高天原(たかあまはら)三丁目

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天皇125代の足跡(1代~15代)

2015-08-15 12:51:52 | その他
歴代天皇第1代から125代今上天皇までの足跡を紹介します



その後、国体、皇国史観や万世一系、そしてその精神的支柱背景について自分なりの解釈で紹介します

なお表記については「日本書紀」を基本とします



第1代 神武天皇(じんむてんのう)


和風諡号(死後に送られた名称) :神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)

生没年 : 庚午年1月1日~神武天皇76年3月11日

在位 : 前660年~前585年

足跡 : 九州を出てヤマトを征服した古事記、日本書紀が伝える初代天皇

高天原から天降ったニニギの曾孫で、兄五瀬命らと語らい東の美しい土地を目指して日向から宇佐・筑紫をを経由して瀬戸内海に入り大和をめざした

河内に至り、その地の先住民の長髄彦がおり孔舎衛坂で戦いとなった

戦いは神武一行に不利で兄の五瀬命を戦いで失い、また暴風雨に遭って海神を鎮めようとして稲氷命と御毛沼命の両兄が海中に身を投じた

神武は日の神の啓示により日に向かって戦うことの益なきことを悟り、紀州へと迂回した

その後熊野の荒坂津に上陸して一路大和を目指した

途中ヤタガラスらの導きもあってようやく畿内大和に入った

そこで長髄彦と戦いになったが饒速日命が神武を天神の子孫と認めて長髄彦を殺して帰順したのでようやく戦いは収まった

しかし、神武の行く手はまだまだ困難が伴った

橿原宮で即位して初代天皇がここに誕生した


第2代 : 綏靖天皇(すいぜいてんのう)

和風諡号 : 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノミコト)

在位 : 前581年~前549年

足跡 : 神武天皇の第3皇子,母は皇后ヒメタタライスズヒメノミコト

皇太子になっていたが,父神武天皇の没後,政務をとっていた庶兄タキシミミノミコトが皇位を望んで皇太子を除こうとしたので,皇兄カンヤイミミノミコトとはかり,タキシミミノミコトを殺して即位し,大和葛城高丘宮に都したと伝えれる。84才没

第3代 : 安寧天皇(あんねいてんのう)


和風諡号 : 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこ-たまてみ)

在位 : 綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月

67歳没(日本書紀)

足跡 :
『日本書紀』によると、綏靖天皇25年1月7日に立太子
綏靖天皇33年5月10日の父天皇の崩御を受け、同年7月3日に即位

そして翌々年の安寧天皇2年に宮を片塩浮孔宮に遷した
その後、安寧天皇38年12月6日に在位38年にして崩御した
時に『日本書紀』では57歳[1]、『古事記』では49歳でほうぎょした
遺骸は「畝傍山南御陰井上陵」に葬られた

第4代 : 懿徳天皇(いとくてんのう)



和風諡号 : 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

在位:懿徳天皇元年2月4日~懿徳天皇34年9月8日)

安寧(あんねい)天皇の第2子で母は渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)、安寧天皇11年に立太子、懿徳元年即位、同2年に軽(かる)橿原(かしはら)市大軽町付近の曲峡宮(まがりおのみや)に遷都して天豊津媛(あまとよつひめ)命を皇后とし、同34年に没して畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのかみのみささぎ)に葬られたという

『古事記』は母を阿久斗比売(あくとひめ)命、皇后を賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)命とし、45歳で没したと伝える

第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)



和風諡号 : 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)

在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日

『日本書紀』によると懿徳天皇34年9月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝昭天皇元年)1月9日に即位。そして孝昭天皇元年7月に宮を掖上池心宮に遷した

その後、孝昭天皇83年8月5日に在位83年にして崩御した

時に『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳という

遺骸は「掖上博多山上陵」に葬られた。


第6代孝安天皇(こうあんてんのう)



和風諡号 : 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

在位 : 孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)

足跡 : 日本書紀によると、孝昭天皇68年1月14日に立太子

孝昭天皇83年8月5日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝安天皇元年)1月7日に即位

そして孝安天皇2年10月に宮を室秋津島宮に遷した

その後、孝安天皇102年1月9日に在位102年にして崩御した(歴代天皇中最長)

時に『日本書紀』では137歳、『古事記』では123歳という

遺骸は「玉手丘上陵」に葬られた。


第7代 孝靈天皇(こうれいてんのう)



和風諡号 : 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

『日本書紀』によると、孝安天皇76年1月5日に立太子。孝安天皇102年1月9日の父天皇の崩御を受け、同年12月4日に宮を黒田廬戸宮に遷して、崩御の翌年(孝霊天皇元年)1月12日に即位した

その後、孝霊天皇76年2月8日に在位76年にして崩御した
時に『日本書紀』では128歳、『古事記』では106歳という

遺骸は「片丘馬坂陵」に葬られた

第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)



和風諡号 : 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

『日本書紀』によると、孝霊天皇36年1月1日に立太子

孝霊天皇76年2月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝元天皇元年)1月14日に即位した

そして孝元天皇4年3月12日に宮を軽境原宮に遷した

その後、孝元天皇57年9月2日に在位57年にして崩御した

時に『日本書紀』では116歳、『古事記』では57歳という

遺骸は「剣池嶋上陵」に葬られた。

第9代開化天皇(かいかてんのう)



和風諡号 : 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる

『日本書紀』によると、孝元天皇22年1月14日に立太子

孝元天皇57年9月2日の父天皇の崩御を受け、崩御の同年11月12日に即位した

そして翌年の開化天皇元年10月13日、宮を春日率川宮に遷した

その後、開化天皇60年4月9日に在位60年にして崩御した

遺骸は「春日率川坂本陵(または坂上陵)」に葬られた

第10代崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう)



和風諡号 : 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)

崇神天皇は学術的にも存在が確認されている

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある

また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる

第11代 : 垂仁天皇(すいにんてんのう)




和風諡号 : 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)

父崇神天皇の崩御の翌年に即位し、都を纒向珠城宮に移した

垂仁天皇も伝承の多い天皇で、皇后狭穂姫とその兄狭穂彦との謀反、皇后狭穂姫が戦いの火中で生んだ誉津別皇子が口がきけなかったという伝承

また、出雲の野見宿禰の武勇伝(力士の始祖といわれている)や野見宿禰の献策によりそれまで行われていた殉死をやめ、土師部の作った土偶(埴輪の起源)を陵の周囲に廻らしたという

さらには田道間守(たじまもり)が常世国へ非時の香菓(ときじゅくのかぐのみ)を探しにいって帰ってみると天皇はすでに140歳で没しており、田道間守はこれを嘆き悲しみとうとう死んでしまったという伝承がある

第12代 : 景行天皇(けいこうてんのう)





在位 : 景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日

和風諡号 : 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

皇居 : 都は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師か)

父は垂仁(すいにん)天皇
母は日葉洲(酢)媛命(ひばすひめのみこと)
子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に九州の熊襲(くまそ),東国の蝦夷(えみし)を平定させ,諸国に田部(たべ)と屯倉(みやけ)をもうけたとつたえる


【格言など】倭(やまと)は国のまほらま畳(たたな)づく青垣山籠(やまこも)れる倭し麗し(「日本書紀」景行天皇17年)

第13代 : 成務天皇(せいむてんのう)



在位 : 成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)

和風諡号 : 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)

母は八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)

「日本書紀」によると,同日生まれの武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣とし,国郡(くにこおり)に造長(みやつこおさ),県邑(あがたむら)に稲置(いなき)をおき,邑里(むら)をさだめたとつたえる

墓所は狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)



第14代 : 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)



在位 : 仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)

日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である

伝によると熊襲を討つため,皇后とともに筑紫に行幸したとき,まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため,神の怒りに触れて戦陣で没したという

第15代 : 応神天皇(おうじんてんのう)

諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)

出産した場所は筑紫の宇美といわれ今でもその地に宇彌神社がある


神功皇后と胎中天皇一行は三韓征伐後、九州から瀬戸内海を東へと進み大阪湾に入り大和を目指したが、留守役の異母兄弟である香坂王・忍熊王に大和入りを阻まれた

なぜか香坂王は猪に喰われてしまい障害とはならなかったが、忍熊王は摂津から山城に入り抵抗を示した

しかし神功皇后側の武勇人である建振熊に計られて近江に退き琵琶湖に入水して果てたという

応神天皇の時代は朝鮮半島を通じてさまざまな技術集団が渡来して、農地改良・馬・太刀・縫製・論語・千字文・典籍などをもたらし技術の改革、文化の振興が行われた