神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.200  

2024-06-13 23:38:28 | 追憶
(1)きょうの西の空です。
 1.4時頃:


 2.6時頃:


 きょう、この辺はおおむね曇りで、さほど暑いということはありませんでしたが、夕方から雲が動きました。

(2)昔、国広正雄さん担当のNHKテレビ英語講座の中のあるスキットで、
  ”Routine is the same.”〔日常の仕事は同じ/毎日やることは変わらない〕
 と聞こえたセリフがあって、よく思い出します。
 いま、私の日常はまさにこれです。

(3)中学生の何年の時だったか、担任の先生が通知表に「評価は、まわりの人との相対評価で決まるから・・・」というようなことを書いてくれたことがあります。
 自分なりには一所懸命やっているつもりが、淡々とやっているように見えたのでしょう。
 しかし、私は、試験は、満点を目指すというよりも、80点より下でなければいいと思ってました。悪くても、75点以上なら「仕方ない」と思うくらいで、気にすることはなかったと思います。
 これは、80点でもまだ残りの20点分は勉強する余地があるわけですが、だれでもやりたいことはありますし、あれもこれも満点みたいなのは、かえって使えないものです。実際、そういう「秀才」が多いでしょう?

(4)これは、父親の影響があるかもしれません。
 というのは、父と話しているとき、父が、「満点取らなくてもいい」、「どんな簡単な試験でも間違いをすることはあるから、80点より上ならいい」、といっていたのをよく覚えているからです。
 実際、それで、父に「それじゃあ、80点以上取ったら、その点数分だけお金くれる?」と訊いたら、OKとなり、小テストも含めてなんでも、81点なら1円、90点なら10円、100点なら20円という計算で加算して小遣いをもらいました。

   

(5)脱線しますが、父から聴いたことで、今でも新しいノートを作う時に思い出すことがあります。
 父が、ノートを使い終わったから新しいのを買うお金をくれるように言うと、祖父はノートを見せろといい、白いところがあると、すぐにはお金をくれなかったそうです。
 そういう不都合な思い出があるためか、父は「ノートはぜいたくに使え」と言いました。
 時代のせいもあるでしょうけど、父は、自分が嫌だと思ったことを、私にはさせまいとしていました。自由にさせてくれました。しかし、その父が私に真っ向から怒ったことが2度あります。

(6)一度は、小学校5年頃のことです。
 私が、少し彫刻に興味を持って、お面を作りました。
 板を削っただけという程度の単純なものでしたが、それに絵の具で色を付けて、さらにニスを縫ると光沢が出て、サイケデリックな感じのものでした。自分なりに納得したので、みんなに見せて、帰りにそれを被って家に入ると、その日に限って父が早く帰ってきていました。
 それを見るや否や、カンカンに怒ってその場で、鉈で粉々に割ってしまいました。

(7)もう一回は、中学2年の時のことです。
 中間試験が終わって、のんびりとテレビを見ているところへ父が帰ってきました。
 早く帰ってきたのは、パチンコで負けたからに違いありませんが、入ってくるなり
 「なにしてるんだ」
 と不機嫌そうに聴きました。それで、
 「試験が終わったから休んでいるんだ」
 と答えると、
 「試験が終わった時こそ、やる所がよくわかるはずだだから、それをやれ」
 と殴り掛かってきました。
 私はとっさにそれを避けて逃れ出て、その日は、人目がつかないようにあちこちと移動して夜明かしをしました。

(8)あれまあ、何を話してましたか?
 そうです。 ”Routine is the same.”でした。

 私の毎日はいまこれです。
 でもね、これって大事なんですよ。
 たとえば、一滴一滴でもやがて穴をあけるでしょ?
 つまり、質的変化が伴って新しい事態が生まれるのです。

(9)捨てるほどの身はありませんが、やらなければならないことをいくつも抱えています。
 このブログ、出来はともかく、きょうはまだ「No.200」です。
 行雲流水、〽・・・のみもとに近寄らん

   
    ごはんですよ~:秋川べり
 
 この先もこの調子。では・・・


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