高天原(たかあまはら)三丁目

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宮部鼎蔵

2016-09-26 20:59:35 | 歴史

宮部鼎蔵
 宮部鼎蔵(みやべていぞう)は1820年4月、肥後国益城郡田代村(熊本県上益城郡御船町)にて、宮部春吾の長男として生まれた。

宮部鼎三とも。諱は増実。号は田城。

 代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいる。

 9歳の時に熊本城下にて学び、14歳の時に蒼莨塾(そうりょうじゅく)に入門し医学を学ぶと、天保の大飢饉などで貧しい生活を強いられたが、1837年、なんとか蒼莨塾を卒業した。


 しかし、家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就きく山鹿流軍学を学んだ。

*なお、1841年、21歳の時、叔父の宮部丈左衛門の養子となったが、その年に宮部丈左衛門は死亡。

 その後は兵学師範である村上傳四郎に師事し、24歳のときには村上傳四郎の代見を仰せ付けられている。

 30歳のとき、中尾ゑ美と結婚。この頃、熊本藩(肥後藩)に召し出されて、31歳の時、軍学師範となった。

 1850年、長州藩の吉田松陰と同じ山鹿流軍学を学んでいたと言う事で、吉田松陰が九州遊学した際、宮部鼎蔵の家に宿泊し会談した。

 1851年、宮部鼎蔵は国老・有吉頼母(有吉市郎兵衛)に従って、江戸へ赴任すると、江戸に出ていた吉田松陰と再会し、意気投合し親交を深めた。

 そして、ともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊している。

 1852年、熊本に戻ると林桜園(はやしおうえん)に就いて原道館に入ると、皇朝の古典や国学などを学んだ。

 1853年、黒船が来航すると江戸に出て同志をまとめている。

 1859年、吉田松陰が処刑されると熊本に戻ったが、門人・丸山勝蔵や、実弟・宮部大助らが起こした水前寺乱闘事件で連座し、兵法師範職から解任され退隠生活した。

 1861年、肥後勤皇党に参加すると中心的な人物となった。

 1862年、七滝村で退隠している所に、出羽の清河八郎が訪ねて肥後勤皇党にも攘夷に参加するよう説得。

 宮部鼎蔵も説得したが、肥後勤皇党は動かず、藩も同様だった為、宮部鼎蔵は奮起して京都に上り、勤王志士と交流し政治活動を再開した。

 細川藩に勤王の興起を促し、1863年、京都守護職・松平容保の会津藩、桑名藩・彦根藩・加賀藩の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等、全国諸藩から選抜された親兵3000人が設置されると総督・三条実美の下で宮部鼎蔵が総監に命じられた。

 1863年、八月十八日の政変で、朝議が一変し、長州藩が京より追放されると警備にあたっていた熊本藩士らも解散となったが、佐幕の熊本藩に戻る気にならず、宮部鼎蔵ら尊攘派志士たちは脱藩して、三条実美ら七卿と共に長州藩へ落ちた。

 その後、1864年には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿。

 1864年6月5日未明、同志の古高俊太郎が新撰組に逮捕された為、京都三条小橋の池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派、20数名がひそかに会合し救出作戦を練ろうとした。

そこを近藤勇、土方歳三らが率いる新選組に襲撃され、奮戦するも自刃した(池田屋事件)。享年45。

 長州藩の吉田稔麿も命を落とした。


 実弟・宮部春蔵も、1864年、禁門の変に参加し、真木和泉らと共に天王山にて自刃。享年26。

 宮部鼎蔵ら兄弟が亡くなった5年後に明治維新を迎え、志士たちが望んだ新しい時代が始まったのだ。

 現在、宮部鼎蔵の生家跡には大きな石碑が立っており、その近くのカシの木の下には、産湯の井戸が残されている。



 (参考) Wikipedia

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