神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.163 3人の恩人 1

2024-05-07 21:02:24 | 追憶
    

 顧みて、多くの人にお世話になったことに驚いてますが、「初期の3人」の方について書いておくことにします。

   
    サツキ

(1)1970年4月、法政大学経済学部Ⅱ部に入学しました。前にも書いたことですが、大学紛争のために、1969年・70年とも、唯一の志望先であった当時の東京教育大学露文科を受験できなかったためです。
 教育大の露文にこだわった理由は、いまは「若かったから」ということにしておきましょう。それから、露文なら、国立では、当時のⅡ期校の東京外語大がありましたが、ここも荒れていて試験がなく、私立では、早稲田大や上智大にもありましたが、家庭の事情から高額で無理ということで、選択の余地は全くありませんでした。もう道はありませんでした。
 さらに、学費のことを考えて、千葉大(教育)・埼玉大(教育)・横浜国大(経済)などを受験しましたが、目的不明な受験なため気乗りせず、おまけに、どういうわけかそれまでに経験したことがないような体調不良を引き起こし、結局、何をどうしたのかも記憶がないほどの惨敗に終わりました。

(2)法政大経済学部Ⅱ部を選んだ理由は、もちろん学費が安かったからですが、いちばんは「第Ⅱ外国語」にロシア語があったからです。いろいろな大学を調べたはずですが、ほかの大学では見た「記憶」がありません。
 「第Ⅱ外国語」というのは、経済学部の専門科目を始める前に、一般教養として専門外のことを勉強しますが、その一つというものでした。ですから、卒業後にロシア語やロシアに関する知識を生かして仕事をする人を養成するという目的はまったくなく、いわば付け足しで、NHKの語学講座でいくらか勉強していた自分には全く役に立たないものでした。 

   
    セミ:歩いてます

(3)知らないというのは悲しいことですが、「第Ⅱ外国語」の意味を知らず、考えることもなく、とにかく先へ行けると信じて選んだわけです。
 ところが、入学後すぐにこれではだめなことに気づきました。そして、法政大をやめてやり直すべではないかと考え始めます。それが、ちょうど5月の連休の今の時期でした。しかし、それができませんでした。

(4)上京した日の出来事は前に〔No.132で〕書きましたが、めげずに動き出し、まず、駅の売店で売られていた『アルバイト・ニュース』で野村證券の「相場書き」の仕事を見つけて収入確保のめどをつけ、そして、授業が始まってクラス委員を引き受けると、自治会の役員にも推薦され、これもやることにしました。
 これだけでも、意欲的にスタートしたことがわかるかと思いますが、実はこれが簡単には大学中退に踏み切れなかった理由となりました。つまり、仕事は始めたばかりだからすぐには辞められない、役員交代は手続きがメンドウ、などなどです。
 それで、5月連休の今ごろから夏ごろまで、ずっと進退を考えていましたが、その時、「先へ進むように」と助言してくれた人が二人いました。
 
 ずいぶん端折っているのに長くなりました。きりがよいので、つづきは明日にしましょう。

   
    ふたりしずか?


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