神風連(しんぷうれん)の乱
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神風連(しんぷうれん)は熊本、千葉城にあった林桜園(はやしおうえん)の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名です。
神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体です。
断髪令、キリスト教黙認、外国人との結婚許可など新政府が押し進める文明開化の世を憂い
※宇気比(うけひ)を以って日本に降りかかる邪気を祓っていました。
敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つである『肥後勤皇党』の一派でした。
自らは敬神党を名乗っていましたが、彼らの伝統的神道への信仰心が非常に強かったので、周囲からは『神風連』と呼ばれていました。
※宇気比(うけひ)とは ?
宇気比は、日本太古の誓約祈祷である。
神代天照大神が須佐之男命と高天原(天上界)にて宇気比する事によって数多の神々を生んだことから起こりました。
つまりこれは「魂(霊)のやり取り」というような意味で、お互いの魂のこもった物を物実(ものざね元因となる物)として、精神を凝らすことによって化生神を生み成すという神術です。
三島由紀夫の著書『奔馬』の記述によると、神風連の乱はこの『宇気比』の神託を受けて決行されました。
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神風連の乱とは
神風連の乱とは、明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司の太田黒伴雄を首領とする神風連の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃した事件です。
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西南戦争の前年に起きた『神風連の乱』は、神風連の志士たちが明治政府の欧化政策に憤った士族の戦いでもあります。
封建時代が終わり、天皇制の時代になったことで、日本古来の神道に基づいた政治が行われることを期待していた彼らは、政府の方針に失望し、神託を得て尊皇攘夷論者を押さえるため各地に設置された『鎮台』を襲撃しました。
彼らは鎮台を攻め、要人を襲いましたが、近代的な兵器を持つ鎮台の前では長く続かず、一夜にして鎮圧され敗れました。
その多くは戦死、また生き残った者も自害して果てました。
あまりに無謀な戦いは純粋な大和魂の発露であり、はじめから勝敗は度外視だったのでしょうか。
それとも神託を得た自分たちの勝利を、最後まで信じたのでしょうか。
そしてその後、西南の役が起きました。
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西南の役は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。
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明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のものでした。
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『神風連資料館』
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明治9年の神風連の変で敗れた志士たちが眠る、桜山神社の境内にあります。
神風連資料館には、日本古来の政治を強く望み、信仰に生きたサムライ太田黒伴雄以下170名からなる『神風連』にまつわる資料と遺品が展示されています。
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「神風連の乱」が起こった背景や当事者の遺品、また当時の錦絵が飾られているばかりかその反乱で亡くなった120人強の人達の墓地までがあります。
神風連資料館
【所在地】
〒860-0862 熊本市中央区黒髪5-7-57
熊本観光の際にはぜひ現地を訪れてみてください。