神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.230 民族 

2024-07-14 00:37:45 | 文書・文献
【コレクション 20】
(1)毎日、「必ず10冊は廃棄する本を見つける」と思いつつ棚を見ます。そうすると、確かにそのくらいは見つかります。特に新書類はけっこう出てきます。有名な専門家が書いたものでも、一過性のものとか、御用学者みたいなのはたいがいその類です。
 では、断捨離がうまくいってどんどん棚が片付いていっているかというと、なかなかそうはなりません。理由は、リタイヤ―したのに、いざというときはまだモノを言うつもりでいますから、その時の材料として残しておかなければと思うからです。困ったことです。

(2)私は、週刊誌は新聞で広告を見てお仕舞いです。まず買いません。「今までに10冊も買ったかな」と思うほどです。
 すこし話題になってきて、それではと本屋へ行ったころには売り切れていたり、次の号になっていたりで、たいがい買いそびれます。
 まあ、いそいで手に入れて読んでも、間もたせばかりだったり、ケムに巻いたような内容だったりで、カネを払ってつまらない映画を見た時のような思いをするのが嫌だからです。

(3)つまらない映画といえば、若いころ雷雨に遭い、危ないので雨宿りを兼ねて3本100円だか200円だかの映画館に飛び込んだことがあります。アルバイトの時給が250円の時代ですから、今だといくらでしょうか。
 一本目。裏町のビルの階段を、太った怪しげな男があたりを警戒しながら上がって行ってドアをノックすると、中から娼婦のような怪しげな女が現われて招き入れました。これはてっきりエロ映画だと「期待」していると、何のことはない、実はその女の誕生日で、驚かせるためにそっとやってきて入って行ったという筋でした。あとはドンチャン騒ぎ。もっとも外国映画でしたから、それなりのおもしろさはありました。
 それが終って、2本目も洋画でした。しかし、筋はもう覚えていません。ともかく見ましたから、やはりそれなりに思わせぶりな映画だったのでしょう。
 そして、「もう雨は止んだろうな、出ようかな」と思っていると、3本目が始まりました。すると、前の方の席の人が「あ~あ!」と大きな溜め息を発しました。おそらく、ほかの入場者も同感だったのでしょう、あちこちから笑うのが聞こえてきました。私も笑い、外に出ました。
 私にとって週刊誌はこれに類する印象です。もちろん、敬意を払っているものもありますけど、おしなべて、ということです。

(4)さて、きょうは『民族』です。
    

 このパンフレットは、A5判よりタテがちょっと小さい感じがする大きさです。全体は表紙とも12ページです。
 タイトルの下に「内容目録」とあるように、これだけでも持っている価値があるものです。
 全体の構成は次のようになっています。
  1ページ 上掲表紙
  2~3ページ 上3分の2に、次の2氏の推薦文(一部引用) 
       千葉徳爾 日本民族学会代表幹事 先学たちの業績を盛る 
       山口昌男 日本民族学会会長 分野を越えた学問的協同  
       下3分の1に、『民族』の主な寄稿者〔下に掲載〕・主な収録論文
  4~10ページ 『民族』<全21巻>主要目次
  11ページ 組見本
  12ぺーじ 「本書の特色」
        刊行予定:A5判 上製 全7冊21巻 総4364ページ 
             1985年5月15日 定価52000円
        出版社:岩崎美術社

(5)推薦文の一部を紹介します。
  千葉徳爾:
 「・・・本書は、「郷土研究」によって国内資料の一応の展望を了えた日本の民属学が、自民族の認識のために海外・国内の他民族の文化と対比しつつ、より高次の学たらんことを期して調査・研究を進めようとした成果が含まれている。・・・」
  山口昌男:
 「・・・ここに展開された分野を超えた学問的協同作業の広がりは、今日の水準からみても驚嘆すべきものである。民俗学・歴史学・考古学・社会学といった今日独り歩きを始めて、交流が難しくなっている分野の研究者が火花を散らして出遭い、今日の視点を先取りした画期的論文・・・。」

(6)『民族』の主な寄稿者は、次の人々が挙げられています。
    

(7「本書の特色」には次のようにうたっています。
 「大正11年から昭和4年4月まで隔月に刊行された「民族』全21巻(総4364頁)には、200名に及ぶ当代の一流研究者が寄稿した。本誌が一般に民俗学的関心を呼びおこすとともに、各分野に刺激と展望をもたらし、急速に消滅しつつあった民俗資料を記録にとどめるなど、その功績は高く評価されている。」    

(8)私は『神足勝記日記』を読みながら、神足が巡回の途次、距離や地理のほかに土地のようすを記すのを見て、かつての日本のようすを見直したいと何度も思いました。
 これは、現在の日本とかつての日本との分水嶺が、私の代の辺りにあると思うからです。つまり、生活習慣や農業風景などのかつてのようすがわかる(実体験した)最後の代ではないかと思うからです。きょうもまたそのことを強く思いました。
 では。

       
    昭島市郷土資料館

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする