olatissimo

この島で生まれた息子はなんと中学生。ほぼ育児日記です。

『はみだしの人類学』

2020-07-27 | 読書メモ
 
だいだい文化人類学の本というのは
何と言っても細かい具体例
(フィールドワークのエピソード)が面白いので、
どれもこれも捨てがたくなり、
思わず全項目を紹介したくなるのですが、
そうなると実際に本を読んだ方が早いので
ここでは主に結論部分に絞ってメモ。

それでも長くなっちゃうんだけど。


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この本の主なキーワードは
「わたし」「つながり」「はみだす」です。

「わたし」(人間)をどのような存在として捉えるか、
集団間の差異とは何か、
ということが説明されます。

「わたし」も、「集団」も、
他者との関係(つながり)の中で
存在するものであり、
つながるからこそ境界が出来、
差異の対比の中で
固有性の確信が生まれる…
といったことが
丁寧に、わかりやすく説明されているのですが、
息子はこの導入部分の印象で
つまづいたようです(笑)

具体例を辿ると、
誰だって「なるほどね!」となるのは
請け合いなんですが。


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以下は、
なるほどね、と思った結論部分の
ピックアップです。
まとまりないままに列挙します。



★カテゴリー化の危険性

「わたし」という存在には
複数の境界線の引き方がある。
(人種、性別、信教、思想信条、労働形態、等々…)

状況に応じてコロコロと変化しうる「わたし」を、
例えば「日本人」「外国人」「男性」「女性」などという
枠組みだけで固定的に捉えて語ることが
どれほど乱暴なことか。
それは無数の可能性の中から
恣意的にあてはまるものを
一つ選んでいるに過ぎない

でも、ある種の暴力へと動員されたり、
その暴力の標的にされたりするとき、
そうしたカテゴリー化が利用される。
(国民なら国のために命をかけて戦え、
○○教徒は、○○人は危険だから殺しても良い、など)
私たちはそうしたカテゴリー化の暴力
晒される可能性が常にある。



★個人の輪郭と、そこから「はみだす」ということ

(著者が調査でエチオピアに行った時の話から)
最初は「日本人」と「エチオピア人」という
単純なつながりだったのが、
付き合ううちに、
だんだんそれ以外のカテゴリーが増えていく。
(先生、ご近所さん、友人など)

増えるにつれ、目の前の相手が
「エチオピア人」ではなく、
固有の「あなた」になっていく。

「溶ける」「開かれる」という表現で語ってきた
「はみだし」は、
そんな複数の関係性が築かれるなかで起きる。

私たちは、他者とつながるなかで、
境界線を越えた交わりをもつ。
それによって変化し、成長することもできる。
いろんな外部の要素を内側に取り込んで
変わることができる(=「わたし」が溶ける経験)。
それを受容力と捉える。

その出会いの蓄積は、その人に固有のもの。
どんな他者と出会うかが鍵。

「わたし」の固有性は、
他者との出会いの固有性のうえに成り立っている。



★「共感のつながり」と「共鳴のつながり」

他者との境界、差異を強調する
「(集団内の同質性にスポットを当てる)
共感のつながり」は、
「わたし」の存在の確かな手応えを与えてくれる
大切な承認の機会だが、
しかし同時に、異質なものや変化を拒む力も潜んでいる。

「わたし」が他者との交わりの中で変わる
「(異質なものに対する)共鳴のつながり」は、
予想外の出来事や偶然の出会いでの変化を、
自らの糧にする。



★直線の生き方

目的を決めて、
それにむかってまっすぐ進むような生き方。
結果を重視する受験勉強やビジネスの世界。
出発前から既に決まった経路を辿るだけの旅。
できれば最小限の努力とコストで目標を達成したい。

その落とし穴は、
定められた目標以外のことを考えなくなる。
ある種の思考停止に陥る危険性があるということ。
そして、その過程に起きる全てが「余計なこと」になる
ということ。

小さいときから、
好きな事を我慢してがんばりなさい、
そうすればより良い人生が送れると
言われ続けて大きくなる。
大きな目標を達成することだけを目指して
(実はその目標は通過点に過ぎないのに)、
それまでの間、ずっと
周囲の変化や他者の姿に
目をつぶって耳をふさぎ、
「わたし」の変化を拒みながら
足早に通り過ぎていくことになる。



★曲線の生き方(文化人類学の視点)

徒歩旅行。
途中で起きることをちゃんと観察しながら進む。
ひとつの固定したゴールを定めていないので、
偶然の出来事を楽しむ余裕がある。

直線の生き方では、
目標を達成できないと「失敗」と見做されるが、
曲線上では、
それは「失敗」ではなく、興味深い「変化」となる。

曲線の生き方と、「共鳴のつながり」により、
違う世界を生きる人や
違う価値観の人を拒まず、
その出会いを、自らの可能性を広げるもの
として捉えるようになる。

「わたし」や「わたしたち」が変化するからこそ
周囲の人や、環境、自分自身も
新たな目で捉え直すことができる。
差異が、脅威ではなく、可能性になる。

それは、さまざまな差異に囲まれ、
差異への憎悪があふれるこの世界で、
他者と共に生きていく方法ではないか。

それが文化人類学を学ぶなかで手にした実感である。


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曲線の生き方が好きだ、
それなら得意だ、
というか、そういう生き方しかできないよね!
と思うであろう息子には、
是非とも読んでもらいたいんだけどな。

すごく共感すると思うんだけどな。
きっと、文化人類学が好きになると思うんだけどなー。


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