、戦線を38度線までようやく盛り返したけれど、そこで北が停戦に応じたのは、韓国にいた元日本軍兵士たちがあまりに強かったからに他なりません。

けれど、大韓民国を建国し初代大統領に就任した李承晩は、それでも日本が嫌いで、日本との国境線を勝手に定めた(李承晩ライン)りもしています。
そして李承晩の韓国建国の理念は、なんと「日本によって奪われた朝鮮半島を、朝鮮民族の手に取り戻した」というものとなっています。

つまり「日本=悪」であり、自分たちは両班が取り仕切っていた平和で豊かな朝鮮半島を取り返した英雄であるという仮説のうえに、韓国という国家が成立しているのです。

なるほど李氏朝鮮の時代、朝鮮貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったのかもしれません。

なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのです。

けれど両班にとって天国だった朝鮮半島は、他の九九%の国民にとっても、天国といえる国だったのでしょうか。

李承晩は、朝鮮戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。

そういう手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築きました。

建国の理念というのは、その国が存続する限り、その国の国民を縛り続けます。
反日という虚構に建国の理念の基礎をおいた国家というものは、誰よりもその国の国民にとって、とても不幸なことといえるのではないでしょうか。












咸宜園(かんぎえん)

2016-10-09 10:38:48 | 歴史
咸宜園(かんぎえん)





咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代の先哲・広瀬淡窓によって、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾である。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。


咸宜園では、入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、「三奪の法」によって、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。


淡窓は、儒学者・漢詩人であったが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。

塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。東国からやってきた女の子もあった。桂林荘のときに、この寮生活の厳しさとその楽しさを詠った「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」の4首の内、主に2首目冬の情景を詠ったもの、いわゆる「休道の詩」は教科書に取り上げられたことがあり、他にも四季それぞれの様子を詠んだ詩がある。休道の詩は、3代目塾主広瀬青邨が賓師を務めた私塾立命館を創始とする立命館大学の寮歌のルーツとも言われている。


咸宜園は、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人に及んだ。

咸宜園の前身である桂林荘は、文化2年(1805年)に豊後国日田に創立された。当時は照雲山長福寺(豆田町)の学寮を借りて開いていたが、文化4年(1807年)に桂林荘塾舎(桂林園・現在の桂林荘公園)を設置した。この後、淡窓は、文化14年(1817年)には堀田村(現大分県日田市淡窓町)に塾を移し、咸宜園とした。咸宜園は、淡窓の死後も、慶応2年(1866年)12月から4ヶ月ほど一時閉鎖されたものの、明治30年(1897年)まで存続した。


咸宜園の建物は、東塾敷地にある秋風庵・遠思楼が現存するが、東塾塾舎は書蔵庫を設置するため明治23年(1890年)に、講堂は淡窓図書館(現在は官公街へ移転)設置のために大正4年(1915年)にそれぞれ撤去され現存しない。道を隔てた西側にあった西塾は明治22年(1889年)から日田郡役所として使用されていたが、その後、井戸を残して撤去され現存しない。


昭和7年(1932年)には咸宜園跡として国の史跡に指定されており、現在、一般公開がされている。また、咸宜園跡はおおいた遺産にも指定されており、平成27年(2015年)4月24日には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されている。


秋風庵

秋風庵(しゅうふうあん)は、天明元年(1781年)に淡窓の伯父に当たる、俳人である廣瀬月化(ひろせげっか)により現在の場所に建てられた。名前は雪中庵蓼太から送られた松尾芭蕉の句よりつけられた。後に淡窓が塾の建物として使用した。


遠思楼

遠思楼(えんしろう)は、文化14年(1817年)に一般の商家に建てられていたもので、嘉永2年(1849年)に現在の位置に移築したものである。1階に書庫があり、2階に書斎があった。明治7年(1874年)には一時、中城町へ移されたが、昭和28年(1954年)に現在の位置に移築復元された。現在の姿は、平成9年(1997年)に解体、修復を受けたものである。


咸宜園、前身の桂林荘には以下のような人物が関わっている。歴代塾主は広瀬淡窓を始め、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨、貞文等が務めた。塾出身者には、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいる。


(歴代塾主)

廣瀬淡窓
文化2年 - 文政13年(1805年 - 1830年)

廣瀬旭荘
文政13年 - 安政2年(1830年 - 1855年)

廣瀬青邨
安政2年 - 文久3年(1855年 - 1863年)

廣瀬林外
文久3年 - 明治4年(1863年 - 1871年)

唐川即定
明治4年 - 同7年(1871年 - 1874年)

園田鷹城
明治12年 - 同13年(1879年 - 1880年)

村上姑南
明治13年 - 同18年(1880年 - 1885年)公立日田教英中学校に吸収の後、明治18年に閉校

廣瀬濠田
明治19年 - 同21年(1886年 - 1888年)

諫山菽村
明治21年 - 同25年(1888年 - 1892年)

勝屋明浜
明治29年 - 同30年(1896年 - 1897年)

※勝屋明浜は私の祖母方の先祖で佐賀県鹿島の人である



(主な出身塾生)

咸宜園の主な門下生としては、以下のような人物がいる。

高野長英、岡研介 、大村益次郎 、上野彦馬 、
中島子玉 、松田道之 -、島惟精、中村元雄 、
大隈言遺、帆足杏雨 、平野五岳 、横田国臣 、
清浦奎吾 、河村豊洲 、朝吹英二 、秋月新太郎 、
佐々木月樵 ……。



宮部鼎蔵

2016-09-26 20:59:35 | 歴史

宮部鼎蔵
 宮部鼎蔵(みやべていぞう)は1820年4月、肥後国益城郡田代村(熊本県上益城郡御船町)にて、宮部春吾の長男として生まれた。

宮部鼎三とも。諱は増実。号は田城。

 代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいる。

 9歳の時に熊本城下にて学び、14歳の時に蒼莨塾(そうりょうじゅく)に入門し医学を学ぶと、天保の大飢饉などで貧しい生活を強いられたが、1837年、なんとか蒼莨塾を卒業した。


 しかし、家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就きく山鹿流軍学を学んだ。

*なお、1841年、21歳の時、叔父の宮部丈左衛門の養子となったが、その年に宮部丈左衛門は死亡。

 その後は兵学師範である村上傳四郎に師事し、24歳のときには村上傳四郎の代見を仰せ付けられている。

 30歳のとき、中尾ゑ美と結婚。この頃、熊本藩(肥後藩)に召し出されて、31歳の時、軍学師範となった。

 1850年、長州藩の吉田松陰と同じ山鹿流軍学を学んでいたと言う事で、吉田松陰が九州遊学した際、宮部鼎蔵の家に宿泊し会談した。

 1851年、宮部鼎蔵は国老・有吉頼母(有吉市郎兵衛)に従って、江戸へ赴任すると、江戸に出ていた吉田松陰と再会し、意気投合し親交を深めた。

 そして、ともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊している。

 1852年、熊本に戻ると林桜園(はやしおうえん)に就いて原道館に入ると、皇朝の古典や国学などを学んだ。

 1853年、黒船が来航すると江戸に出て同志をまとめている。

 1859年、吉田松陰が処刑されると熊本に戻ったが、門人・丸山勝蔵や、実弟・宮部大助らが起こした水前寺乱闘事件で連座し、兵法師範職から解任され退隠生活した。

 1861年、肥後勤皇党に参加すると中心的な人物となった。

 1862年、七滝村で退隠している所に、出羽の清河八郎が訪ねて肥後勤皇党にも攘夷に参加するよう説得。

 宮部鼎蔵も説得したが、肥後勤皇党は動かず、藩も同様だった為、宮部鼎蔵は奮起して京都に上り、勤王志士と交流し政治活動を再開した。

 細川藩に勤王の興起を促し、1863年、京都守護職・松平容保の会津藩、桑名藩・彦根藩・加賀藩の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等、全国諸藩から選抜された親兵3000人が設置されると総督・三条実美の下で宮部鼎蔵が総監に命じられた。

 1863年、八月十八日の政変で、朝議が一変し、長州藩が京より追放されると警備にあたっていた熊本藩士らも解散となったが、佐幕の熊本藩に戻る気にならず、宮部鼎蔵ら尊攘派志士たちは脱藩して、三条実美ら七卿と共に長州藩へ落ちた。

 その後、1864年には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿。

 1864年6月5日未明、同志の古高俊太郎が新撰組に逮捕された為、京都三条小橋の池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派、20数名がひそかに会合し救出作戦を練ろうとした。

そこを近藤勇、土方歳三らが率いる新選組に襲撃され、奮戦するも自刃した(池田屋事件)。享年45。

 長州藩の吉田稔麿も命を落とした。


 実弟・宮部春蔵も、1864年、禁門の変に参加し、真木和泉らと共に天王山にて自刃。享年26。

 宮部鼎蔵ら兄弟が亡くなった5年後に明治維新を迎え、志士たちが望んだ新しい時代が始まったのだ。

 現在、宮部鼎蔵の生家跡には大きな石碑が立っており、その近くのカシの木の下には、産湯の井戸が残されている。



 (参考) Wikipedia

大田黒 伴雄(おおたぐろ ともお)

2016-09-24 23:02:32 | 歴史

肥後人で太田黒 伴雄と言う男がいた。

神風連(敬神党)、百七十余名の志士を指揮し、その首領の座にあって一党の乱の首謀者が太田黒伴雄である。


人事に優れ大勢ある一党の指揮を執る資質を有し常に中心に静坐していた。

その人となりは「状貌魁偉、性沈毅にして大志あり」

大柄な体格で、いかなる事にも動じず落ち着いており、立派な人格を備えていたので、宮部鼎蔵や
轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。

また彼は人と接する際、誰に対しても明るく接し、酒の席などでは俗謡を歌い座を盛り上げる等豪快でさばけた一面も持っていた。

太田黒伴雄、幼名を鉄兵衛と言い飯田家の二男として熊本水道町に生まれる。

父・熊次と母・岩尾氏の子として、また長男・勝兵衛、長女・瀧子に囲まれ幼少期を過ごす。

彼が四歳の年、父・熊次が病に罹り早世した。

一家は凋落し、母は三人の子供を連れ実家を頼ってその扶養を受けるようになる。

幼き日の鉄兵衛は腕白で近所の子供達を泣かして周る困った子供だったが生まれつき病弱で薬を絶やさず床にあって書を読みすごしていた。

しかし十四、五歳の頃になるとまるで別人のように穏やかで素直な性質になり、身体もすっかり健康になった。

12歳の時、大野家の養子となり大野鉄兵衛と名乗り藩へ仕えるようになる。

朱子学、そして陽明学を学び、後に林桜園の原道館に入門し、神道を学ぶ事で敬神に心を砕く様になっていった。

時同じく、桜園門人として学んでいた山田十郎、河上彦斎、加屋栄太と、度々道義を交わし親交を深めていくのである。

嘉永黒船来航の時、彼は江戸に在って諸藩有志らと天下の形勢を探り、不平等条約が結ばれたのを知ると、嘆き憤りいよいよ尊攘の志を強くしていく。

当時佐幕傾向にあった肥後藩では勤王を志す者を忌み嫌っておりその禍は身家に及ぶと言われていたので、鉄兵衛はそれが大野家に及ぶのを恐れて廃嫡を決意した。

彼が大野家を継いだ後、家では一子、宗三郎が誕生していたので、それに譲ろうと考える。

この宗三郎は後に太田黒伴雄と共に決起し、最後まで義兄の傍らにあり法華坂にてその介錯を任される大野昇雄である。

文久二年、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請が来ると、藩主の弟・長岡護美の随従員として、肥後勤王党から住江甚兵衛、轟武兵衛、宮部鼎蔵、河上彦斎、加屋栄太らが上洛した。





鉄兵衛はこの時江戸に在り参加することが出来ず悶々とした日々を送る。

藩主に従って帰郷する途中、友人を訪ね主君に随行し遅れた罪として、大野家を十四才になった宗三郎に譲り自分は一室に篭り一層敬神に心血注ぐのである。

この後、朝廷はさらに天下に親兵を募り禁裏の守備に当たらせ、肥後藩も住江甚兵衛に命じ精鋭50名を選抜した。

その時、宮部と謀り鉄兵衛もこれに加えようとするが、鉄兵衛は

「私を簡抜いただいた事は誠に光栄であります。しかしながら、これに当たらせたい同志が他に多くおります。どうか一人でもそれらからお選びください。私はお留守を預かり、畏れながら皇室の御為、同志の為尽くします。」

と言い辞する。

宮部らは大いに感激し安心して彼に後事を託すのであった。

元治元年、鉄兵衛は親友の堤松左衛門らによる横井小楠暗殺未遂事件に連座し八ヶ月間の投獄生活を送った。

彼は実姉瀧子から大変可愛がられており、瀧子は投獄中の弟に食物や衣類を差し入れ、また鉄兵衛も瀧子を敬信し、その姉弟愛は他に見ないほどだったという。

廃嫡の身となった鉄兵衛は、この日より新開村にある伊勢大神宮に毎日足を運び断食や火の物を絶つといった修行を行っていた。

当時神官を務めていた太田黒伊勢は子もなく神に祈り跡目を請う。

そんな中、日々熱心に新開へ赴き神前にて祈祷をする鉄兵衛を見出し、これを養子として迎え入れようとする。

はじめは鉄兵衛も固辞していたが、林桜園、斎藤求三郎らの説得によって彼は遂に太田黒家へ入る事を決意する。

明治二年に養子に入り、養父伊勢に代わって新開伊勢神宮の神官となり名も伴雄と改めた。

新開には遠方からも彼の赤誠に敬慕を抱く人々が集い、厄災や病魔の祈祷を依頼する等訪問者は後を絶たなかった。

明治三年、林桜園に従って、江戸へ赴いた伴雄は三条実美、岩倉具視らと会見する。

桜園は後事を伴雄に託すよう岩倉に伝えるが、岩倉は伴雄がなおも尊攘に固執する人物であるとし断る。

要領を得ずままの帰県であった。

同年、ついに長旅の疲労が病を進行させ林桜園はこの世を去る。

桜園は病に倒れてからは新開の太田黒家で療養しており、伴雄は献身的に師の看病に当たっていたという。

やがて維新政府より断髪令、ついで廃刀令が出されると伴雄は怒り憂い、天皇家が永遠に続き、夷荻が国威にひれ伏すよう神に祈り数日にわたって断食を続け、火の物断ちなどを行った。

余りに長く続けた為に顔は青白くやつれ、病人のようだったと言うがその情熱と堅固な意志は変わる事無く、周囲の者たちは奮起し更に彼を敬慕するのであった。

伴雄は住江甚兵衛を訪ねて幾度か挙兵すべきかの同意を求めるが、住江はその勝算を見抜き、年長な人々は分別つくものの、青年らまで勝つ見込みの無い戦に出すのは可哀相ではないかと諌めた。

日々若手同志面々が死なせて欲しいと迫り流石の伴雄もこれらを抑えるのは難しくまた同時に健気なりと涙ながらに訴える事もあったという。

しかし三度目の会談でも同じく同意得られず遂に憤怒し、席を蹴り制止を聞かず去るのであった。

敬神党の志士達は世の中の不義を嘆き挙兵の志を切にし意気投合結託し敵対勢力の動向を探っていた。

しかし、伴雄達、幹部連が挙兵の号令を軽々しく発しないのをみて、飯田、野口、水野等はぐずぐずしていては時期を失ってしまうと、挙兵の期を早めるよう伴雄の下を訪れては迫るのだった。

国内が西欧文化に塗れ変わり行く様を嘆き一党はその憤慨止むところはなかった。

太田黒伴雄を首領として立ち、一党の面々もまた彼に絶対の信頼を持ってその指示命令のままに動き挙兵期日に至っても彼の伺う神慮のままに任せるのである。

その決起の日についても全て神慮をもって決し、幹部参謀は三、四日前にやっと知らせを受け、その他の者においては前日もしくは当日に事を知る事となったが、それでも彼等は首領を信じただ黙々と戦に備えるのであった。

ある晩、愛敬宅に同志が集まり、太田黒伴雄を首将として改めて命を受けようという案が出される。

伴雄はこれに対し

「我々は御神慮によって動く神兵である。神祇を将帥とするのみ」

と言い、同志達は皆感動して奮躍するのであった。

十月十七日、富永を伴って姉の居る橋田家を訪れ、そこで一泊し深夜まで密議を行う。

幹部等を集め、正に最後の参謀会議を開きそこで遂に

「事二十四日に起こせり」

と言った。

伴雄は帰り際、姉・瀧子に向かい

「二十四日に友人八十九人を伴い来るので酒肴の用意をお願いしたい」

と言った。

瀧子はそれを快く受け入れる。

瀧子はその依頼の理由を近隣に住む同志・工藤精吾より密かに聞いていたのだ。

弟の主義精神を十分に解し動じる事無く準備を整えその日の夕刻を待つのだった。

二十二日の晩、養父母や妻に熊本へ暫く出向く事を告げ、新開村の自宅を出る。

二十四日の晩には橋本家へ同志も集まり、伴雄もまた斎藤と共に着く。

瀧子は

「お客はこれだけですか」

と問うと、彼は

「師走も近く忙しい故」

と答え、自身は予め用意を頼んでおいた白木綿を腹に巻き、羽織を着け一刀を腰から下げ、他は袋に入れ手持ちにし、御軍神を背負って出陣の用意を整えた。

瀧子は前もって支度していた酒肴を出し、祝宴の準備を整え振舞った。

伴雄が静かに斎藤らと杯を交わしているところへ姉・瀧子が来て、この度の挙兵の事を問い、万一敗れたらどうなるのかと尋ねる。

伴雄は

「今日の法においては罪はその一人にのみ科せられるので家族にまで影響は無いから安心なさい」

と言った。

瀧子は安堵し、それならば見事働いて来いと激励するのだった。

その後一党は橋田家を出て、愛敬宅へと移動。

愛敬宅には既に同志面々既に居り、その出で立ちは様々だった。

羽織袴に草鞋を履くもの、簡単な具足のみを身に纏うもの。

そして烏帽子直垂を纏いたすき十字に打立てる者。

これら一様に大小帯刀し、または薙刀槍を携えて集まってきたが、その中に銃器を構えている者は一人としていなかった。

その古武士さながらの意気凛然な様は、洋式武器を備えた鎮台兵すらも踏みにじらんばかりの勇ましい姿であった。

愛敬宅で最後門出の祝杯を挙げた後、すぐ傍にある藤崎神宮へ移動。

一党は幾つかの隊に別れ県要人及び鎮台司令を襲う一隊と、鎮台本営を襲う一隊とに分け出撃する。

太田黒伴雄は加屋霽堅や斎藤求三郎等と共に本隊を率い、砲兵営を襲撃。

不意の襲撃に営内は騒然となり日本刀を振るう志士等の前に砲兵営は陥落。

一同神の加護であると初戦の勝利を喜び一度引き上げようとした時、もう一隊が向かった歩兵営から銃声喚声が轟く。

これを聞いた副首領・加屋霽堅は

「速やかに赴き助けよう」

と訴え一同もこれに応じ共に坂を下って営内へ進入する。

志士達は果敢に戦うが、近代兵器の前に次々と斃れ苦戦を強いられる。

やがて、歩兵営の一斉射撃により加屋霽堅が腹に銃弾受け即死すると伴雄は悲憤し自ら先陣へ向かい刀を奮って奮闘するが、そのとき弾丸が頬をかすり、続いて胸を撃ち抜いた。

崩れ落ちた首領を見て同志達は慌て駆け寄る。

吉岡軍四郎が彼を抱き起こして担ぎ、法華坂の民家へと逃れた。

この時、義弟・大野昇雄も義兄の負傷を聞きつけ、また長老上野堅五も傷を負いながら駆けつけた。

伴雄は死を悟ると傍に控えていた吉岡、大野へ向けて

「頬を撃たれた時はまだまだと思ったが、胸をやられては生きた心地がしない。どうか速やかにわが首を打ち御軍神と共に新開へ送ってくれ。」

と命ずる。

一同は

「誰に介錯をさせましょう」

と問うと、

「宗三郎、お前がせよ」

と大野に向かい静かに言い渡すのであった。


時期に営兵も追い迫り、首領が敵の虜となる事を恐れ大野は遂に刀を挙げて泣く泣く義兄の首を打ち落とした。


大田黒 伴雄

享年43歳。

1924年(大正13年)、正五位を贈られた。




大田黒 伴雄

和歌

「おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため」

「天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな」

「かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ」