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仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

【昔の手帳から】 1月20日

2012-01-20 00:01:00 | 昔の手帳から
【1981年】(1囘生)

4コマ目、D11でメイケからコピー受取り。

火曜日。

D11といふのは教養部の教室の名前。
メイケはクラスメイト。
年に數囘しか會はないけど、ノートのコピーを貰つたらしい。
單位を取る爲にはなりふり構はぬと云つたところ。




【1982年】(2囘生)

社會學(講義)試驗

水曜日。

この時期は、すでに學部(3囘生以降)で社會學を專攻することに決つてゐたのではないかと思ふ。
「講義」といふのは2囘生から受講することが出來る講座で、學部で專攻するつもりの講座は2囘生から受講しておくのが暗默の了解だつた。




【1983年】(3囘生)

4 清野 社會(研究) 3演

木曜日。

社會學專攻であるにも關らず、國文に轉學科することを決めてゐた私は、ほとんど社會學の講座に出席してゐなかつた。
清野さんの顏すら覺えてゐない。
では國文の講座に出席してゐたのかと云へばさにあらず。
哲學の梅原猛さんだとか國史の上田正昭さんだとか、自分の興味のある講座しか出席してゐなかつたのであつた。
といふわけで、この試驗はパス。
たしか、出席をきつちりと取つてゐる講座だつたのだと思ふ。




【1984年】(4囘生)

DD發表させて貰へず。前期40/50。
發表は1囘5點、2囘してゐるので10點。
合計50點。50點あれば單位認定との由。
HよりTel。 ふつきれぬイヤな思ひ
HにTel。氣持ちの行き違ひ、如何ともせんかたなし。

金曜日。

DDといふのはドイツ語初級講座の意。
この大學は、1人の天才を輩出するために1萬人の凡人を排出すると云はれてゐた。
もちろん私は排出されるはうである。
4囘生になつてもまだDDを受講してゐる人間は、この大學でもレアな存在だ。
ただし、私の周圍には不思議なことにたくさん存在してゐたが。
この講座は下村さんの講座で、基本的に1囘生のための講座。
私が1囘生の時には擔任の西本さんがドイツ語の教授で、自分達のクラスの授業なのに教室の後ろのはうに怪しげなオッサンが數名ひつそりと座つてゐるのが不思議であつた。
しかし、いまやその怪しげなオッサンが私。
1囘生諸君の目には、ああはなりたくないものだといふ絶好のモデルとして映つてゐたに違ひない。
この日、手を擧げても發表させて貰へなかつたらしい。
おそらく1囘生を優先させたのだらう。
單位認定基準について細かく記してゐるところを見ると、下村さんに喰ひ下つたのだらう。
私は前期のうちに40ポイント稼いでゐて、後期にもすでに10ポイント稼いでゐるため、合計で50ポイント。
もう發表しないでも單位はあげるから・・・なんてことを云はれたのかもしれない。

Hから電話があつた。
Hと電話で話すのは15日に私が電話して以來。
じつは、翌日の21日にリヒテルの大阪公演があつたのだが、リヒテルの都合で3月7日に延期になつた。
2月12日の公演のはうは豫定通りだつた。
私はすでにHと聽きに行くつもりで、それぞれの公演のチケットを2枚づつ入手してゐた。
しかし、Hは2月12日の公演にはいかないといふ。
いつたい、どうして?
なんてところで、電話が切れた。
アパートの電話は今はなきピンク電話で、アパートの住人が10圓玉を入れてかけるのであるが、10圓玉が溜まつてしまふと勝手に切れてしまふのだ。
なので、こちらからかける時には電話そのものを持ちあげてヨイショヨイショと搖すると何とかなるのだが、かかつてきた電話の場合はそんなことはできない。
仕方ないので、電話を搖すつて私からかけ直した。
しかし、結局、彼女はその理由を云はないままだつた。
この時まだ私はなにもわかつてゐなかつた。
もうすでにHは私と別れるつもりだつたといふことを。






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