高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

宮部鼎蔵

2016-09-26 20:59:35 | 歴史

宮部鼎蔵
 宮部鼎蔵(みやべていぞう)は1820年4月、肥後国益城郡田代村(熊本県上益城郡御船町)にて、宮部春吾の長男として生まれた。

宮部鼎三とも。諱は増実。号は田城。

 代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいる。

 9歳の時に熊本城下にて学び、14歳の時に蒼莨塾(そうりょうじゅく)に入門し医学を学ぶと、天保の大飢饉などで貧しい生活を強いられたが、1837年、なんとか蒼莨塾を卒業した。


 しかし、家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就きく山鹿流軍学を学んだ。

*なお、1841年、21歳の時、叔父の宮部丈左衛門の養子となったが、その年に宮部丈左衛門は死亡。

 その後は兵学師範である村上傳四郎に師事し、24歳のときには村上傳四郎の代見を仰せ付けられている。

 30歳のとき、中尾ゑ美と結婚。この頃、熊本藩(肥後藩)に召し出されて、31歳の時、軍学師範となった。

 1850年、長州藩の吉田松陰と同じ山鹿流軍学を学んでいたと言う事で、吉田松陰が九州遊学した際、宮部鼎蔵の家に宿泊し会談した。

 1851年、宮部鼎蔵は国老・有吉頼母(有吉市郎兵衛)に従って、江戸へ赴任すると、江戸に出ていた吉田松陰と再会し、意気投合し親交を深めた。

 そして、ともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊している。

 1852年、熊本に戻ると林桜園(はやしおうえん)に就いて原道館に入ると、皇朝の古典や国学などを学んだ。

 1853年、黒船が来航すると江戸に出て同志をまとめている。

 1859年、吉田松陰が処刑されると熊本に戻ったが、門人・丸山勝蔵や、実弟・宮部大助らが起こした水前寺乱闘事件で連座し、兵法師範職から解任され退隠生活した。

 1861年、肥後勤皇党に参加すると中心的な人物となった。

 1862年、七滝村で退隠している所に、出羽の清河八郎が訪ねて肥後勤皇党にも攘夷に参加するよう説得。

 宮部鼎蔵も説得したが、肥後勤皇党は動かず、藩も同様だった為、宮部鼎蔵は奮起して京都に上り、勤王志士と交流し政治活動を再開した。

 細川藩に勤王の興起を促し、1863年、京都守護職・松平容保の会津藩、桑名藩・彦根藩・加賀藩の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等、全国諸藩から選抜された親兵3000人が設置されると総督・三条実美の下で宮部鼎蔵が総監に命じられた。

 1863年、八月十八日の政変で、朝議が一変し、長州藩が京より追放されると警備にあたっていた熊本藩士らも解散となったが、佐幕の熊本藩に戻る気にならず、宮部鼎蔵ら尊攘派志士たちは脱藩して、三条実美ら七卿と共に長州藩へ落ちた。

 その後、1864年には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿。

 1864年6月5日未明、同志の古高俊太郎が新撰組に逮捕された為、京都三条小橋の池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派、20数名がひそかに会合し救出作戦を練ろうとした。

そこを近藤勇、土方歳三らが率いる新選組に襲撃され、奮戦するも自刃した(池田屋事件)。享年45。

 長州藩の吉田稔麿も命を落とした。


 実弟・宮部春蔵も、1864年、禁門の変に参加し、真木和泉らと共に天王山にて自刃。享年26。

 宮部鼎蔵ら兄弟が亡くなった5年後に明治維新を迎え、志士たちが望んだ新しい時代が始まったのだ。

 現在、宮部鼎蔵の生家跡には大きな石碑が立っており、その近くのカシの木の下には、産湯の井戸が残されている。



 (参考) Wikipedia

史観

2016-09-25 21:02:06 | その他

史観とは歴史を全体的に把握し、解釈するときの基礎的な立場・考え方である。

歴史観を養う為には様々な観点から己を、そして他人を見る必要があります。

如何に史観を唱え子孫へ伝えて行くか、、大変難しい事だと思いますが、日本国民として軸となる史観を持つ事が大切だと思います。

以下、引用元 :ようこそDr.町田さん




「三つの史観」

現在の日本において、歴史に対する見方には大雑把に三つの史観がある。

三つの史観とは、1進歩的史観 2司馬史観 3自由主義史観である。

1進歩的史観

この史観はもともとマルクス主義学者が唱えていたものである。彼らは戦後、進歩派とか進歩的知識人などと呼ばれたためにこの名がある。

そもそもマルクス主義においては人間の歴史というものは未来に向かって常に進歩しているものだ、と捉える。原始共産制から始まり、封建制、絶対王政、資本主義、帝国主義、と続いて最後には暴力革命が起こり、共産主義に必然的に到達すると考える。全世界が共産主義社会となったとき、人類の進歩はそれ以上は不要となり、貧乏人も金持ちもなく、人は誰に対してもやさしくなり、もちろん戦争などの争いごとはまったくなくなる理想社会が訪れると考えるのである。このマルクス主義の考えをベースにして進歩的史観は以下のようなものとなる。

 人間というものは歴史をさかのぼればさかのぼるほど悲惨な生活をしていた。たとえば江戸時代の庶民の生活は苛斂誅求にあえぎ、秋霜烈日なる権力の行使におびえ、生きるか死ぬかのぎりぎりの生活を強いられていた。明治になってもこの傾向は変わらず、善良ではあるが社会構造の矛盾により貧乏生活を余儀なくされた庶民は相変わらず悲惨なな生活を強いられていた。

 明治の後半に日露戦争が勃発したが、その原因はいうまでもなく日本の帝国主義である。日本の侵略主義的発想が中国大陸への軍の派遣となった。したがって日露戦争は明らかに侵略戦争である。日露戦争後の歴史はさらに侵略主義的様相を深めたが、いうまでもなくその頂点は太平洋戦争である。あれも無論日本による侵略戦争である。そして太平洋戦争は一部の権力者が自らの体制を維持するために起こしたもの、と考える。庶民は戦争なんぞ望んでいない、戦争の責任は一部の権力者のみにある。(この考えは東京裁判を行った連合軍側の考えとたまたま一致している。そのために進歩的史観はまた「東京裁判史観」とも呼ばれている訳だ)

 太平洋戦争が終わって後、やっと日本の近現代史は明るくなる。本当は昭和20年代に共産主義革命が起こり、天皇制も廃止にして欲しかったが、権力の横暴により残念ながらそれはならなかった。(本当は革命が必要であったが、権力がそれを阻止した。そのために日本は資本主義社会であり続けることを余儀なくされた)

以上が進歩的史観の骨子である。

 この考えは戦後の日教組の台頭も相俟って、戦後の日本の教育界を大きく支配した。たとえば皆さんは中学、高校の頃、日露戦争のことを習ったと思うが、その時に東郷平八郎や児玉源太郎、乃木希典といった日露戦争の英雄達の人名を習っただろうか?。私は習った記憶はない。その代わりに教科書に必ず出ていたのが与謝野晶子の有名な「君死にたもうなかれ」の反戦歌と内村鑑三の反戦思想である。これなんぞは「日露戦争は侵略戦争であった」と間接的に教えているようなものである。

 進歩的史観はこうして戦後の日本の歴史教育に大きなバイアスをかけていたのである。私はいつも歴史を習っていて明治から太平洋戦争までの暗い記述を見てうんざりしていた記憶がある。太平洋戦争が終わってやっと日本という国はまともな国になったんだなあ、と子供心に思っていた。

2司馬史観

 こうした戦後日本に支配的であった歴史観をくつがえしたのが司馬史観である。司馬遼太郎氏は特に明治の日本を明るく描いた。私も大人になってから司馬氏の著作を読むようになり

「そうか、明治の日本というのはこんなに明るく楽しい社会だったんだ、それでは自分がこれまで受けてきた歴史教育というのは一体なんだったんだろう」

とハタと気づいた次第である。

司馬史観は以下のようなものである。

 日露戦争までの明治という時代は日本の歴史の中でもよい時代であった。明治維新により中央集権国家が確立し、富国強兵にはげみ、日本という国家は東洋の一小国から世界の列強に肩を並べるまでになった。(ずいぶん無理もしたが)確かに庶民の生活はまだまだ貧しかったが、それはマルクス主義者が考えるように支配階級が搾取をしていたためというよりは、日本の国富自体が少なかったのだ。乏しきを憂えず、等しからざるを憂える、という。皆貧乏ではあったが、国家を強くするために国民一丸となって頑張っていたのが日露戦争までの明治の時代であった。

 しかし日本の発展につれて特に当時極東に食指を伸ばしつつあったロシアとの対立は必然であった。当時の日本人は朝鮮半島が日本の生命線であると考えていたが、それは当時の国際情勢をみればやむを得ないことであった。いかにしても挑戦半島にロシアの勢力をいれてはならなかった。しかるにロシアは朝鮮半島に入ってこようとする。どうしてもこれと戦わざるを得なかった。したがって日露戦争は侵略戦争などではなく、防衛戦争であった。(司馬氏は日本がロシアの言うがままになっていたら私の名前も何とかスキーとなっていただろう、と書いている)

 しかし日露戦争後に日本人は変質する。大国ロシアに勝ったおごりも相俟って調子に乗ってしまった。その象徴がポーツマス条約締結後に起こった日比谷焼き討ち事件である。そしてついに中国大陸にちょっかいをだすようになった。結局中国大陸に大きな利権を持っていたアングロサクソン(米英)と対立するようになり、太平洋戦争を始めてしまった。したがって太平洋戦争は侵略戦争である。すなわち日本の歴史においては日露戦争後から昭和20年の敗戦までは突然変異的におかしな国家になっていた。太平洋戦争後はまた明治期のよい日本に戻り、反映を続けた。

 以上が司馬史観の骨子である。特に敗戦までの昭和の20年間の歴史のみが悪い時代であった、とするのが司馬史観の眼目である。さらに司馬史観の特徴は進歩的史観のように太平洋戦争の勃発の原因を特定の権力者のみに帰することなく、国民全体の責任としていることである。

 昭和40年代に入り、司馬氏の代表作「坂の上の雲」が発表された後、特にこの司馬史観は日本を支えるサラリーマン層に支持された。「明治は明るいよい時代であった」という彼の史観は進歩的史観に毒されて育った世代からは熱烈に歓迎されたのである。私もまた司馬氏の著作を読み、前述の如く、目の前の雲が晴れたような思いをしたものである。

3自由主義史観

 最近になり、さらに自由主義史観というものが出てきた。藤岡信勝氏や渡辺昇一氏の考えなどがその代表である。この史観の骨子では明治以来の日本というのは一貫して悪いものではなかった、日露戦争は無論のこと太平洋戦争もまた防衛戦争であった、ということになる。無論1911年の韓国併合も諸外国が認めた合法的なものであり、当時の世界情勢から判断すればやむを得ない行為であったとする。南京大虐殺などは当然ながら存在しない、盧溝橋事件は中国共産党の挑発である、云々となる。

 この自由主義史観が最近になって出てきた背景にはやはりソ連の崩壊などにより、左翼勢力が弱まってきたことがあるだろう。戦後、日教組を始めとする強い左翼勢力に教育現場が牛耳られてきた。しかし世界での共産主義勢力の退潮傾向により、そうした歴史教育に不満を抱いていた層の不満が一挙に攻勢に出てきた、と見るべきであろう。すなわち最近になっていきなりこうした史観が生まれたのではなく、潜在していた史観が顕在化してきた、と見るべきではないかと思う。今後この自由主義史観がどれほど勢力を拡大するかは不明であるが、明らかに戦前の皇国史観(要するに日本は天皇陛下が支配する神風の国だ、という史観)とは一線を引いているようだし、一つの史観としての健全な発展が望まれる。(なおこの自由主義史観は、提唱者の藤岡信勝氏によれば、必ずしも日露戦争~大東亜戦争間の日本の歴史を肯定するものではなく、むしろ司馬史観に近いものである、とのことであるが、実際にはこの史観は提唱者の概念を離れ、一人歩きしている感がある。そのために、ここでは世間一般で考えられている「自由史観」をもってその概念とした。)

4それぞれの史観
史観というのは人一人一人が自由に持つものであるべきである。どれか一つの史観を他人に強制してはいけない。特にまだ価値判断のできない中、高校生に特定の史観を強いてきたこれまでの日教組を始めとする歴史教育のあり方はやはり問題であったと思う。難しいことかもしれないが歴史教科書は特定の史観に偏ることのない記述が求められるし、教える教師もまた自らの史観を押しつけるような教え方は厳につつしむべきであろう。

 高校の歴史の勉強が暗記偏重となり、無味乾燥なものとなってしまってもそれはそれで仕方がないと思う。「南京大虐殺を考える」式の結果的には特定の史観を押し付けるような歴史教育よりは価値判断のない暗記詰め込み教育のほうがまだよっぽど子供にとってはよい結果をもたらすと考える。

もう一つの歴史観=町田史観

 これは筆者が唱える史観である。筆者(町田)は、司馬史観に修正を加える。すなわち、日露戦争から満州事変までの歴史は肯定できるが、日華事変より大東亜戦争戦争までの歴史は否定的である。

 満州国建国は、当時の日本にとってはやむを得ない選択であった。当時、世界経済はブロック経済となり、日本は世界市場から締め出されていた。どうしても、手近な場所に、大きな市場が必要であった。さらにまた、南下してくるロシアを防ぐためにも、この地にはどうしても防波堤が必要であった。

 当時、満州には中国の国家主権はおよんでいなかった。”無主の地”であったのである。したがって、この地に国家を建設することは、国際法上、主権侵害とはなり得なかった。

 本来ならば、この地には米国資本が入っているはずであった。日露戦争の後に、米国の鉄道王ハリマンが、満鉄の共同経営を持ちかけていた。日本はこの提案を蹴ってしまったが、もしもそれを受け入れていれば、日本は平和的に米国と取引をし、あえて危険を冒してこのような国家を作る必要もなかったであろう。

 満州国は傀儡政権と戦後よく言われるが、この国を作った首謀者である石原莞爾は、まったくそのようなことは考えていなかった。彼は「五族協和」を唱え、あくまでも独立国として満州国を考えていた。政府中枢に日本人が多かったのは、人材の質の面からして、やむを得なかったのであろう。

 もしも日本が大陸進出を満州国に止めておいたら、大東亜戦争が生起することはなかったと思う。日本は満州国と対等な貿易をし、満州から必要な天然資源などを輸入し、工業製品などを輸出しただろう。

 リットン調査団では否定的評価を受けた満州国であるが、それは英米からの見方であり、公平な評価とはとうてい思えない。日本が大陸に軍事的野心を持たず、満州国と対等かつ平和的外交を行なっていれば(つまり石原莞爾が企図したこと)、おそらく早晩、英米もまた、満州国を承認せざるを得なくなったであろう。また、石原らが建国のために行なった強引なやり方もまた、チャラになっただろう。(英米だって、過去には相当アクドイことをして、植民地を作っていったのだから。日本は植民地を作ったわけではないので、その点だけとっても、英米に何かいわれる筋合いはない)

 このように、当時の日本の国益や世界情勢を考えれば、満州国建国は、後世言われているような軍事侵略では決してなかった。問題はそれ以後である。

 残念ながら日本は石原莞爾の制止を振りきり、中国の主権侵害をしてしまった。ここより日中は戦争状態に入る。そして泥沼化・・・。日本は蒋介石と敵対し、彼を支援する英米とも対立関係になってしまった。

大田黒 伴雄(おおたぐろ ともお)

2016-09-24 23:02:32 | 歴史

肥後人で太田黒 伴雄と言う男がいた。

神風連(敬神党)、百七十余名の志士を指揮し、その首領の座にあって一党の乱の首謀者が太田黒伴雄である。


人事に優れ大勢ある一党の指揮を執る資質を有し常に中心に静坐していた。

その人となりは「状貌魁偉、性沈毅にして大志あり」

大柄な体格で、いかなる事にも動じず落ち着いており、立派な人格を備えていたので、宮部鼎蔵や
轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。

また彼は人と接する際、誰に対しても明るく接し、酒の席などでは俗謡を歌い座を盛り上げる等豪快でさばけた一面も持っていた。

太田黒伴雄、幼名を鉄兵衛と言い飯田家の二男として熊本水道町に生まれる。

父・熊次と母・岩尾氏の子として、また長男・勝兵衛、長女・瀧子に囲まれ幼少期を過ごす。

彼が四歳の年、父・熊次が病に罹り早世した。

一家は凋落し、母は三人の子供を連れ実家を頼ってその扶養を受けるようになる。

幼き日の鉄兵衛は腕白で近所の子供達を泣かして周る困った子供だったが生まれつき病弱で薬を絶やさず床にあって書を読みすごしていた。

しかし十四、五歳の頃になるとまるで別人のように穏やかで素直な性質になり、身体もすっかり健康になった。

12歳の時、大野家の養子となり大野鉄兵衛と名乗り藩へ仕えるようになる。

朱子学、そして陽明学を学び、後に林桜園の原道館に入門し、神道を学ぶ事で敬神に心を砕く様になっていった。

時同じく、桜園門人として学んでいた山田十郎、河上彦斎、加屋栄太と、度々道義を交わし親交を深めていくのである。

嘉永黒船来航の時、彼は江戸に在って諸藩有志らと天下の形勢を探り、不平等条約が結ばれたのを知ると、嘆き憤りいよいよ尊攘の志を強くしていく。

当時佐幕傾向にあった肥後藩では勤王を志す者を忌み嫌っておりその禍は身家に及ぶと言われていたので、鉄兵衛はそれが大野家に及ぶのを恐れて廃嫡を決意した。

彼が大野家を継いだ後、家では一子、宗三郎が誕生していたので、それに譲ろうと考える。

この宗三郎は後に太田黒伴雄と共に決起し、最後まで義兄の傍らにあり法華坂にてその介錯を任される大野昇雄である。

文久二年、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請が来ると、藩主の弟・長岡護美の随従員として、肥後勤王党から住江甚兵衛、轟武兵衛、宮部鼎蔵、河上彦斎、加屋栄太らが上洛した。





鉄兵衛はこの時江戸に在り参加することが出来ず悶々とした日々を送る。

藩主に従って帰郷する途中、友人を訪ね主君に随行し遅れた罪として、大野家を十四才になった宗三郎に譲り自分は一室に篭り一層敬神に心血注ぐのである。

この後、朝廷はさらに天下に親兵を募り禁裏の守備に当たらせ、肥後藩も住江甚兵衛に命じ精鋭50名を選抜した。

その時、宮部と謀り鉄兵衛もこれに加えようとするが、鉄兵衛は

「私を簡抜いただいた事は誠に光栄であります。しかしながら、これに当たらせたい同志が他に多くおります。どうか一人でもそれらからお選びください。私はお留守を預かり、畏れながら皇室の御為、同志の為尽くします。」

と言い辞する。

宮部らは大いに感激し安心して彼に後事を託すのであった。

元治元年、鉄兵衛は親友の堤松左衛門らによる横井小楠暗殺未遂事件に連座し八ヶ月間の投獄生活を送った。

彼は実姉瀧子から大変可愛がられており、瀧子は投獄中の弟に食物や衣類を差し入れ、また鉄兵衛も瀧子を敬信し、その姉弟愛は他に見ないほどだったという。

廃嫡の身となった鉄兵衛は、この日より新開村にある伊勢大神宮に毎日足を運び断食や火の物を絶つといった修行を行っていた。

当時神官を務めていた太田黒伊勢は子もなく神に祈り跡目を請う。

そんな中、日々熱心に新開へ赴き神前にて祈祷をする鉄兵衛を見出し、これを養子として迎え入れようとする。

はじめは鉄兵衛も固辞していたが、林桜園、斎藤求三郎らの説得によって彼は遂に太田黒家へ入る事を決意する。

明治二年に養子に入り、養父伊勢に代わって新開伊勢神宮の神官となり名も伴雄と改めた。

新開には遠方からも彼の赤誠に敬慕を抱く人々が集い、厄災や病魔の祈祷を依頼する等訪問者は後を絶たなかった。

明治三年、林桜園に従って、江戸へ赴いた伴雄は三条実美、岩倉具視らと会見する。

桜園は後事を伴雄に託すよう岩倉に伝えるが、岩倉は伴雄がなおも尊攘に固執する人物であるとし断る。

要領を得ずままの帰県であった。

同年、ついに長旅の疲労が病を進行させ林桜園はこの世を去る。

桜園は病に倒れてからは新開の太田黒家で療養しており、伴雄は献身的に師の看病に当たっていたという。

やがて維新政府より断髪令、ついで廃刀令が出されると伴雄は怒り憂い、天皇家が永遠に続き、夷荻が国威にひれ伏すよう神に祈り数日にわたって断食を続け、火の物断ちなどを行った。

余りに長く続けた為に顔は青白くやつれ、病人のようだったと言うがその情熱と堅固な意志は変わる事無く、周囲の者たちは奮起し更に彼を敬慕するのであった。

伴雄は住江甚兵衛を訪ねて幾度か挙兵すべきかの同意を求めるが、住江はその勝算を見抜き、年長な人々は分別つくものの、青年らまで勝つ見込みの無い戦に出すのは可哀相ではないかと諌めた。

日々若手同志面々が死なせて欲しいと迫り流石の伴雄もこれらを抑えるのは難しくまた同時に健気なりと涙ながらに訴える事もあったという。

しかし三度目の会談でも同じく同意得られず遂に憤怒し、席を蹴り制止を聞かず去るのであった。

敬神党の志士達は世の中の不義を嘆き挙兵の志を切にし意気投合結託し敵対勢力の動向を探っていた。

しかし、伴雄達、幹部連が挙兵の号令を軽々しく発しないのをみて、飯田、野口、水野等はぐずぐずしていては時期を失ってしまうと、挙兵の期を早めるよう伴雄の下を訪れては迫るのだった。

国内が西欧文化に塗れ変わり行く様を嘆き一党はその憤慨止むところはなかった。

太田黒伴雄を首領として立ち、一党の面々もまた彼に絶対の信頼を持ってその指示命令のままに動き挙兵期日に至っても彼の伺う神慮のままに任せるのである。

その決起の日についても全て神慮をもって決し、幹部参謀は三、四日前にやっと知らせを受け、その他の者においては前日もしくは当日に事を知る事となったが、それでも彼等は首領を信じただ黙々と戦に備えるのであった。

ある晩、愛敬宅に同志が集まり、太田黒伴雄を首将として改めて命を受けようという案が出される。

伴雄はこれに対し

「我々は御神慮によって動く神兵である。神祇を将帥とするのみ」

と言い、同志達は皆感動して奮躍するのであった。

十月十七日、富永を伴って姉の居る橋田家を訪れ、そこで一泊し深夜まで密議を行う。

幹部等を集め、正に最後の参謀会議を開きそこで遂に

「事二十四日に起こせり」

と言った。

伴雄は帰り際、姉・瀧子に向かい

「二十四日に友人八十九人を伴い来るので酒肴の用意をお願いしたい」

と言った。

瀧子はそれを快く受け入れる。

瀧子はその依頼の理由を近隣に住む同志・工藤精吾より密かに聞いていたのだ。

弟の主義精神を十分に解し動じる事無く準備を整えその日の夕刻を待つのだった。

二十二日の晩、養父母や妻に熊本へ暫く出向く事を告げ、新開村の自宅を出る。

二十四日の晩には橋本家へ同志も集まり、伴雄もまた斎藤と共に着く。

瀧子は

「お客はこれだけですか」

と問うと、彼は

「師走も近く忙しい故」

と答え、自身は予め用意を頼んでおいた白木綿を腹に巻き、羽織を着け一刀を腰から下げ、他は袋に入れ手持ちにし、御軍神を背負って出陣の用意を整えた。

瀧子は前もって支度していた酒肴を出し、祝宴の準備を整え振舞った。

伴雄が静かに斎藤らと杯を交わしているところへ姉・瀧子が来て、この度の挙兵の事を問い、万一敗れたらどうなるのかと尋ねる。

伴雄は

「今日の法においては罪はその一人にのみ科せられるので家族にまで影響は無いから安心なさい」

と言った。

瀧子は安堵し、それならば見事働いて来いと激励するのだった。

その後一党は橋田家を出て、愛敬宅へと移動。

愛敬宅には既に同志面々既に居り、その出で立ちは様々だった。

羽織袴に草鞋を履くもの、簡単な具足のみを身に纏うもの。

そして烏帽子直垂を纏いたすき十字に打立てる者。

これら一様に大小帯刀し、または薙刀槍を携えて集まってきたが、その中に銃器を構えている者は一人としていなかった。

その古武士さながらの意気凛然な様は、洋式武器を備えた鎮台兵すらも踏みにじらんばかりの勇ましい姿であった。

愛敬宅で最後門出の祝杯を挙げた後、すぐ傍にある藤崎神宮へ移動。

一党は幾つかの隊に別れ県要人及び鎮台司令を襲う一隊と、鎮台本営を襲う一隊とに分け出撃する。

太田黒伴雄は加屋霽堅や斎藤求三郎等と共に本隊を率い、砲兵営を襲撃。

不意の襲撃に営内は騒然となり日本刀を振るう志士等の前に砲兵営は陥落。

一同神の加護であると初戦の勝利を喜び一度引き上げようとした時、もう一隊が向かった歩兵営から銃声喚声が轟く。

これを聞いた副首領・加屋霽堅は

「速やかに赴き助けよう」

と訴え一同もこれに応じ共に坂を下って営内へ進入する。

志士達は果敢に戦うが、近代兵器の前に次々と斃れ苦戦を強いられる。

やがて、歩兵営の一斉射撃により加屋霽堅が腹に銃弾受け即死すると伴雄は悲憤し自ら先陣へ向かい刀を奮って奮闘するが、そのとき弾丸が頬をかすり、続いて胸を撃ち抜いた。

崩れ落ちた首領を見て同志達は慌て駆け寄る。

吉岡軍四郎が彼を抱き起こして担ぎ、法華坂の民家へと逃れた。

この時、義弟・大野昇雄も義兄の負傷を聞きつけ、また長老上野堅五も傷を負いながら駆けつけた。

伴雄は死を悟ると傍に控えていた吉岡、大野へ向けて

「頬を撃たれた時はまだまだと思ったが、胸をやられては生きた心地がしない。どうか速やかにわが首を打ち御軍神と共に新開へ送ってくれ。」

と命ずる。

一同は

「誰に介錯をさせましょう」

と問うと、

「宗三郎、お前がせよ」

と大野に向かい静かに言い渡すのであった。


時期に営兵も追い迫り、首領が敵の虜となる事を恐れ大野は遂に刀を挙げて泣く泣く義兄の首を打ち落とした。


大田黒 伴雄

享年43歳。

1924年(大正13年)、正五位を贈られた。




大田黒 伴雄

和歌

「おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため」

「天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな」

「かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ」



殉国七士

2016-09-10 11:45:51 | 歴史
殉国七士

「殉国七士」と尊称されている人々は、先の東京裁判で、日本を背負って絞首刑となった七人であります。

土肥原賢二

松井石根

東条英機

武藤章

板垣征四郎


広田弘毅

木村兵太郎


当時の国際法を無視し、大量殺戮兵器を用い、無差別虐殺を行うことによって血塗られた勝利を、大東亜戦争において収めたアメリカを中心とした十一ヵ国による日本処分が東京裁判です。

戦争犯罪によって得た自らの勝利に基づいて、敗者を戦争犯罪者として裁くという、まさしくそれは勝てば官軍と言う言葉が当てはまります。

人間としての誇りを一片なりとも持っていれば行うことができないような裁判によって七名は裁かれました。

東京裁判によって犯罪者とされ昭和二三年十二月二三日未明に処刑された七人は火葬に付されました。

*十二月二三日は今上天皇ご出生日です。

彼らの遺骨が、GHQの目を掠めて採取された状況は、塩田道夫氏が詳しく書かれているので引用します。


全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。このため骨壷は米兵の手もとへ移った。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

A級戦犯の遺骨を奪う計画は。小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

これを盗み出すのは十二月二十五日の夜と決めた。米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。

以上、「天皇と東条英機の苦悩」(塩田道夫著)より


このようにして集められた遺骨は、翌昭和二四年五月にはまだGHQの勢力下に日本があったため、伊豆山中の興亜観音に隠されるように葬られました。

しかし昭和三三年に入ると、他の場所に移してお祀りしようという話が持ち上がり、昭和三五年八月十八日に三ヶ根山(愛知県幡豆郡幡豆町)の山頂付近に移されることになりました。

三ヶ根山には殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置され、今に至ります。




最後に七名の辞世の句、詩を紹介します


土肥原賢二

「わが事もすべて了りぬいざさらば ここらでさらばいざ左様なら」

「天かけりのぼりゆくらん魂は 君が代千代に護るならべし」

「踏み出せば狭きも広く変わるなり 二河白道もかくやありなん」


松井石根

「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」

「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なればく」

「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心」


東条英機

「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」

「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」

「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」

「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」


武藤章

「霜の夜を 思い切ったる門出かな」

「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」


板垣征四郎

「ポツダムの宣のまにまにとこしえの 平和のために命捧ぐる」

「とこしえの平和のために身を捨てて 糞土を黄金にかえる嬉しさ」

「大神の御魂の前にひれふして ひたすら深き罪を乞うなり」

「今はただ妙法蓮華と唱えつつ 鷲の峰へといさみたつなり」

「さすらいの身の浮き雲も散りはてて 真如の月を仰ぐうれしさ」

「懐かしき唐国人よ今もなほ 東亜のほかに東亜あるべき」


広田弘毅

広田弘毅さんはは辞世の句を断ったそうです。

広田弘毅さんの名句を紹介します

風車風の吹くまで昼寝かな
                  
(意味)

夏、青畳の上に大の字になる昼寝は実に気持ちのいいものだ。風車が静かに回り、風鈴がチリン、チリンと小さく鳴ったりするのを聞きながらする昼寝は、昼寝の醍醐味である。だが残念ながら風が吹かず風鈴は鳴らない。風が吹くまで待つこ
とにしょう。


木村兵太郎

「現身はとはの平和の人柱 七たび生まれ国に報いむ」

「平和なる国の弥栄祈るかな 嬉しき便り待たん浄土に」

「うつし世はあとひとときのわれながら 生死を越えし法のみ光り」











殉国七士廟(じゅんこくななしびょう)

2016-09-03 17:53:11 | 歴史

殉国七士廟(じゅんこくななしびょう)

日本人ならば訪れなければならないところです。

殉国七士廟は愛知県の三河湾を臨む三ヶ根山上にあります。

大東亜戦争の後、連合国によって「A級戦犯」とされ、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、絞首刑となった七人を祀る廟です。

7名の軍人・政治家を祀った石碑は高さ5メートルほどで「殉国七士墓」と彫られており、作られた当時の首相、岸信介の揮毫です。

7人の遺骨は実際に碑石の下に埋まっています。

殉国七士廟場所



その経緯

大東亜戦争敗戦後、GHQにより一方的にA級戦犯とされた七人は陛下の万歳を三唱して台上の露と消えました。

この時、マッカーサー司令部が七人の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明し、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人たちがありました。

彼らは深夜、七人が火葬された横浜市久保山の火葬場に忍び込み、苦心のすえに遺骨の入手に成功します。遺骨は横浜久保山興禅寺を経て、松井大将建立の熱海伊豆山の興亜観音堂に安置されていました。

当時、国の責任を極刑で一身にうけ、刑場の露となった殉国者に、日本の世情は冷たいものでした。

長らく遺骨の埋葬さえ許されず、回向すら人目を避けて行わなければならなかったのです。


それから10年あまりが過ぎ、有志の偶然の出会いから三ヶ根山頂に七氏の墓地建設が決まり、遺族をはじめ政財界、その他各方面からの賛同を得て、昭和35年に殉国七士廟の完成を見ます。




同年、当地での最初の墓前祭が斎行されました。

以来、墓の管理と墓前祭が奉賛会によって連綿と続けられています。


近くに寄られた際には、お立ち寄り頂ければと考えます。