神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.243 学問ということ 

2024-07-27 00:45:00 | 先生
(1)きのうは、終日、宇佐美誠次郎先生のものを読み、楽しく過ごしました。その中で、寡黙な先生がめずらしく強調されているところがあるのに気が付きましたから、きょうはそれ最初に書いておくことにします。少々長いですが、読んでみてください。場所は『学問の人 宇佐美誠次郎』(青木書店、2000年)81㌻です。

「終わりに、私のほうで補足的にいっておきたいことがあります。私の国家独占資本主義論について学生にいつも聞かれることがありまして、なぜ『危機における日本資本主義の構造』は半封建性をあれほど強調するのか。戦後についても強調しているのはなぜか、先生のいまの考えはどうなんだということを聞かれるのです。あれは戦争直後の話だということがあるのですが、もう一つぜひ言っておきたいのは、あれを書いていたのは農地改革の真っ最中なわけですね。第一次農地改革が終わって、ちょうど農地改革をめぐって論争がたたかわされてたときなんです。ソ連の案が出たり、日本の革新正統の案が出たりして、政府の農地改革はあそこでおさえようとするわけです。それに対する意見を当時書いたのですけれども、真っ最中に書くときに、それはもう近代化されてるということは到底書けないわけで、半封建性をもっと脱却するような方向にもっていくためには政府の出している案は封建的な性格が強いのだということを強調するのが当然なわけで、あとから見て少し強調しすぎているといわれても、私は批判されるつもりはないと学生にはいっているわけです。学問というのはそういうものじゃないかというふうに学生にはいっているものですから、そのことをちょっと付け加えておきたいと思うのです。」

(2)学問とはなにか、ということがしばしばいわれますが、宇佐美先生の場合、「政治性を脱却した中立な学問」というのは学問の名に値しません。学問も、それを生み出す社会の中のある立場をかならず反映(代表)しています。自然科学でもそうですが、とくに社会科学の場合はそれがはっきりとしています。
 上の例では、「当時の農地改革」を、この辺で終わらせたいとする立場なのか、もっと徹底させる必要があるとする立場なのかということになります。

(3)社会科学者の中には、「政治性を脱却した学問」とか、「純粋な学問」とかいう人がいます。しかし、それはその人がそう思っているだけで、現実社会を問題にするかぎり、そこから完全に政治性を脱却させることは不可能です。かりに、できるといったとしても、それは程度の問題で、しばしばその人がそう思っているというだけで、あるいは、それがじつは政治性を見失わせるという意味で、政治的であったりします。実際には不可能です。

(4)「純粋な学問」というのは、これは、たとえていえば、地球上にいて引力とは関係ない生活を考えるようなものです。物体が落下するのも、水中で浮くのも・沈むのも、引力を無視しては考えることはおよそ不可能です。
 「自分は引力など考えたくない」というのは「勝手」ですが、それで「自由」とはいえません。そんな「現実離れした話し(学問)」はもう何百年も前から、否定されています。
 
(5)もうひこと。
 とくに、社会科学の場合は、それが取り扱う「現実社会そのものが利害のかたまり」ですから、したがって、おしゃれとか、モードとか、フィーリングでやってならないということも大事なことです。  

【コレクション 30】
 きょうは、『江戸商売図絵』のパンフレットです。
 これは、A5判大、4㌻です。これを広げるとA4判で、裏表2まいですから、これをマルマル掲載することができますから、きょうは余計な説明なしで済ませます。次のものです。
目いっぱい大きくしておきましたが、小さい方は、天眼鏡でもないと無理でしょうか。

 1㌻目                  4㌻目


  3㌻目                  2㌻目

【コレクション 31】
 もう一つ、行きましょう。『太政官沿革志』です。
 これも、上と同様の大きさです。A5判大で4㌻、広げるとA4判で裏表2まいです。これもマルマル掲載できますから、やはり説明なしです。次のものです。
 1㌻目                  4㌻目

 3㌻目                  2㌻目    

ひとことだけ。
1.【コレクション】と名付けて載せていますが、これは私がなにか意図して集めたとかいうものではありません。これはおもしろいとか、気に入ったとかいうことでもらってきたというだけのものです。しかし、タダだからなんでももらってくるというものでもありません。

2.たとえば、きょうの2点は、上は江戸期の商品経済のようすがわかります。
 商品があることが資本主義経済・社会が登場する前提です。そして、商品の売買の広がりや深まりは、社会がこれによって連鎖・つながりをどう形成しているかを特徴づけ、規程しています。
 実際、今日の社会では、売る方も買う方も、自立しているように見えながら、見えない糸で縛り付けられています。このうちの何かが欠ければ、依存関係の連鎖を崩し、社会の破綻が波及していきます。ですから、一つ一つの職業の実態を知ることは大事なことです。

3.さらに、この社会は、相互に依存していながら、実際にはバラバラの個人から成り立っています。たとえば、樽のようにです。
 樽を構成する一つ一つは、木を削ると、水を漏らさない入れ物(樽)となることを見越して作られました。人間は、木ではありませんから、樽とは違いますが、その生活と生産の過程で一つのまとまりを造って依存・協力しあって生活できるように発達してきました。
 つまり、ここで共通して大事なのは、樽も人間も、一つのまとまりをもって成り立っているということです。そのまとまりを造るものが、樽の場合には「タガ」、人間の場合は、現在までのところ「国家」=政治機構です。
 そして、政治機構はこの社会の経済的・政治的に有力な人たちの意見が通るように得てしてつくられるということがあります。たとえば、最低賃金が50円あがったという一方、役員報酬が1億年に及ぶ人が1100人以上いるというようなことがなぜ是正されないか、というのを見ればよくわかります。
 要するに、上の2つのコレクションはつながっているというのがオチです。
 ではここで。
    




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