武雄市若木町にある若木公民館の隣に建つ松尾静磨のブロンズ製胸像。
放置されている「若木村道路元標」はこの像のちょうど裏側になる。
松尾静磨は日本航空の元社長で、戦後日本のエアラインを復興させたひとりである。
胸像が載った台座には「松尾静磨先生像」と書かれた金属プレートがはめ込まれ、その脇に建っている碑文には以下のように書かれている。
松尾静磨先生像之記
第二次世界大戦後日本ハ . . . 本文を読む
唐津市内、唐津城の近く、二ノ門交差点の緑地帯に立っている。
奥邨(=奥村)五百子(いおこ)(1845~1907)の銅像。
佐賀生まれ。社会運動家。生家は真宗の寺院。幼時から父兄の影響を受け、尊王攘夷運動に加わる。初婚の夫とは死別、水戸藩浪士と再婚したが、のち離婚した。その後朝鮮に渡り、光州に実業学校を設立。明治33年(1900)北清事変がおこると皇軍慰問使に加わり、北京、天津を歴訪。34年 . . . 本文を読む
隆信公胞衣塚の隣に立つ巨大な石碑。
傍らには、佐賀市教育委員会が立てた案内板が設置されている。
佐賀市史跡
龍造寺隆信誕生地
昭和43年二月11日指定
構造及び形状並びに高さ
袍衣塚1.90メートル四角 高さ1.10メートル
足利時代末期からの戦国時代に肥前、肥後、筑前、筑
後、豊前並びに壱岐、対馬を手中におさめ、その勢威は、
九州の豪族、島津、大友氏とならび五国二島の大守と仰
が . . . 本文を読む
佐賀城の南、赤松小学校の東側に、龍造寺隆信の胞衣塚がある。
龍造寺隆信は戦国時代、肥前を中心に九州の五国二島を支配した豪族であったが、死後、鍋島家に其の地位を奪われた。
胞衣塚(えなつか)とは、出産の時の胎盤などを甕に入れ塚にして祭ったもの。
塚には、碑文を彫った銅版がはめ込まれ以下のように記されている。
隆信公胞衣塚之銘
龍造寺隆信公ハ享禄二年二月十五
日此天神屋敷ニテ誕生父 . . . 本文を読む
佐賀市呉服元町の願正寺参道に建つ、離蓋の顕彰碑。
副島種臣の撰 中林梧竹の書となかなかの大物揃い。
梧竹の書いた碑文はどこも読み取りづらい独特の文字。
幸いなことに裏面に和文に訳したプレートがはめ込まれている。
護国扶宗
僧離蓋の墓表
僧離蓋は、佐賀藩士室節勘兵衛の第二子也。母は高島氏。寛政十年
六月朔日を以って生る。明治十九年十月四日寂す。享年八十九。
願正寺に葬る。離蓋は天資 . . . 本文を読む
佐賀市呉服元町の願正寺参道にある、大石良英の顕彰碑。
正面の上半分には、鍋島直大(11代藩主)が幼少の頃に種痘を接種されている絵を、ブロンズのレリーフにしたもの。
その下には「種痘の先駆者 大石良英墓所」と彫られている。
裏面には、ステンレス板に書かれた碑文がある。
種痘の先駆者 大石良英医師
佐賀藩は第十代藩主鍋島直正公を中心に西洋医学を積極的
に取り入れました。当時もっとも . . . 本文を読む
唐津市相知町の旧相知町役場(現唐津市役所相知支所)の片隅にある、福沢諭吉の銅像。
諭吉は、大分中津藩の出身なので、佐賀県にはゆかりがあるとは考えにくいが、経緯などはどこにも書かれていない。
台座の正面には「福澤諭吉先生之像」と彫られたプレート。
そして、その下には以下のように彫られたプレートがはめ込まれている。
先生生涯の主張
一、天は人の上に人を造らず
人の下に人を造らず
ニ . . . 本文を読む
佐賀城内への西からの出入り口である、西の御門あたりに真新しい石造物を発見。
近寄ると、北向きの矢印の下に「楠の木おばさん顕彰碑」の文字。
矢印が指す方向は、西堀に沿って続く細長い佐賀城公園。
公園の細い道を200m程進むと、ポツリと建っていた。
正面には碑文が彫られている。
楠の木おばさん
佐賀一帯には昔から楠があちこちに栄えて
いて「佐嘉」という地名は「楠が栄えている」所
. . . 本文を読む
鹿島市の旧七浦村村役場跡に建つ。
碑の正面には、
中村寛治翁頌徳碑
子爵 鍋島直紹書
の文字が彫られている。
台座の正面には以下の説明文が。
中村寛治君資性剛直行謹○○○
ヲ重ンシ名利ヲ追ハス容姿端正
君子ノ風アリ明治三十九年令三
十六推サレテ村長トナルヤ農業
組織ノ改善ヲ行ヒ以テ農業ヲ振
興シ農村教育ノ施設ヲ完備シテ
村民氣風ノ刷新ヲ啚り産業組合
ヲ起シテ経済ノ利便ヲ興フル等
. . . 本文を読む
佐賀大学の正門から北へ伸びる細い道路を進むと、水月寺というお寺がある。
その水月寺の本堂横に石田一鼎(イシダ イッテイ:1629-1693)の墓がある。
傍らの案内板には、以下の記述がある。
石田一鼎の墓
寛永六年(一六二九)佐賀藩士石田平左
衛門実之の嫡男として生まれた。幼名平三郎
といい幼少の頃から学問に親しみ十五・六歳の
頃には、儒学・仏教に関する書物を
あらかた読み通していた . . . 本文を読む
市村清 いちむら-きよし
1900‐1968
昭和時代の実業家。
明治33年4月4日生まれ。
昭和4年福岡で理研の感光紙販売のための代理店をつくり,大河内正敏にみとめられる。
11年理研感光紙(現リコー)を設立した。
戦後,三愛商事,明治記念館,三愛石油,日本リースなどを創立,リコー・三愛グループとして統括した。
昭和43年12月16日死去。
68歳。
佐賀県出身。
中央大中退。
「講談社 日 . . . 本文を読む
佐賀の役は、1874年(M7)に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。
最近では、大久保利通が最初に仕掛けたという説も登場している。
教科書などには「佐賀の乱」として表記されているが、佐賀では「佐賀の役」または「佐賀戦争」等と言われること多い。
この「佐賀の役殉国十三烈士の碑」は、佐賀市の県立博物館東側に建つ。
江藤新平らが処刑された場所だ。
. . . 本文を読む
前田徳治(大正5年~?)南波多農業協同組合組合長
南波多村道路元標が建つ、JA伊万里南波多支所の前に建っている。
南波多地域の農業振興に寄与した人物。
台座には碑文か彫られている。
前田徳治氏は 大正五年大川原三六四一番地に生まれ 昭和六年十四歳で
当時の南波多村産業組合に奉職以来 平成三年五月南波多農業協同組合長と
して退任されるまで実に六十年の長きに亘り 南波多地域の農業 . . . 本文を読む
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は日本の武士(佐賀藩士)、政治家である。
幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら・の・たねお)
(Wikipediaより)
佐賀市内にある神野公園内に建っている。
明治維新では、司法・文教の基礎を築いた。
佐賀の乱(役)の首謀者とさ . . . 本文を読む
大宝聖林碑と同じ西渓公園内にある高取伊好の胸像。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年-1927年)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者。法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。歌手の高取ヒデアキは曾孫。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。
1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。
また . . . 本文を読む