(1)きょうは、「スタンドパイプ消火訓練」に参加しました。
どういう訓練かというと、正月の石川・能登地震などのように、災害に伴って火災が発生した場合に、倒壊した家屋などが障害となってり消防車がすぐ駆けつけることができないことを想定して、その地域住民が自力で消火活動をおこなう訓練です。
具体的には、マンホールを開けて消化栓にスタンドパイプという取水口をつけ、ホースとつないで放水活動に入るというものです。
写真を撮れませんでしたから、代わりに「実施要領」の写真を利用させていただきます。私も、ヘルメットを着用して、概ねこのような訓練をしました。
昭島市の南側の多摩川べりは、水害の危険性がないとは言い切れませんが、私の住む地域や主な市街地は高台にあるので、心配は水害よりも家屋倒壊と火災です。とくに、高齢化が進んでいることもあり、火災が最も心配されています。
きょうの訓練は有意義でした。とりあえずは合格と思います。しかし、気合を入れてやったせいか、午後からぐったり、なにもできず・・・。
(2)ということで、棚の本を見て過ごしました。すると、その中に1冊、
『懐古録』(地質調査所80周年記念出版物編集委員会編、昭和37年、非売品)
というのが出てきました。
地質調査所が設立されたのは明治15(1882)年ですから、それから80年後の昭和37年、1962年に非売品として発行されたとあります。
この時点で「懐古」といえば、半世紀(50年)前からとして、明治末期以降となります。したがって、私の関心のある神足勝記が在職していた創設期や、宮内省に入省した明治24(1891)年ころの同時代人のことなどはもう出てこないようですが、末尾につけられた「名簿」には神足の名前も記されていますし、なによりも、次の写真があります。
写真のおもな人について紹介します。
前列左端が神足勝記。4人目が山上万太郎。6人目が鈴木敏。7人目が遠藤隆吉。
中列7人のうち、左から3人目が高山甚太郎。5人目が和田維四郎。
後列左から1人目が中島謙造。3人目が太田健吉郎。5人目が鈴木民作。6人目が恒藤規隆。8人目が巨智部忠承〔こちべただつぐ〕。9人目がマックス・フェスカ。
なお、この写真は『地質調査所百年史』(昭和57(1982)年)27ページ下段にも出てきますが、これによると、後列右から2人目が三浦宗次郎です。
(3)私がこの写真で注目するのは、やはり、まず神足ですが、次は鈴木民作です。
鈴木民作については、『孤高の道しるべ』(銀河書房、昭和58年)で上條武氏が詳しく紹介していますが、『御料局測量課長 神足勝記日記』昭和6年7月11日の項に、雑誌『御料林』から引用した「我国山林測量法の先覚者神足勝記君」と、昭和11年1月11日の項に同じく『御料林』から引用した窪田唖雷「親分乾分の涙」をぜひ読んでほしいと思います。
詳しいことはまた別の機会にしますが、ここにいる神足と鈴木の二人は、このあと終生親しく行き来します。『神足勝記日記』にそれがあちこちに出てきてうらやましいほどです。この写真は、その最初の頃を知る唯一のものなのです。
ほかの人についてはまたいずれ。では。
きのこ???
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