終戦の詔勅と開戦の詔勅(日本国の大義)
(終戦をしたのは)米軍が強かったから日本軍が負けたのではなく、敵側が、国際法違反をあまりにも犯しまくり、尋常ならざる卑怯な手を使い、ナチスも真っ青な“日本民族の浄化”を強行しようとしたからです。
天皇陛下は、このまま血に餓えた米英の残虐行為を放置すれば、人類文明を破滅させると直感され、『堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を止めよ』と国民に命じられた。
だから、止む無く全軍が銃剣の『戈(ほこ)』を収め、こちらから戦争を止めただけです。敵の暴虐を止めさせるために、こちら(日本)から、『終戦を宣言』された。
世界の半分に拡大していた日本軍の戦線は、昭和天皇陛下の『終戦の詔書』が発せられるやいなや、一斉に武器を収め、以後日本軍のゲリラも無かった。これほど見事な停戦振りや、一糸乱れぬ日本軍の規律正しさは、人類史上、例を見ません。
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だから8月15日は「終戦記念日」なのです。まちがっても「敗戦記念日」ではない。
「だって日本は戦争に負けたじゃないか!」という人もいるかもしれない。
違います。
戦争というのは、「国家がその政治目的を達成するための究極の手段」です。
そして大東亜戦争は、欧米列強の植民地政策に対し、人種差別撤廃を主張する日本が、東亜諸国の植民地支配からの脱皮と独立、そして繁栄のために、これを拒否しようとする勢力を相手に戦った、戦争です。
なるほど物量に乏しく軍は苦戦を余儀なくされたけれど、我が国が掲げた戦争の目的は、戦後15年ほどの間に、ことごとく達成した。
欧米諸国は植民地を失い、東亜の諸国は独立を果たした。そして多くの国々が欧米と肩を並べる発展と栄華に浴している。
日本は戦争の目的を達成したのです。
達成したということは、戦争に勝った!ということです。
昭和20年8月15日は、そのための戦闘行為を終結させたにすぎない。
歴史というものは、常に「流れ」の中にあります。
宣戦布告や、終戦の詔勅は、その流れの中のひとつの区切りです。
実際、宣戦布告の前に、外交交渉上も軍事面でも、国家対国家の主義主張の違いによる戦いは始まっていたし、終戦後も、亜細亜ならびに日本の独立自尊の戦いは続いている。
そしてね、これも大切なことなのだけれど、大東亜戦争のあと、きちんと宣戦布告して戦いに臨んでいるケースは、以後、たくさんの戦争が起こっているけれど、実は、まるで“ない”のです。
「宣戦布告」というのは“しなければならないもの”ではありません。
「宣戦布告」すると、戦時国際法が適用されます。当然、戦争当事国の武力行使には交戦法規が適用され、第三国には中立法規が適用になる。
大東亜戦争の後も、世界各国で数々の戦争が行われているけれど、いずれも「宣戦布告」なしで、事実上戦争に突入しています。
日本が、堂々と、日本の数十倍の国力を持つ列国に対して「宣戦布告」を行ったのは、それだけでも、じつに立派な武士道精神のもたらしたもの、ということです
そして、大東亜戦争の開戦の詔勅が次に示すものです。
原文と現代文の両方を示したいところですが、長文なので、原文は写真だけにし、口語訳の抄だけを以下に載せます。
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【米英両国に対する宣戦の詔書】
大東亜戦争開戦の詔勅
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、
私の国民はおのおのその本分をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、
この戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
残念なことに(内乱状態にある)中国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石一味は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
それだけでなく、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている(ABCD包囲網)。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。
ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
御名御璽
昭和16年12月8日
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歴史の真実は、この開戦の詔勅に書いてある通りです。
当時のシナは、欧米列強の植民地分捕り合戦によって、清王朝が崩壊し、無政府状態、内乱状態に陥ってた。
なかでも最大勢力となっていたのが、蒋介石率いる国民党です。
本来、国民党にしても、武器がなければ言論戦程度の戦いしかできなかった。
実際、当時シナにあった毛沢東率いる八路軍など、大東亜戦争当時は、八路“軍”とは名ばかりで、武器も食料もなく、単に流浪の共産主義者の群れであったにすぎない。
八路軍が力をつけ、戦後のどさくさまぎれに中華人民共和国を設立したのは、終戦時にシナに乱入したソ連が、武装解除した日本軍から武器や弾薬をとりあげ、これをまるごと八路軍に手渡したことによる。
そして、国民党に武器弾薬、果ては高射砲やら迫撃砲など、近代的軍事装備一式を提供したのが、シナ事変当時の米英だった。
米英は、せっかくまとまりつつあり、平和を取り戻しつつあったシナを、内乱の嵐に陥らせることで、漁夫の利・・・すなわち、戦争で疲弊したシナをまるごと植民地として飲み込もうと画策した。
そしてシナに平和と治安の回復を図ろうと平和維持活動をしていた日本に対し、あろうことに軍事・経済封鎖まで図ろうとした。
日本をどうにもできないところまで追い詰めようとした。
このままでは、日本自体が自滅してしまう。
やむを得ず戦いに踏み切った詔勅が、上に示した開戦の詔勅です。
ちなみにね、近年で大きな戦争といえば、イラク戦争や、アフガニスタンでの戦争などがあげられるけれど、これなど、米国大統領が「攻撃がはじまるであろう」と演説しただけで、戦争がはじまっている。
ベトナム戦争にしても、宣戦布告など、ないです。
さらにいえば、イラクのケースでは、その大義名分となったフセインの大量破壊兵器というものも、発見されていない。
日本は正々堂々、なのです。
そして、終戦の詔勅です。
終戦の詔勅は、玉音放送として、全国に放送された。
難しい漢字カナ交じり文だけど、ここには、日本人としてとても大切なことが書かれています。
これほどまでに切々とした文章を、昭和天皇がどんな想いで起草し、読まれたか。
そして、なぜこの終戦の詔が「昭和の御聖断」と呼ばれたか、読んだらわかります。
大東亜戦争終結の詔勅
そして、なぜこの終戦の詔が「昭和の御聖断」と呼ばれたか、読んだらわかります。

【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和20年8月14日
【口語訳】
朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕はそれをつねづね心がけてきた。
先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではない。
しかるに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。
帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。
かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところである。
思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。
汝ら臣民の真情も、朕はよく知っている。
しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。
もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。
御名御璽
昭和20年8月14日
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終戦の詔勅は14日に承認され、15日に玉音放送となって全国に流れた。
そして日本は国としての戦闘行為を、この日を境いに、ピタリと止めている。
実に整然としている。
陛下は、はっきりとおっしゃられた。
「(この戦争は)帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときものではない」
そして原爆が落とされ、これ以上戦闘を続けるならば、
「日本民族が滅亡するだけでなく、万国共存共栄して楽しみをともにしようという八紘一宇という、諸国友好を希求する人類文明の願いそのものを破滅させてしまう」
と述べられている。
つまり、戦闘行為を終結させたのは、あくまで「諸国友好という人類普遍の願いの実現のため」であった。
だからこそ
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したい」
と述べられている。
万国の未来のためです。
日本だけでない。世界の人々の子々孫々の諸国友好のためです。
その任務は任務は重く、道は遠いけれど、
日本の臣民は、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじ、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精華と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
そして汝ら臣民は、これを陛下のご意志として体現せよ。
と結ばれています。
思うに、戦後の日本は、持てる力のすべてを「(箱物の)建設」と、「経済的発展」のために用いてきた。
物質的な建設と、それを行うための経済的な発展の部分だけは、必死になってやってきた。
しかしその一方で、戦後日本は、陛下の御心である、『道義』や『志操』をゴミ箱行きにしてきた。
『国体の精華』なんて、国民体育大会の聖火としか思われないほど、精神性を捨て去ってしまった。
いまでは、『挙国』『一家』という言葉すら、戦前の軍国主義への偏見や、ヤクザの一家という歪曲されたイメージでしかみられないという、情けなさです。
そのうえ昨今では、反日であることが、まるで正義のように喧伝されている。
でも米英中ソなどの施政者が、もっとも恐れたのは、日本の軍事力ではないのです。
彼らが脅威に感じたのは、他の何ものでもない、日本人の国を挙げての相互信頼意識、そしてその相互信頼に基づく精神力です。
日本社会の相互信頼を破壊し、日本人の精神力を崩壊させて日本人を骨なしすることが、日本という驚異を取り除くための彼らの最大の課題だった。
なぜかって? 簡単なことです。
日本人は100の利益を100人で稼いだら、100人が1ずつ利益を分ける。
多くの会社でもそうです。会社に利益があがったからって、社長さんが利益を独り占めにしようなんて会社は、日本人経営者の会社なら、稀です。
みんなが利益を享受できるから、みんなで力を合わせるし、互いに信頼し合うし、みんなの力が揃うから、100の利益が200にも300にもなる。
利益をあげるために、もっとみんなで頑張ろう!となる。
ところが、欧米や特アの考え方は違います。
100人で100の利益をあげたら、ひとりが80を奪い、残りの20を99人で分ける。
下の人間が利益を享受しようとするなら、自分よりもっと下の人間を作らなきゃならない。つまり奴隷や被植民地の人々を作る。
人を支配することで、多くの人の命を犠牲にして上位の者だけが利益を享受する。
そういう社会に対し、日本のような相互信頼に基づき、みんながみんなのために働くなどという高度な社会構造と精神文化を持った社会というのは、邪魔者でしかない。
一例をあげます。現代放送業界です。
実際に番組の制作をしている下請け、孫請け会社の人々は、極めて劣悪な労働条件、低賃金で働いている。
そして放送局内を見ると、平均年収1500万。プロデューサークラスになると年収3~4000万円。みのもんたあたりは、番組出演だけで2000万円・・・・
その番組制作に携わっている裏方の大道具や小道具の下請けのおじさんたちは、だいたい年収150~200万円・・・
そして放送業界の広告料収入が減って傾きだすと、業界をあげて日本政府にカネをくれとせがむ。まるでどこかの国と同じです。
ちなみに、旧帝国軍人さんの場合、徴収兵(1等兵・2等兵)さんたちの給料が月15円、将校クラスが25円だった。その責任の重さに対し、給料の差が著しく少ないのが日本軍の特徴です。
これが米軍になると、最下級兵士の年収がだいたい150万円。
司令官クラスで1500万円。10倍もの開きがある。
さらにイラクの軍人の場合だと、一般の軍人の年収が5~6,000円、将校クラスが5~600万円。1000倍からの開きがある。
話が脱線したけれど、相互信頼を築き、みんなで力を合わせて難局にも立ち向かう、そしてみんながよくなることが自分の幸せと考える、そういう日本という国の精神性は、世界史上も、稀有の存在とみていいのではないかと思います。
実際、そうした日本の精神は、戦前、日本自体が貧乏国でありながら、巨費を投じて台湾のインフラを国家規模で整備したし、満州においても、わずかな期間で社会資本を整備し、治安維持を促進した。朝鮮半島またしかりです。
加えて僅かな期間の統治にすぎなかった太平洋諸国についても、現地の文化や宗教をまるごと認め、それを維持しつつ、国家規模のインフラ整備を図った。
戦後、欧米諸国がイラクやアフガニスタン、中東、ソマリアなどに政治介入しながら、またシナが、ウイグルやチベット等に政治介入しながら、いっこうに治安維持が促進されず、現地のインフラが整備されない様子をみれば、日本の統治がいかに素晴らしいものであったかがわかろうというものです。
ともあれ、戦後、そしてこれからの日本を考えるとき、この玉音放送で読まれた昭和天皇の御心は、すなわち
日本の臣民は、道義を重んじ、志操を堅固に保ち、誓って国体の精華と美質を発揮せよ
というものであった。
私たち日本人は、もういちど、この陛下のお言葉をしっかりと噛みしめる必要があるのではないかと、思うのです。
ちなみに「臣民」という言葉につい
「臣民」については以下に引用します。
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臣民の言葉は、近世までは用語例は少なく、特に、帝国憲法で法律用語として使はれたことによつて注目された。
そもそも、「臣」と「民」とは全く異なつた概念である。
臣とは、治者である君主に仕へる「人臣」(臣下)であり、民とは、被治者である。
臣の文字は、象形文字で、下に伏せて俯いた目を意味し、民の文字も象形文字で、目を針で突いて目を見えなくした姿を意味するとされる。
同じく目(知見)に関する文字で、これらが寓意するやうに、治者側と被治者とは峻別されるものである。
ところが、それを帝国憲法において一体混合したした概念として創造したのは、「臣たる民」として民を臣に昇格させ、天皇の下に一視同仁の平等社会を実現する理想に基づくものである。
これは、まさしく『五箇条ノ御誓文』においても明らかである。
それは、
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其ノ志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
とあり、「民」を「盲(めしひ)たる民」(盲民)とせずに「臣たる民」としたことにあり、「臣民」とは、神国日本の民の自覚により「神民」となり「公民」、そして「皇民」となるための名称である。
そして、この「臣民」概念は、現代においてまさにその効用が求められてゐる。
「国民」は、言語的には「国の盲民」を意味したままであり、官(臣)と民とは待遇においても隔絶されたままの概念である。
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終戦の詔勅においても、陛下が我々国民に呼びかけられているお言葉は、「臣民」です。
そして「臣民」いう言葉には、単なる「国にいる人」=「国の民」と意味でなく、ひらくたくいえば、我々日本人を、心から慈しむ心、国の民全員を「大事な臣」として、すなわち「大臣」として大切にお考えくださている心がある。
陛下は、我々臣民(誇りを持って“臣民”と言います)を守るために、終戦の詔勅を発せられ、戦闘を終結せられた。
しかし、陛下は同時に、我々臣民に、
道義を重んじ、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精華と美質を発揮せよ
と託された。
戦後60年、いまだ私たち臣民は、陛下のこのお言葉、「道義、志操、国体の精華と美質」を実現していません。
わたしたちは、この祖国日本を守るために亡くなられた二百万の英霊へのご供養のためにも、いまこそ、志操を取り戻すべきときにきていると考えます。