高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

靖国神社『英霊の言乃葉』

2016-06-30 20:31:16 | その他


靖国神社『英霊の言乃葉』






靖国神社では、多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示されています。





英霊のお言葉を原文通り、いくつか紹介します。








遺言状


陸軍兵長 池田 伝吉 命



昭和十九年十月十二日

ビルマ・サンドウェイ国境にて戦死

香川県大川郡引田町出身 三十一歳



 お国の為にお召にあづかる自分としてこの上もない喜び、男子の本懐となすところなり。自分が出征後親類一同に相談をして子供の安定をはかり、家計の事はきまりよくして、世間の人に対してご迷惑にならぬ様にしなさい。


 私が武運拙く戦死した時には、軍人の妻として心を落付けてなさけないふるまひせない様に頼む。自分は三人の子供の事が気がかりになるので随分によく気をつけてやつてくれ。お前も無理しない様に身体に気をつけて子供と一緒に末永く安楽に暮らしてくれ。


 頼りない遺言であるが、これ以上は書けない。

 では呉々も子供の事を頼む。

 右遺言す。                                        

伝吉

 妻 ハスヲへ



昭和四十八年十月靖國神社社頭掲示


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最後の願ひ


陸軍伍長 広島 鶴雄 命

昭和十六年十二月八日

マレー・ケランタンサバクにて戦死

熊本県天草郡登立町出身 二十二歳



 拝啓などと書くのも何とやら、相変わらず霜雨にもかかはらず、お元気にてお働きの事と思ひます。―入隊以来、最早一年、何もわからなかった私でしたが、今ではどうやら、一軍人らしくなり、今度いよゝ本当の戦場らしい檜舞台に臨むに当り、もとより生還は期し難き覚悟ではありますが、いざ死すといふ事になれば、やはり皆様の懐が恋しくなつてまゐります。


 想い出しますに、鶴雄が六才の時より、入隊まで本当の父以上に可愛がつて下さいまして、ただ感謝に堪えません。―鶴雄亡き後は母の事をよろしく頼みます。母も年老いて頼るべき者はなく、哀れな者と思います。くれぐれもよろしくお願ひします。―東洋平和の礎となる帝国の人柱、残る心はただ母の事のみです。ただ信じてゐる父上に頼んで安心して死んで行きます。―南国の花と散る鶴雄の最後の便りです。


 さうして来春は楽しく桜花の下、靖國神社でお逢ひしませう。


 では皆様元気で、さやうなら。永久に。



昭和五十一年四月靖國神社


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陸軍中尉 木本 修 命



歩兵第百十四聯隊

昭和十七年二月十一日

シンガポール島ブテキマにて戦死

山口県豊北町出身 二十三歳





 吾、人身を享けてより二十三年。

 君恩、親の恩、師恩、万物の恩を一身に受け、一として返すを知らず。唯、帝國軍人として國民最大の誇りを持ち、微力を尽くし得たるは、無上の光栄、本懐なり。あゝ吾が喜び何に比すべき。然れども報恩の一をも算じ得ざるを強く深く痛む。


 時は刻一刻として移る。人の良心は即ち神にして永劫の時間に没入し人の死は一点も残さず。吾が身窮むるとも吾が心永遠に君國に尽さん。


 大元帥陛下の御為、祖國のために、一身一家を捧げ、私を捨てて公に就かれんことを祈る。隊長殿、部下諸氏、祖父、父母、姉上、恩師、大変お世話になりました。弟妹よ、何の役にも立たず兄たるの資格なきを心から詫びる。何一つ心配なかりし吾生涯を喜ぶと共に、一億國民の一層私心を捨てて共々に生き、國家の弥栄に貢献されんことを祈る。


 以上、吾が生涯の信念と御礼を記す。



昭和五十四年六月靖國神社社頭


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遺書


陸軍伍長 金山 利美 命



昭和二十年七月二十八日

ビルマにて戦死

島根県出身 二十八歳



 父上、母上、病気になつたでは心配を掛け、学校に入つたら入つたで心配を掛け、文学をやるといつては心配を掛け、随分我慢をして長い間御世話になりましたが、いよいよ征途に上ることになりました。


 薄志弱行何もなすことの出来なかつた不肖の子の本懐であらうかと思ひます。これを開封された時は、僕の人生も終わつてゐるのです。


 遺言を書き残すやうにと言はれてゐるのですが、行に臨んでは、最早、言ふ可きこともありません。どうぞ呉々も御身御大切に御暮し下さいますやう。


 弟よ、お前については、お前の二世が一日も早く出来るやうに祈つて一足先きに征途に上る。お前も軍人だ。来る可き日を期して仲良く暮してくれ。


 義妹よ、あなたについては、殆ど親しむ機会もなく征くことになつたが、どうぞ万事のことを宜しくお願ひ致します。

 父上、母上、弟よ、義妹よ、さらば。


  昭和十九年六月十四日

於京城

金山 利美



 追伸 僕には婦人関係はありませんから、戦友の忠告により後顧なきやう此処に認め置きます。



昭和五十九年七月靖國神社社頭掲示


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遺言


陸軍中尉 三木 清 命



昭和二十年八月六日

ビルマトングー県にて戦死

兵庫県出身 二十五歳



 謹みて

 父上様 想えば幼少の頃より慈しみ下されまして誠に有難う御座いました。何もいたさない私の如き者に、斯くも親とは申せ御慈しみ下されし事を重ねて深謝致します。

 今、幸にも大東亜の花と歌はれし○○に向ひます。

 唯御両親始め妹に何一つとして盡さなかりし身を悲しむのみです。

 護りの神として遥に九段の神域に神鎮ると思へば、唯皇恩の厚きに涙流るゝものを洵に感慨にたえません。

 幸にして戦死を得ますれば 清よ よく死んでくれたと一言申して戴きますれば 南十字星のもと、私は世界一の幸福者です。

 墓は極く小さな物にて可。決して亡き母上より大きくすべきにあらず。

 唯此上は御父上様には御体を大切に、長寿を全うせられます様御祈り致して居ます。

 母上(注 継母)妹様の御健康を祈りつゝ身も心も清く、笑つて○○に向つて行く事が出来ます。

 昭和十八年二月二十三日



 父上様



昭和五十九年十月靖國神社社頭



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父母への手紙


陸軍憲兵中尉 塩田 源二 命



昭和二十二年十一月二十二日

ビルマ、ラングーンにて殉難死

栃木県出身 二十四歳



 突然お知らせせねばならない不幸をお許し下さい。先頃もお知らせ致しましたが、不幸戦争犯罪なるものに問はれました。そして先頃裁判があり、その結果、思ひがけず絞首刑の宣告を受けました。私は自分の行った行動に対しては、何等の後悔も持つて居りません。

 私は断じて愧づべき行動をとつて居りません。私は甘んじて、否満足して、この大東亜我々民族の礎石として死んで行きます。

 私として心残りは私の最後をお知りになつて、お悲歎遊ばされるのではないかと思ふことです。何卒はかない運命の私と思ひなされて、あきらめ下さる様お願ひ申上げます。

 私は身はたとへ南の地に果てても私の魂は皆様のお傍近く必ず行きます。そして皆様のお幸福の為にお守りする積りです。

 昭和二十二年十月十日

蘭貢監獄にて

源二拝

父上様

母上様

   遺書をよむ父母の心を思ふとき

   はるかに居ます方ぞをろがむ



昭和六十一年十一月靖國神社社



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陸軍中尉 室木 能之 命



昭和二十年五月十四日

ビルマ・レバタン東方にて戦死

石川県出身 二十三歳



 母上様

 幼きより私と苦楽を共にせられたる御恩靖國の御社より永遠に御慕ひ申上げます。

 私の一死にて御心身相乱さるる事なく銃後の一婦とし邁進せられん事を御祈り致します。

 最後に幸子を御願ひ申し上ぐる我が儘を御許し下さいませ。

 遥かに御身体の健かならん事を併せて御祈り致します。

 有難うございました。

能之

 母上様

 昭和十九年七月十三日



 幸子様

 兄は大忠孝に死す。

 唯幸子の立派な一皇国女性にならん事のみ靖國の御社より御祈りします。

 御父上様御母上様の御教へ通り最後迄正しく進まん事を祈ります。

 幸子は常に兄が加護しあり苦しい時は兄を思へ。

 「死は苦よりも楽」とは武人たる兄の心なり。

 死を超越し苦を乗り切り皇国の一女性として立派に生きられよ。

能之

 幸子様

 昭和十九年七月十三日



平成二年九月靖國神社社頭掲示

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陸軍憲兵准尉 住本 茂 命



昭和二十三年四月二十日

サイゴンにて殉難死

兵庫県出身 三十六歳





   伝 言

 皆様ノ御厚意ニハ感謝ノ辞ガアリマセン。

 私ハ今年二月死刑ノ判決ヲ受ケマシタ。

 爾来既ニ今日アルノ覚悟ハ十分ニ出来テ居リマス。今更何モ驚クコトハアリマセン又申スコトモアリマセン。常々乏シキ中カラ色々ノ差入ヤ御配慮ニ感謝シテ居リマス。幸道司令官以下「キャンプ」ノ方々ニ住本ハ幾重ニモ感謝ノ意ヲ表シテ刑ニ服シタト言フコトヲ御伝ヘ下サイ。

 最後ニ、子供丈ケハ御國ニ役立ツ立派ナ人間ニ育テル様申伝ヘテ下サイ。只ソレ丈御願シマス。



   最後ノ言葉「刑場ニテ」

 大楠公精神ヲ継承シ七度生レ代ッテ誓ッテ皇國ニ報ゼン。

 日出ズル國日ノ本ニ生ヲ享ケタル大丈夫ガ今旭日ヲ浴ビツツ従容トシテ國ニ殉ズ、男子ノ本懐之ニ過グルモノナシ。(國歌奉唱二回)

 皇國ノ彌栄ト皇國ノ隆盛ヲ祈ル。

 天皇陛下万歳(三唱)

 此レデ終リマス。サア、ヤッテ下サイ。

              


平成三年六月靖國神社社頭掲示


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陸軍上等兵 迫 末一 命



昭和十九年四月十五日

印度アッサム州チエザミにて戦死

奈良県出身 三十二歳



正一ハ父ノ顔ヲ知ラナイダラウ。生レテヨリ十一ケ月ダカラネ。母ノ手ニダカレテ、ヨクナイタモノダヨ。父ナキアトハ母ノ言フ事ヲヨクキイテ、リッパナ人ニナレ。

オヂイサンヤ、オバアサンノイフコトハ、ヨクキイテスナホナ子供ニナルコト。カラダヲタイセツニシテ、母ニシンパイヲ、カケナイコト。センゾヲシッカリトマモリ、リッパナ日本人ニナレ。職業ハナンデモヨイカラ、スキナヨウニセヨ。ナンデモジシンヲモッテセナクバイケナイ。ソレカラ土ヤ原ノオヂイサンヤ、オバアサンノ、ハカマヰリニモ度々行クコト。

 親孝行ヲセヨ。

  正 一 殿

     昭和十八年十月四日

父ヨリ



平成四年九月靖國神社社頭掲示


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海軍一等飛行兵曹 辻 始 命 
昭和十八年七月二十四日
本州東方海面にて戦死
徳島県那賀郡富岡町出身 
二十一歳
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)の譬(たとえ)は、常に胸中に在り。
日出る皇國に大和男子として生をうけ
聖恩に報い奉り祖國を永遠に護らむと
海軍航空兵として軍籍に身を投ぜり。
幼十歳にして荒鷲を望みし身とて、
殉職はもとより期せし処。
されど我が本懐は、太平洋上紺碧の空に聖寿の万歳を寿ぎつつ散華するにあり。
我が日頃神仏に祈りし処は
「皇國日本の為尽し得る立派な人間とならさせ給へ」とのみ申せしにあり。

(中略)

散りてのち なほ白雲と とどまりて
         すめら御國を 永久に守らむ


昭和十七年 元旦記之


平成十七年十二月靖國神社社頭掲示
                              





愛国行進曲

2016-06-18 14:43:37 | 歴史




愛国行進曲とは、昭和12年(1937年)に発表された行進曲である。


曲調から軍歌とも言われやすいが、実際は軍歌ではなく、特にその区別をよく分かってない者が多い現代ではよく混同されるが、全くの別物である。


また、発案時の意図から「第二国歌」「国民歌謡」と呼ばれることもある。

(概要)

1937年といえば満州事変(日中戦争)が起こった年であり、これを受けて「国民精神総動員」というスローガンの下、日本が一丸になろうとした時代である。


わかりやすく言えば、「贅沢は敵だ!」や「欲しがりません勝つまでは」という言葉が広まった時期である。



本歌もこの国民精神総動員から発案された歌であり、「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として国民から歌詞と旋律を募って製作された。


そうしてこの曲のために全国から送られてきた6万点の歌詞を北原白秋や島崎藤村といった文豪人などが審査員し、そして歌詞を補作し、これに全国から届いた1万点の旋律から瀬戸口藤吉(軍艦行進曲や艦隊勤務の作曲者)の旋律がつけられて発表された。


ただ、選ばれた歌詞は作詞者の若い歳と比べてあまりにも内容が立派であり、歌詞のほとんどは審査員の手によるものだという。


また瀬戸口は旋律を作った当時70歳にして病床にあり、「最期のご奉公」としてこの曲に旋律をつけ、その4年後に亡くなった。


発表された本曲は内閣情報部のお墨付きの元著作権フリーで公開されたため、コロムビアレコードを始め各社が様々な形態(独唱・斉唱・合唱etc)でレコードを販売し、日本全土で100万枚以上も売り上げられた。


またその性質上軍民問わず歌われ、これが東南アジアを"解放"した日本軍によって現地にも広まったため、今でも東南アジアではこの旋律や歌詞を元にした曲が歌われることがあるという。




( 歌詞 )


1番


見よ(みよ) 東海(とうかい)の空(そら)明(あ)けて

旭日(きょくじつ)高く(たかく)輝けば(かがやけば)

天地(てんち)の正気(せいき) 潑溂(はつらつ)と

希望(きぼう)は踊る(おどる)大八洲(おおやしま)

おお晴朗(せいろう)の朝雲(あさぐも)に

聳(そび)ゆる富士(ふじ)の姿(すがた)こそ

金甌(きんおう)無欠(むけつ)揺るぎなき

わが日本(にっぽん)の誇りなれ



※大八洲(おおやしま):大八洲国とも書き、日本全土の事

※正気(せいき):物事の根本をなすといわれる気、もしくは正しい気風の事
それが溌溂(はつらつ)している

※金甌無欠(きんおうむけつ):甌とは液体などを入れるビンのこと。他国から一度もや侵略を受けたことのない強国の意。
事実日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦では負けておらず、国連の常任理事国を務めるなど、関東軍が満州事変で暴走する以前は金甌無欠だった





2番

起て(たて) 一系(いっけい)の大君(おおきみ)を

光(ひかり)と永久(とわ)に頂き(いただき)て

臣民(しんみん)我等(われら)皆(みな)共(とも)に

御稜威(みいつ)に副(そ)はむ大使命(だいしめい)

往け(いけ) 八紘(はっこう)を宇(いえ)となし

四海(しかい)の人(ひと)を導きて(みちびきて)

正しき(ただしき)平和(へいわ)打ち立てむ(うちたてん)

理想(りそう)は花(はな)と咲き(さき)薫(かお)る



※御稜威(みいつ):天皇家が持つ威光。この頃の軍事作戦は天皇の勅令(大使命)を大本営が発表するという方式を取っていた。


※八紘を宇となし:「八紘一宇(はっこういちう)」の字で有名。八紘とは八方の世界を示し、これを一つの宇(いえ)とするという考え方。元々は神代に神武天皇が発した令であり、この意味においての八紘は古代日本の地方豪族を示すが、色々あって大東亜共栄圏の標語になった。




3番

今(いま)幾度(いくたび)か我(わ)が上(うえ)に

試練(しれん)の嵐(あらし) 哮(たけ)るとも

断乎(だんこ)と守れ(まもれ)その正義(せいぎ)

進まむ道(みち)は一つのみ

嗚呼(ああ) 悠遠(ゆうえん)の神代(かみよ)より

轟く(とどろく)歩調(ほちょう)受け継ぎて(うけつぎて)

大行進(だいこうしん)の行く(ゆく)彼方(かなた)

皇国(こうこく)常(つね)に栄え(さかえ)あれ



※試練の嵐:実際この曲以前に関東大震災や世界恐慌が起きて日本経済はかなり危なくなり、二・二六事件の遠因になった。また日露戦争によって南下政策を強めたロシアに対抗するため満州国を手放せないがために起こった満州事変・連盟脱退も嵐の一端と言える。

古事記 : スサノオ

2016-06-11 15:23:05 | 古事記



スサノオ


イザナギノミコトは

「わたしは、これまで多くの子を生んだが、一番最後に貴い三人の子どもたちを得た。」

とお喜びになられました。

そして、ご自分の首にかけていた玉の首かざりをゆらゆらと鳴らせながらアマテラスオオミカミに授け


「あなたは、天を支配しなさい。」


とおしゃっいました。

次にツクヨミノミコトに


「あなたは、夜の国を治めなさい。」


といい、スサノオノミコトには

「あなたは、海原を治めなさい。」


とおっしゃいました。

こうして、それぞれの神は、イザナギノミコトから命じられた国を治められましたが、スナオノミコトだけは、海原の国を治めずに、ヒゲが胸元までのびたおとなになっても、泣きさわいでおりました。

その泣く有様は、ものすごくて、緑の山々が枯山になり、海や川の水が乾ききってしまうほどでした。この悪い神が起こした乱暴な物音は、ハエのように世界に満ち満ちてしまったので、あらゆる災い(わざわい)ごとが次々と起こりました。


そこでイザナギノミコトが

「なぜ、お前は、命じた国を治めないで、泣きさわいでいるのか。」

とお聞きになると、スサノオは

「わたしは、お母さんのいる黄泉の国へ行きたくて、泣いております。」

と答えたので、イザナギノミコトは、たいへんお怒りになり

「それならば、お前はこの国にいてはならない。」

とおっしゃって、スサノオノミコトを海原の国から追いはらわれてしまいました。

※イザナギノミコトは、淡路島の多賀の社(やしろ)にお鎮(しず)まりになっておられます。




古事記 : 黄泉返りと禊ぎ(よみがえりとみそぎ)

2016-06-08 12:45:28 | 古事記




黄泉返りと禊ぎ(よみがえりとみそぎ)


こうしてイザナギノミコトは、やっと黄泉の国から地上へ戻られました。(このことから、日本語の「よみがえる=蘇る・蘇る」は、「黄泉の国から返る」という意味が元になっているのす。)


イザナギノミコトは

「わたしは、とても汚く穢(けが)れた醜(みにく)い国へ行ってしまったので、みそぎ(禊ぎ)をしなければならない。」

とおっしゃって、九州の日向の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」にお出ましになり、みそぎをなさいました。

その時に、身につけていたもの(杖・帯・袋・衣服・袴・冠・腕輪)を投げ捨てする時に十二柱の神々が出現しました。


衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、時量師神(ときはかしのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那芸佐?古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)、辺疎神(へさかるのかみ)、辺津那芸佐?古神(へつなぎさびこのかみ)、辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)



そして、イザナギノミコトは

「上流の方は水の流れが速く、下流はおそい。」

とおっしゃられて、海の真ん中で身体をお洗いになった時に、十柱の神々がお生まれになりました。


最初の二柱の神は、黄泉の国にいたときの汚れたものから生まれた神(禍の神)で

ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)とオオマガツヒノカミ(大禍津日神)です。


次に生まれた三柱の神は、黄泉の国で取り憑いた禍(わざわい)を取り除くときに生まれた神で、カミナオビノカミ(神直?神)、オオナオビノカミ(大直?神)、イズノメ(伊豆能売)です。


次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。

海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)とソコツツオノミコト(底筒男命)
海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)とナカツツオノミコト(中筒男命)
海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)とウエツツノオノミコト(上筒男命)

以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。

また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です。

最後にうまれた三柱の神々は、左の目をお洗いになった時に出現したアマテラスオオミカミ(天照大御神)、右の目をお洗いになった時に出現したツクヨミノミコト(月読命)、鼻をお洗いになった時に出現したスサノオノミコト(須佐之男命)です。


古事記 : 黄泉の国(よみのくに)

2016-06-05 11:24:47 | 古事記




黄泉の国(よみのくに)


イザナギノミコトは、イザミノミコトにもう一度お逢いになりたいと思われ、その後を追って黄泉の国に行かれました。

黄泉の国の御殿の戸からイザナミノミコトがお出迎えになられると、イザナギノミコトは、


「わが愛しの女神よ。わたしとあなたで作った国は、まだ作り終えてはいない。もう一度戻ってきておくれ。」

とおっしゃいましたが、イザナミノミコトは


「わたしは、とても悔しいのです。あなたは、すぐにわたしを助けに来てくださいませんでしたので、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。(黄泉の国の住人になっていまいました。)しかし、愛しいあなたが、せっかくおいでくださったので、わたしも帰りたいと思います。これから黄泉の国の神に相談いたしますので、その間は、決してわたしの姿を見ないでください。」


とおっしゃって御殿の中へ戻ってしまわれました。



しかし、女神はなかなか出てこられないので、イザナギノミコトは、しびれを切らしてしまい、左がわの髪に付けていた櫛の太い歯をひとつ折って、それに火をともして御殿へ入って中をのぞかれました。

そこには、世にも恐ろしい光景がありました。女神のからだから、たくさんの蛆虫(うじむし)が湧き出ていて、ゴロゴロという音がしています。


頭からは、大きな雷が、胸には火の雷が、腹には黒い雷が、陰部には裂けるような雷が、左手には若い雷が、右手には土の雷が、左足には鳴る雷が、右足にははねる雷の八種類の雷が発生してゴロゴロと鳴りひびいています。


イザナギノミコトは、たいへん驚かれて一目散に逃げ出しました。


イザナミノミコトは、


「あなたは、わたしに恥をかかせましたね。」


とおっしゃると、黄泉の国の醜い化け女を使わせて、後を追わせました。

イザナギノミコトは、頭に付けていた黒い木のつるで作った輪を、化け女に投げつけると、山ぶどうの木が生えました。


化け女が山ぶどうを食べているすきに逃げましたが、そのうちに再びこの気味の悪い女は追いかけてきます。

そこで、右がわの髪に付けていた櫛の歯を折り、投げつけてやると、今度はタケノコが生えました。

化け女がタケノコを食べているすきに逃げました。


するとイザナミノミコトは、先ほどの八種類の雷神に加えて、黄泉の国の千五百もの化け物たちの軍隊を動員して後を追わせました。


イザナギノミコトは、長い剣を後ろの方へ振り回しながら逃げましたが、化け物たちはなおも追ってきます。とうとう地上から黄泉の国の入り口へと降りる坂(黄泉比良坂=よみのひらさか)の坂下まで着いたときに、そこにあった桃の木から桃の実を三つ取って投げつけてやると、化け物たちはみな逃げて行きました。



そこでイザナギノミコトは、その桃の実に


「お前が、わたしを助けてくれたように、この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに=葦原とは日本のこと。中つ国とは、天上の高天原と地下の黄泉の国との間にある地上の世界という意味)の人間たちが、つらいことや苦しいめにあった時に助けてやってほしい。」



とおっしゃって、オホカムヅミという名前を与えました。



しかし、ついにイザナミノミコトが自ら追って、坂の下までやってきました。

驚いたイザナギノミコトは、大きな岩で坂を通れないようにふさいでしまいました。

その岩をはさんで、イザナギノミコトとは、イザナミノミコトに



「離婚をしよう。」



とおっしゃいました。


すると、イザナミノミコトが



「愛しいあなたが、このようなことをされるのならば、わたしは一日にあなたの国の人間たちを千人殺してあげましょう。」


というと、オザナギノミコトは



「愛しい女神よ。あなたがそうするなら、わたしは、一日に千五百の産屋(うぶや=出産のために建てる家)を建てましょう。」



とおっしゃいました。


こういうことから、人間は一日に千人が死に、千五百人が生まれてくるのです。


イザナミノミコトのことをヨモツオオカミ(黄泉津大神)又は、チシキノオオカミ(道敷大神)といいます。


また、坂をふさいだ大きな岩は、ヨミドノオオカミ(黄泉戸大神)と申します。






そして、いわゆる「黄泉比良坂」は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか=島根県八束群東出雲町揖屋)という坂です。