『天武と持統―歌が明かす壬申の乱』 李 寧煕
お薦め度 : ☆☆
2008年12月28日讀了
4500首餘りもある萬葉集の中から、自分に都合の良い歌を數首選び、恣意的な言葉遊びをした揚げ句、突飛な結論を出してゐる。
そのうへ、日本の萬葉學者の地道な成果を嘲笑ふとは、なんと傲慢無禮なのだらう。
むしろ、この著者の論理および手法の幼稚さに呆れ、片腹痛いとはこのことだ。
私の評價としては「☆」なのだが、かういふ無茶な論法を知つて頂くのもまつたくの無駄ではあるまいと思ひ、「☆☆」にしてゐる。
内容について、若干のコメントをば。
まづ、著者の使用してゐる「古代韓國語」といふ「コトバ」に引つ掛かつた。
「韓國」といふのは現代の大韓民國の通稱だと思つてゐたが違ふのだらうか?
たしかに朝鮮半島には三國時代以前に、例へば「狗邪韓國」など國名に「韓国」がつく小國があつた。
しかし、その事實をもつて、朝鮮半島での言語を「古代韓國語」とは云はないだらう。
だとすれば、「古代韓國語」といふ聞き慣れない名稱は何をさすのだらう。
一般に認知されてゐない言葉は、何の解説もなしに使ふべきではない。
それが、コミュニケーションのルールといふものだ。
ね、さうでせう?
次に、「古代朝鮮語」により萬葉集を解讀するといふ試みについて。
試みそのものは惡くない。
あの時代、大唐帝國に近いのは朝鮮半島であり、日本列島に傳はつた文化は朝鮮半島經由だつたことは間違ない。
從つて、萬葉集の言葉のなかに「古代朝鮮語」の痕跡が殘されてゐる可能性はあるし、それを研究することで萬葉集の難讀歌の解讀に寄與することもあるやもしれぬ。
ただし、それはあくまで假説として提唱するにとどめるべきだ。
そして、假説ならばその檢證プロセスが必要だが、本書にはそれが見られない。
常に斷定的に語られるし、讀者にはその眞僞を判斷する材料は提供されないのである。
それも當然といへば當然で、なにせ、「古代朝鮮語」による歌謠(「三國遺事」所收の「郷歌」)はわづか14首しか殘されてゐないのだから・・・
その事實について、本書では著者は觸れてゐないのだ。
都合の惡いことは伏せるのか、それとも、まさかご存じないのかな?
讀解方法について。
「古代韓國語」によつて讀み解くと云ひながら、時には現代韓國語を使ひ、さらには日本語の音まで使ふといふ、融通無礙な方法。
融通無礙と云へば聞えが良いが、節操がないとも云へる。
思はず、「何でもありですか?」とツッコミを入れたくなるほど。
日本も朝鮮半島も漢字文化圈にあるのだから、同じ漢字の讀みでも、それぞれの國の言葉で讀めるのは當然だ。
それを「古代朝鮮語」と稱する讀みで讀めば當然違ふ意味になる。
そこまでは理解できるが、漢字によつては「日本語の訓」で讀み、その音韻を韓國語(朝鮮語?)に當て嵌めるといふ手法は、あまりにご都合主義であらう。
これを恣意的と云はずして、何を恣意的と云はうか。
讀解結果について。
ここで觸れる氣にはなれない。
興味のあるかたは、本書を讀まれたい。
<參考>
『本当は怖ろしい万葉集―歌が告発する血塗られた古代史』 小林惠子
お薦め度 : ☆☆
2008年12月28日讀了
4500首餘りもある萬葉集の中から、自分に都合の良い歌を數首選び、恣意的な言葉遊びをした揚げ句、突飛な結論を出してゐる。
そのうへ、日本の萬葉學者の地道な成果を嘲笑ふとは、なんと傲慢無禮なのだらう。
むしろ、この著者の論理および手法の幼稚さに呆れ、片腹痛いとはこのことだ。
私の評價としては「☆」なのだが、かういふ無茶な論法を知つて頂くのもまつたくの無駄ではあるまいと思ひ、「☆☆」にしてゐる。
内容について、若干のコメントをば。
まづ、著者の使用してゐる「古代韓國語」といふ「コトバ」に引つ掛かつた。
「韓國」といふのは現代の大韓民國の通稱だと思つてゐたが違ふのだらうか?
たしかに朝鮮半島には三國時代以前に、例へば「狗邪韓國」など國名に「韓国」がつく小國があつた。
しかし、その事實をもつて、朝鮮半島での言語を「古代韓國語」とは云はないだらう。
だとすれば、「古代韓國語」といふ聞き慣れない名稱は何をさすのだらう。
一般に認知されてゐない言葉は、何の解説もなしに使ふべきではない。
それが、コミュニケーションのルールといふものだ。
ね、さうでせう?
次に、「古代朝鮮語」により萬葉集を解讀するといふ試みについて。
試みそのものは惡くない。
あの時代、大唐帝國に近いのは朝鮮半島であり、日本列島に傳はつた文化は朝鮮半島經由だつたことは間違ない。
從つて、萬葉集の言葉のなかに「古代朝鮮語」の痕跡が殘されてゐる可能性はあるし、それを研究することで萬葉集の難讀歌の解讀に寄與することもあるやもしれぬ。
ただし、それはあくまで假説として提唱するにとどめるべきだ。
そして、假説ならばその檢證プロセスが必要だが、本書にはそれが見られない。
常に斷定的に語られるし、讀者にはその眞僞を判斷する材料は提供されないのである。
それも當然といへば當然で、なにせ、「古代朝鮮語」による歌謠(「三國遺事」所收の「郷歌」)はわづか14首しか殘されてゐないのだから・・・
その事實について、本書では著者は觸れてゐないのだ。
都合の惡いことは伏せるのか、それとも、まさかご存じないのかな?
讀解方法について。
「古代韓國語」によつて讀み解くと云ひながら、時には現代韓國語を使ひ、さらには日本語の音まで使ふといふ、融通無礙な方法。
融通無礙と云へば聞えが良いが、節操がないとも云へる。
思はず、「何でもありですか?」とツッコミを入れたくなるほど。
日本も朝鮮半島も漢字文化圈にあるのだから、同じ漢字の讀みでも、それぞれの國の言葉で讀めるのは當然だ。
それを「古代朝鮮語」と稱する讀みで讀めば當然違ふ意味になる。
そこまでは理解できるが、漢字によつては「日本語の訓」で讀み、その音韻を韓國語(朝鮮語?)に當て嵌めるといふ手法は、あまりにご都合主義であらう。
これを恣意的と云はずして、何を恣意的と云はうか。
讀解結果について。
ここで觸れる氣にはなれない。
興味のあるかたは、本書を讀まれたい。
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<參考>
『本当は怖ろしい万葉集―歌が告発する血塗られた古代史』 小林惠子
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