[注釈]
* Cela ne doit pas nous empe^cher.… : cela は前文の内容を指しています。
* celui de se voir fac e a` face... : celui = un autre tourment
* Siloe' : 1941年に発表された一種のサナトリウム小説
* Il rapportera avec lui le de'sir... : 文脈からすると Il = un nouveau monde
* un maxium de signification et comme une e'ternelle frai^cheur... いずれもcette lumiere が人間の行為に与えるものの説明です。
[試訳]
ポール・ガデンヌ「小説について」
不安は、人間であることの条件と切り離せないもののように私には思わる。それでも私たちは、探求の果てにあらたな不安を、ああ、求めるとは言わなくとも、発見せずにはいられない。たとえ非常に差し迫った経済的・社会的な問題が解決されたとしても、人間のあらゆる宿命がぶつかる困難の性質をただ変えただけではないのか、と私は思う。平安が同じようにもどって来ても、あらたな満足とともに、新しい嫌悪がどうしようもなく生まれ、今度は同じように新たな不安が首をもたげる。物質的な苦しみから解放された者がたちまち別個の、今まで知らなかった苦しみ、自らと向かい合う…といった苦しみを発見するだ。もっともそれはずっと意味のある、ずっと深い、したがってもっと望ましい苦しみだと言えるのだが…。
形而上学的な、始源からある、人間に根ざした欲求は、根絶やしにすることができないであろう…。私が同胞たちの幸福を、ときには自分の幸福をさえ、いかに熱心に望んだとしても、私は自分の視界を人間的な地平にだけ限ることがどうしてもできないこと、そのことに嫌悪すら感じる。自分ではどうすることもできない。ただそんなふうに自分が出来上がっているとしか言えない。私が呼吸をするためには、今ここで私たちが取り込んでいる空気とは別の何かが必要なのだ。その空気はいつもやはり少し汚れている。『シロエ』はおおかたこうした気質から生まれた作品である。病は、人をその環境から、その根っこから引き離すことによって、すばらしい更新の機会となる。人に襲いかかる身体のこの不幸は、一種実験室ともなり、そこでは未知の室温、経験したことのない気圧のもと、新しい人間がやがて成長する。私の小説の登場人物はこうして少しずつ新たな世界を発見してゆく。そこでシロエは自らの行いの一つひとつによって、もっと高くにある、もっと広大な何かにかかわってゆく…。最高の意義と、淀むことのない清新な風のようなものを人間の行為に与える、あの光への希求、ノスタルジーを、その世界はやがてシロエにもたらすこととなるであろう。
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ブログの更新、大変遅くなってしまいました。結局1週間遅れとなりました。ご迷惑をおかけしました。今日ようやく、一週間振りに寒風の中ペダルをこいで近所のスーパに買い物に出られました。そろそろ忙しくなる学年末に四日ほど臥せっていたわけで、しばらくはあたふたする日々が続きそうです。
次回は、p.15 cela fait un livre. までの試訳を2月5日(水)にお目にかけます。
Bonne continuation !
書くということは何なのだろう。なぜ人は書くのだろう。超然とした態度を取った方が良いと思う人もいるし、そんなのはお遊びだという人もいる。ただすこしばかりおもしろい他と同じような活動であり、注目を引いたり、自分を語るのに効果的で独特な方法だというのだ。しかし私はそのような上品さは持ち合わせていない。私たちに書くように仕向ける力が存在する。その力とは人生を表現する欲求だ。表現すること、その本来の意味は、ある状態を他のものに変化させることだ。だから人生を表現することは、人生の本性を変えて自分のものにしようと試みることである。自分を実体に適応させながら、人生を支配しようと試みることだ。書くことはひとつの方法であり、確かにひとつだけというわけではないが、私たちが気づいたことで、ものごとの手がかりを私たちに確信させる方法であり、人がその生涯を満たすための方法だ。
それ以前に人はまず自分のために書くのだと付け加える必要があるだろうか。作家は白いページを前にして、自分に直面するしかない。その後で読者が見つかれば、それは幸運だ。
私はいつも新聞を読んでいて、だれかが小説のテーマを見つけたというと、かなりの驚きを感じる。テーマを見つける。あたかもテーマは私たちの外のどこかに存在したかのようだ。あたかも市場の商品のようにそれを手に入れるだけで良いかのようだ。あたかもそれは、私たちに見出されたテーマではないかのようだ。そう私に押し寄せてくるある種の影響力のようだ。もしそれがこの影響力から私たちを解放するものでないなら、書くと言うことは何なのだろう。ひとつの考えが、ある日私たちのうちに沈殿し、それはあたかもふさわしい土に落ちた種のように、私たちを受胎させ、そしてそれが一冊の本を作り出す。
何年か前に生まれてインフルエンザにかかり、相当辛かった記憶があります。その時のことがあったので、かなりひどい容体の中で試訳が遅れている理由を私たちに知らせてくださったのだと思うと心が痛む思いでした。
単語の訳し方、構文としてわからない部分があったりで、ちゃんとした訳文になりませんでした。
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書くとはどういうことか?何故書くのか?物事にこだわらない姿勢を良しと思う人もいるし、一つの遊びであり、単に普通よりも楽しいだけの営みで、人の注目を得るための結構効果的な方法として良いと思っている人もおり、人の噂になることがいいと思う人もいるのだ。私にはそんな器用さは持ち合わせていないだろう。私たちに書こうと仕向ける力があるのだ。この力とは、人生を表現したいという欲求である。表現とは、文字通り、或る状態を別の状態にすることだ。それゆえ、人生を表現するとは、その本質を我がものにするということである。実体を我々に適合させて凌駕しようとすることだ。書くということは、ただそれだけでは成り立つものではなく、私たちが注意を向けることによって芽生える物事に対する意識を確かにするためのひとつの方法である。人間にとっての、人生を生きるということの手段なのだ。
私たちが書くということはまず己のためであると言う必要があるだろうか。まだ何も書いていない真っ白なページを前にしている作家は、自身に対峙しているだけである。後で彼の読者がいれば幸いなことだ。
誰かが小説のテーマを見つけたと新聞に書いてあるのを読んだとき、いつも或る種の驚きをおぼえる。テーマを見つけるだって!あたかも主題は自分たちとは別のところのどこかにころがっているかのように。あたかもバザールで売っているものを手に取るだけでいいかのように。あたかもそれは我々の見出したテーマではなく、そう、我々にはびこる一種の存在かのように。仮に私たちにとってこの存在から解放されることでないのなら、何故書くのであろうか?或る考えが或る日私たちにおりてき、豊かにし、不可分のものになるのである。これはまるで適した土壌に落ちた種子のようだ。それだから本を書くのである。
今回のテキストでは、une sorte de presence とは何かよくわかりませんでした。
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小説を書くとは何だろうか?なぜ人は小説を書くのだろうか?距離をおいた態度をとることとか、ひとつの気晴らしで、他と同じひとつの行動なのだけれど、もっと面白い行動で、注意を惹いたり自分自身のことについて語るのに特に有効な手段であると考えられるという人がいる。だが私にはそんな趣味はない。私たちを書くように駆り立てる力がまさしくある。この力、それは人生を翻訳する欲求だ。翻訳すること、文字通りそれは一つの状態から別の状態へと移し変えることである。人生を翻訳することは、だから人生の性質を変えること、人生を私たちの人生にする試みなのだ。人生の実体を私たちに合わせることによって、人生を俯瞰する試みなのだ。小説を書くこと、それはひとつの方法せある。唯一のではないが、私たちの意識によって、物事のとらえ方を確かなものにする方法である。人間にとって、人間の運命を書き込む方法なのだ。
そういうわけだから、人が書くのはまず自分のためであると付け加える必要があるだろうか?作家は白紙を前にして、自分自身の前に身をおくことになる。後になって、読者を得れば幸いである。
私は、ある人が小説のテーマを見つけたと新聞で読むとある驚きをいつも覚える。テーマを見つけるだなんて!テーマがどこかに、私たちの外に存在しているかのように。あたかもお店の商品のように、テーマを選び取るだけでいいみたいに。自分たちを見つけるのがテーマではないかのように。そうだ、ある種の存在が私たちの心を占めている、この存在から私たちを解放するためでないとすれば、どうして小説を書くだろうか。一つの考えが、ある日私たちの内に下りて、受胎させ、私たちと一体になる。それはふさわしい土に落ちた種のようである。そしてそれが本になるのだ。