仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

憂國忌 ~ あれから40年

2010-11-25 10:48:22 | 日々雜感
11月25日、憂國忌。
昭和45年(1970年)、三島は市ヶ谷の自衞隊東部方面總監部で自衞隊員たちに檄を飛ばしたのちに切腹して果てた。
けふは、その11月25日だ。
この日は三島の代表的な短篇『憂國』にちなんで「憂國忌」と云はれてゐる。

この年の6月、1960年に締結された日米安全保障條約が自動延長された。
これを阻止すべく、前年1969年には全國の大學で、いはゆる「70年安保阻止」のために學生運動が盛り上がつた。
1月15日、東京大學では安田講堂に學生たちが立てこもり、10月21日の國際反戰デーには86萬人がデモに加はり1500人が逮捕された。
世の中の論調は、專守防衞だらうが何だらうが、すべからく戰爭反對、自衞隊の存在そのものすら否定されるやうな状況であつた。

さうした中で、三島は自衞隊の國軍化を自衞隊員たちを前にして訴へたのであつた。
三島は數度に及ぶ自衞隊體驗を經て、自衞隊員に對して或る種の仲間意識を抱いてゐた節がある。
しかし、三島の檄を目の前で聞いた自衞隊員たちの反應は冷やかであつた。
當時の雜誌の附録のソノシートがあるが、それによると、「バカヤロー!」「こつちへ降りてこい」「何云つてるんだ!」などといふ罵聲が聞える。

三島とて、自分の檄に自衞隊員たちが歡喜して奮ひ立つなどと樂天的なことを考へてゐた筈もないだらう。
さはさりながら、このあまりに敵意まるだしの罵聲には、さぞや落膽したであらうことは想像に難くない。
この後、三島はバルコニーから姿を消し、總監室の中で切腹して果てたのであつた。

あれから40年。
幸ひなことに(?)、日米安保條約は存續してゐる。
かつて左翼學生たちは、この條約の破棄を求めてデモを起してゐた。
いまから思ふと不思議極はまりない。
自衞隊の存在意義を否定し、日本に防衞力を持たないことを目指し、それでゐて日米安保すら破棄するといふのだ。
それでは、誰がどのやうにして日本といふ國を守るといふのだらう。
當時の社會黨、共産黨は、「非武裝中立」といふ、現實を無視した夢物語をもとに自らの理論武裝をしてゐた。
國際法において「中立」とは自らの國を自ら守ることのできる體勢なくしては在り得ないことだといふのに。
永世中立國のスイスが國軍を保持してゐるのは、まさに國際法上の要請なのだ。

いまは、かつてのやうな夢物語を語る政黨はなくなつたかに見える。
しかし、かつての學生運動家の成れの果てたる與黨(!)政治家が、自衞隊を「暴力裝置」などと發言してゐるのをみると、いまだに夢物語は生きてゐるやうだ。
また、一國の首相が、「在日米軍の存在意義がやうやくわかつた」などと寢惚けたことを云つてゐた。
そんな程度の國防意識しかないのだから、いまの民主黨には多くは期待できない。

それでも希望はある。
40年前と較べてますます「平和ボケ」に拍車がかかりつつあるのは事實だが、若い人の中には眞劍に日本の國を守るには何が必要なのかを現實に立脚して考へる人が出て來てゐるやうにも見えるからだ。
いはゆる「ネット右翼」といふ存在がさうだとは云はないが、少なくとも、理想といふ美名のもとで思考停止に陷つてゐた40年前よりは、國防を論じることのタブーが取り拂はれた現在のはうが、まだ希望は持てるだらう。

三島死して早40年。
いまだに三島の主張は現實のものとはなつてゐない。
しかし、氣違ひ扱ひされた當時よりは、少しづつではあるが世の中の論調は三島の主張に近づきつつある。
かつては「中道」であつても「右翼」と云はれたものだが、いまは「中道」が「中道」と認識されつつあるやうに思ふ。
これを「右傾化」などといふなかれ。
大きく「左傾化」してゐた世の中が、この65年の間に少しづつ「中道化」してゐるのだ。
これで、あとは日教組をなんとかすれば、正常化への進行にさらに彈みがつくだらう。
そのためにも、日教組を支持基盤のひとつにしてゐる民主黨には早急に退陣していただきたいものだ。





<過去の關連記事>

2009年の記事「憂國忌」

2008年の記事「11/25_金閣寺 _ (IXY DIGITAL 800IS)」

2008年の記事「憂國忌」

2007年の記事「11月25日(日)」

2006年の記事「憂國忌と大腸内視鏡檢査」










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Japanese (noga)
2010-11-26 14:57:31
日本人に関する '有ること' と '無いこと'。

感性があって、理性がない。
感想を述べるが、理想を語らない。

現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
事実は受け入れるが、真理は受け入れない。

実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。

現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
模倣力はあるが、創造力がない。

「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
歌詠みは多いが、哲学者は少ない。

丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
学歴はあるが、教養はない。
序列判断はあるが、理性判断はできない。

学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。

民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。

理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。

恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。

「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。

この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
この国には、現実はあるが、非現実がない。
日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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