高天原(たかあまはら)三丁目

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天皇125代の足跡(46代、48代重祚)

2015-10-18 13:39:43 | その他
第46代:孝謙天皇(こうけんてんのう)
重祚して第48代:称徳天皇(しょうとくてんのう)






在位期間 : 孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)

称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)

和風諡号 : 宝字称徳孝謙皇帝(ほうじしょうとくこうけんこうてい)、高野天皇(たかのてんのう)


父は聖武天皇で母は藤原不比等の娘の光明皇后

考謙天皇も父親の聖武天皇同様に仏教への信仰は厚く、753年に東大寺の大仏が完成すると開眼供養を行った


この孝謙天皇は独身で子供がいなかった為、皇太子を誰にするべきかが当時大きな問題であった

この時、大きな力を握っていたのは、藤原仲麻呂という人


この仲麻呂の推薦で大炊王(おおいおう・天武天皇の孫)を皇太子にすることを決めた

この大炊王とは、仲麻呂の息のかかった人物だった


孝謙天皇は仲麻呂に大きな信頼を寄せており、その後、皇位を大炊王に譲ったがその後、僧侶道鏡と考謙上皇との出会いがあり複雑になってきた


病で倒れた考謙上皇をひとりの僧侶、道鏡が看病し病を治してみせた

その後、考謙上皇は道鏡に絶対の信頼を寄せるようになった

いったんは、皇位を大炊王に譲った孝謙天皇だったが再び政権を取り戻すことにした

裏で道鏡の思惑もあったと推測できる


そして、仲麻呂を謀反の罪で捕らえ、淳仁天皇(大炊王)の帝位を廃止すると、寵愛する道鏡に法王の位まで授けた

そして、考謙上皇は、再び天皇の座につき、称徳天皇となった


その後、道鏡は天皇の座まで狙うのが失敗し、770年に称徳天皇が崩御すると後ろ盾をなくした道鏡は、下野国の薬師寺別当に左遷された


陵所:高野陵(佐紀高塚山古墳)







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