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仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

「炎立つ」(全5卷) 高橋克彦

2006-07-23 18:31:54 | 讀書録(一般)
「炎立つ」(全5卷) 高橋克彦

お薦め度:☆☆☆☆+α
2006年7月19日読了


何年前のことであつたか、この作品がNHK大河ドラマになつた。
その當時から讀んでみたいと思つてゐたのだが、何故か讀む機會がなくここに至つてしまつた。
おそらく、高橋克彦の歴史モノを讀んだことがなかつたため、私自身の持つてゐる高橋克彦のイメージを壞されたくないといふ思ひがあつたのかもしれない。

しかし、高橋克彦のその後の仕事を見るに、もはや彼の歴史モノを避けて通る譯にはいかないやうだ。
「火怨」「時宗」「天を衝く」など、いづれも讀んでみたい作品が私を待つてゐる。
さて、どれから手をつけやうかと考へると、ここはやはりドラマになつた「炎立つ」だらう。

で、讀んでみた。
全5卷とは、さすがに長い。

安倍頼良・貞任父子は蝦夷といはれる東北地方の豪族。
藤原經清はもともと貴族の藤原氏の出身ながら、父親が陸奧守を任じられ、そのまま東北で暮らしてゐる。
朝廷が任命する陸奧守は東北地方を治めるために赴任してくるのだが、實際には安倍氏が東北地方を治めてゐる。
このままであれば平和は保たれる筈だつたのだが、東北地方で産出する黄金が、陸奧守・藤原登任の私慾をそそつてしまふ。
そして、陸奧守の陰謀により追ひ詰められた安倍氏はつひに戰さを決意し、雪の栗駒山を越えて奇襲攻撃を仕掛けるのだつた。

陸奧守・藤原登任を追ひ返すことに成功した安倍氏であつたが、次の陸奧守は源氏の棟梁・源頼義だつた。
頼義とその息子・八幡太郎義家が安倍氏の相手となる。
そして、源氏と安倍氏との宿命の對決、「前九年の役」の幕が切つて落される。

安倍貞任・藤原經清が「前九年の役」で亡くなり、東北地方は敵方だつた清原氏の治めるところとなる。
藤原經清の妻・結有は敵の清原武貞の後妻となり、經清の息子・清丸は清原清衡として育つ。
しかし、清衡は藤原經清の息子としての自分を矜りに思つてゐる。
そこに、陸奧守として源義家が赴任してくる。
義家は、かつての敵とは云ひながら藤原經清を武士の鑑として尊敬してゐる。
この心の繋がりが、清衡と義家を結びつける。
そして「後三年の役」で清原氏は滅亡し、清衡は藤原に姓を改めて、東北地方を治めることとなる。

かくして、藤原清衡・基衡・秀衡の、いはゆる藤原三代の時代へと續いてゆく。
最終卷では、いよいよ義經を匿つた藤原氏と源氏との戰ひとなるわけだが、泰衡の描き方に意表をつかれた。
暗愚な息子・泰衡といふイメージを植付けられてゐた私であつたが、目からウロコ、かういふ見方も出來るのかと驚かされてしまつた。

大河の流れのやうな、この作品。
日本の歴史の中では大きくとり上げられることはあまりないと思ふ。
私自身、「前九年の役」・「後三年の役」といつても、名前だけしか知らなかつた。
血族入り交じつての戰ひで、なんだかよくわからぬ、といふ印象だつた。
しかし、この作品を讀んで、東北地方の蝦夷と云はれた土着の豪族たちにとつては、
朝廷の支配から脱して自分達の暮らしを守ることが最重要課題だつたのだらうと思つた。

最後になつてしまつたが、特筆すべきは、金賣り吉次の一族についての扱ひである。
作者は、彼らを物部一族と位置付けてゐる。
そして、朝廷に追はれた物部一族は東北地方で獨自の世界を築き上げてゐたとしてゐる。
もちろん、これは作者のフィクションである。
しかしながら、神武に追はれた長脛彦の傳説など、東北地方には古代史の闇がまだまだ隱されてゐるやうな氣がしてならない。


2006年7月19日讀了



炎立つ〈壱〉北の埋み火

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2006年7月5日讀了

炎立つ〈弐〉燃える北天

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2006年7月7日讀了

炎立つ〈参〉空への炎

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2006年7月12日讀了

炎立つ〈四〉冥き稲妻

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2006年7月15日讀了

炎立つ〈伍〉光彩楽土

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2006年7月19日讀了


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2 コメント

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ありがたうございます (仙丈)
2006-11-08 22:14:03
清原鎮守府将軍和博さん

>奈良時代まで「えみし」と言われていた言葉が、平安時代以降「えびす」という言い方に変わります。

それは知りませんでした。
「えみし」が4世紀末のいはゆる「倭の五王」讚の上表文に「毛人」といふ表記で現はれて、その後もずつと「えみし」なのだと思つてました。
當時の「えみし」の勢力圈はどうやらいまの靜岡あたりから東だつたやうで、大和朝廷の勢力擴大とともに東へ東へと追ひやられたやうですね。

ご教示、ありがたうございました。

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Unknown (清原鎮守府将軍和博)
2006-11-08 18:44:01
>東北地方の蝦夷と云はれた土着の豪族たちにとつては

 蝦夷という言葉が最初に使われたのは不破関以東の地域で、主に関東が中心でした。朝廷に異(夷)を称える辺境の国賊という意味です。奈良時代まで「えみし」と言われていた言葉が、平安時代以降「えびす」という言い方に変わります。侮蔑度が増した結果。ドラマでは東北に対してのみエミシという言葉を使っていますが、それは史実と違います。仮にエミシとエビスが違うのであれば、東北は田村麻呂の時代「エビス」だったので、エミシではなくなってしまいます。征伐された蝦夷は西国に移住させられていますが、その子孫の一人が安倍晋三総理であることは有名な話。なお、平安時代の話で「えみし」という死語が出てくるのは、高橋克彦が盛岡有数の落ちこぼれ学校・岩手高校を出たことに起因するかもしれません。どのような手段で早稲田に潜り込んだかは分かりませんが・・・。
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