第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)
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仁徳天皇稜は有名ですよね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en1.gif)
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在位:仁徳天皇元年(313年)1月3日 - 同87年1月16日
和風諡号 : 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_do.gif)
応神天皇の第4皇子で「民の竃(かまど)」の故事で知られている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/c2/9e8a2ac1cccf56557cd6c62bf6218a40.jpg)
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除しその間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった
3年後再び周囲を見渡すと家々に煙が再び立ち上っていた
その時に詠んだとされる
「高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり」は有名![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en4.gif)
「民のかまど」に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来している
第17代履中天皇(りちゅうてんのう)
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在位 : 履中天皇元年(400年)2月1日 - 同6年3月15日
和風諡号 : 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)
略歴
仁徳天皇の第一皇子として生まれる
聖帝仁徳天皇がお隠れになられると、実弟の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)が履中天皇の婚約者の黒媛(くろひめ)を犯し、事が露見することを恐れて皇居を包囲し履中天皇を焼き殺そうとしたが、履中天皇の命をうけた実弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)によって殺されるという事件が発生した
即位4年目の403年に、国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を各国に配置して、各地の情勢を中央に知らせる体制をつくりあげたが、この頃には有力豪族であった蘇我氏や物部氏が国政に参加するようにもなった
405年に70歳でお隠れになられた(古事記では64歳)。実弟を殺してまで得た天皇の座ではあったが在位6年の短さだった
後継は、実子で仁賢天皇・顕宗天皇の父となる磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)ではなく、住吉仲皇子を殺させた多遅比瑞歯別尊が即位した
後の反正天皇である
履中天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、古事記では大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)、日本書紀では大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)と呼ばれている
第18代反正天皇(はんぜいてんのう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/50/171fa415904e3c25e257e556a3ca028d.jpg)
在位 : 406年2月3日~410年2月12日
和風諡号 : 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en1.gif)
概要
仁徳天皇の第三皇子として生まれる
第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子
(すみのえなかのおうじ)は同母兄
弟は後の允恭天皇
天皇家にとって所縁の深い淡路島の生まれで、容姿端麗で歯並びが美しく、瑞歯別とも呼ばれていた
また、古事記には身長が約4メートルあったと記されている![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
実父の仁徳天皇がお隠れになられた後に、実兄の履中天皇を、実兄の住吉仲皇子が焼き殺そうとする事件が発生した際に、履中天皇の命をうけて住吉仲皇子を殺害した
そして履中天皇が即位すると立太子された
405年に履中天皇がお隠れになると、すでに壮年期ではあったが即位した
そして、河内の丹比に都を定め、戦乱や天変地異のない天下泰平な治世を送り、在位5年の410年に60歳でお隠れになられた
反正天皇 百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/f1/47ffe840a99b709cebc3867c0585299c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/18/05b86808e243cfa8fc939dfd337b03ea.jpg)
反正天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円(全長148m)
第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/bb/14399a1b4c9f46d60ad8b7ddb3c863a5.jpg)
在位 : 允恭天皇元年(412年)12月 - (453年)年1月14日
和風諡号 : 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)
概要
仁徳天皇の第四皇子として生まれる
第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)と第三皇子の反正天皇は同母兄
実兄の履中天皇に続いて即位した実兄の反正天皇が、皇太子を決めずにお隠れになられた為、新たな天皇へと群臣の推薦をうけたが、病気を理由に再三の要請を辞退し続けていた
しかし空位が続くのは良くないという事もあって412年に仁徳天皇の息子の系譜で三代目の天皇として即位した
都は天皇家では初となる飛鳥の地を選んだ
応神天皇の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とし、後の安康天皇となる第三皇子や、雄略天皇となる第五皇子らを設けた
権力欲が無く謙虚な人物だったとされ、病を治す為に医者を招聘した新羅は、お隠れになられた際に弔使を送っている
しかし、豪族に対しては厳しい姿勢をとり、氏姓の乱れを正す為に呪術的な裁判である盟神探湯(くかたち)を実施したり、有力豪族葛城氏の玉田宿禰(たまだのすくね)が、反正天皇の遺体の管理を任せられながらも地震の際に酒宴を開いていて職務を放棄して事態を調査にきた使者を殺す事件を起こすと、これを誅殺した
治世の晩年には、第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と、その同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)による近親相姦な関係が発覚し、軽大娘皇女は伊予へと流され、木梨軽皇子は允恭天皇がお隠れになった後に、実弟の穴穂皇子(あなほのみこ)=後の安康天皇により殺害された
惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/d0/ae8936e78a9dcecd4546fac567c4ef9a.jpg)
(前方後円墳、全長228m)
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第20代 安康天皇(あんこうてんのう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/5b/eae881a71f629380934e55c9988e9773.jpg)
在位 : 允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日
和風諡号 : 穴穂尊(あなほのみこと)
概要
允恭天皇42年1月に允恭天皇が崩御する
皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、弟の穴穂皇子の側に付いた
軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ
穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した
安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた
同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56と伝えられる
皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる
陵(みささぎ)は、奈良菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
奈良県奈良市宝来4丁目
形式は方丘
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d8/fef1059a0dc16edd37a760fcdf343254.jpg)
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*1代~20代天皇名一覧
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1 神武天皇 じんむ
2 綏靖天皇 すいぜい
3 安寧天皇 あんねい
4 懿徳天皇 いとく
5 孝昭天皇 こうしょう
6 孝安天皇 こうあん
7 孝霊天皇 こうれい
8 孝元天皇 こうげん
9 開化天皇 かいか
10 崇神天皇 すじん
11 垂仁天皇すいにん
12 景行天皇けいこう
13 成務天皇せいむ
14 仲哀天皇ちゅうあい
15 応神天皇おうじん
16 仁徳天皇にんとく
17 履中天皇りちゅう
18 反正天皇はんぜい
19 允恭天皇いんぎょう
20 安康天皇あんこう
続く
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仁徳天皇稜は有名ですよね
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在位:仁徳天皇元年(313年)1月3日 - 同87年1月16日
和風諡号 : 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)
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応神天皇の第4皇子で「民の竃(かまど)」の故事で知られている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/c2/9e8a2ac1cccf56557cd6c62bf6218a40.jpg)
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除しその間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった
3年後再び周囲を見渡すと家々に煙が再び立ち上っていた
その時に詠んだとされる
「高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり」は有名
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「民のかまど」に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来している
第17代履中天皇(りちゅうてんのう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/dd/22fe46db12fd964d4773087402b24ef6.jpg)
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在位 : 履中天皇元年(400年)2月1日 - 同6年3月15日
和風諡号 : 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)
略歴
仁徳天皇の第一皇子として生まれる
聖帝仁徳天皇がお隠れになられると、実弟の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)が履中天皇の婚約者の黒媛(くろひめ)を犯し、事が露見することを恐れて皇居を包囲し履中天皇を焼き殺そうとしたが、履中天皇の命をうけた実弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)によって殺されるという事件が発生した
即位4年目の403年に、国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を各国に配置して、各地の情勢を中央に知らせる体制をつくりあげたが、この頃には有力豪族であった蘇我氏や物部氏が国政に参加するようにもなった
405年に70歳でお隠れになられた(古事記では64歳)。実弟を殺してまで得た天皇の座ではあったが在位6年の短さだった
後継は、実子で仁賢天皇・顕宗天皇の父となる磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)ではなく、住吉仲皇子を殺させた多遅比瑞歯別尊が即位した
後の反正天皇である
履中天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、古事記では大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)、日本書紀では大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)と呼ばれている
第18代反正天皇(はんぜいてんのう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/50/171fa415904e3c25e257e556a3ca028d.jpg)
在位 : 406年2月3日~410年2月12日
和風諡号 : 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
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概要
仁徳天皇の第三皇子として生まれる
第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子
(すみのえなかのおうじ)は同母兄
弟は後の允恭天皇
天皇家にとって所縁の深い淡路島の生まれで、容姿端麗で歯並びが美しく、瑞歯別とも呼ばれていた
また、古事記には身長が約4メートルあったと記されている
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実父の仁徳天皇がお隠れになられた後に、実兄の履中天皇を、実兄の住吉仲皇子が焼き殺そうとする事件が発生した際に、履中天皇の命をうけて住吉仲皇子を殺害した
そして履中天皇が即位すると立太子された
405年に履中天皇がお隠れになると、すでに壮年期ではあったが即位した
そして、河内の丹比に都を定め、戦乱や天変地異のない天下泰平な治世を送り、在位5年の410年に60歳でお隠れになられた
反正天皇 百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)
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反正天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円(全長148m)
第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
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在位 : 允恭天皇元年(412年)12月 - (453年)年1月14日
和風諡号 : 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)
概要
仁徳天皇の第四皇子として生まれる
第一皇子の履中天皇と第二皇子の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)と第三皇子の反正天皇は同母兄
実兄の履中天皇に続いて即位した実兄の反正天皇が、皇太子を決めずにお隠れになられた為、新たな天皇へと群臣の推薦をうけたが、病気を理由に再三の要請を辞退し続けていた
しかし空位が続くのは良くないという事もあって412年に仁徳天皇の息子の系譜で三代目の天皇として即位した
都は天皇家では初となる飛鳥の地を選んだ
応神天皇の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とし、後の安康天皇となる第三皇子や、雄略天皇となる第五皇子らを設けた
権力欲が無く謙虚な人物だったとされ、病を治す為に医者を招聘した新羅は、お隠れになられた際に弔使を送っている
しかし、豪族に対しては厳しい姿勢をとり、氏姓の乱れを正す為に呪術的な裁判である盟神探湯(くかたち)を実施したり、有力豪族葛城氏の玉田宿禰(たまだのすくね)が、反正天皇の遺体の管理を任せられながらも地震の際に酒宴を開いていて職務を放棄して事態を調査にきた使者を殺す事件を起こすと、これを誅殺した
治世の晩年には、第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と、その同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)による近親相姦な関係が発覚し、軽大娘皇女は伊予へと流され、木梨軽皇子は允恭天皇がお隠れになった後に、実弟の穴穂皇子(あなほのみこ)=後の安康天皇により殺害された
惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)
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(前方後円墳、全長228m)
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第20代 安康天皇(あんこうてんのう)
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在位 : 允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日
和風諡号 : 穴穂尊(あなほのみこと)
概要
允恭天皇42年1月に允恭天皇が崩御する
皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、弟の穴穂皇子の側に付いた
軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ
穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した
安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた
同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56と伝えられる
皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる
陵(みささぎ)は、奈良菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
奈良県奈良市宝来4丁目
形式は方丘
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*1代~20代天皇名一覧
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1 神武天皇 じんむ
2 綏靖天皇 すいぜい
3 安寧天皇 あんねい
4 懿徳天皇 いとく
5 孝昭天皇 こうしょう
6 孝安天皇 こうあん
7 孝霊天皇 こうれい
8 孝元天皇 こうげん
9 開化天皇 かいか
10 崇神天皇 すじん
11 垂仁天皇すいにん
12 景行天皇けいこう
13 成務天皇せいむ
14 仲哀天皇ちゅうあい
15 応神天皇おうじん
16 仁徳天皇にんとく
17 履中天皇りちゅう
18 反正天皇はんぜい
19 允恭天皇いんぎょう
20 安康天皇あんこう
続く
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