仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

父の命日

2010-06-25 18:00:30 | 日々雜感
父が亡くなつたのは30年前のけふ。
おそらく午前3時前後だつたのではあるまいか。

私が京都の大學に入つた年で、私は學生アパートで一人暮しを始めてゐた。
ちやうど1ヵ月前に、好きだつた女性に振られて死を思ひ、睡眠藥を手に入れた。
私の樣子がをかしいことに氣づいたらしいアパートの先輩が、私に麻雀を教へたりキャッチボールに連れ出したりして、氣晴しをさせてくれた。
その甲斐あつて、私もやうやく失戀のショックから立直りかけてゐた頃に、父の死の報に接したのだつた。

父と私の關係は決して良いものではなかつた。
父の思ひ出と云へば、理不盡に撲られたり、時計を投げつけられたりなど、暴力をふるはれた記憶がまづ思ひ出される。
顏に青痣を作つて學校に行き、教師から心配されたことも多かつた。
擔任が變る度に、家庭事情を説明してゐたやうな氣がする。

父は船員だつたのだが、酒に醉つては上司と喧嘩をして船を降りた。
それが頻繁だつたので、私は父を「船乘りぢやなくて船降りだね」などと云ひ、また父の不興を買つたりした。
私が中學に上つた頃から、父が船に乘つたといふ記憶がない。
その頃はすでに海員組合からも見放され、もう船には乘れなかつたのかもしれない。
警備會社に勤めてゐたやうな氣もするが、それも短い期間だけで、あとは働いてゐなかつたやうに思ふ。

父は詩人で、小説家でもあつた。
と云つても、世間で認められ、それで飯を喰つていけるやうなレベルではなかつた。
「繋留索」といふ海員の同人誌に掲載された父の若い頃の詩を讀んだことがあるが、萩原朔太郎ばりの詩で、なかなかのものだつた。
しかし、小説のはうは、いただけなかつた。
高校に入つて文學に親しむやうになつた私に、父は自分の書き上げたばかりの作品を讀ませ、感想を求めた。
私は、何と云つたら父を傷つけず、それでゐて父に小説を諦めさせることが出來るか、惱んだ。

高校3年の頃。
通學のために驛に向かつて歩いてゐると、向うから醉つ拂ひがふらふらと歩いてくるのが見えた。
それは、紛ふかたなき父の姿であつた。
私は視線を逸らし、前を向いて、そのまま氣づかぬふりをして通り過ぎようと思つた。
すると、父もさう思つたらしく、視線を逸らしたまま近づいて來る。
私は、その父の自らを恥ぢる姿を見て、無視して通り過ぎることが出來なくなり、父に聲をかけた。
「大丈夫?家まで送らうか?」
すると父は、視線を合さず前を見たまま、
「お前はオレに關はるな。人が見てゐるからオレのことは放つておいて学校へ行け」
と云つた。
いまから思ふと、この時に初めて、父と私の關係が加害者と被害者の關係から一歩近づいて、私も父の立場で状況を見る目を持つたやうな氣がする。

私が高校を卒業したタイミングで父と母は離婚し、私は母と暮らし始めた。
時々父から電話がかかつて來た。
それはおそらく母あてにかけてきた電話だつたのだらう。
でも、私が出ると、私とひとことふたこと話すだけで電話をきることが多かつた。
あるとき、青い背廣を私にくれると云ひ出したことがあつた。
「青い背廣に心も輕く、つて歌があつたろ?」
いや、私はそんな歌は知らない。
「高い背廣だし、オレはもう要らないからお前にやる」
いや、僕はあんたの服なんて絶對に着たくない。

それから1年もたたない内に父は自殺した。
あの時、要らなくても貰つてやれば良かつたと、いまにして思ふ。



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