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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Paul Gadenne <<A propos du roman>> (2)

2014年02月05日 | Weblog

[注釈]
 *traduire la vie. : ここはこの言葉の原義の「解釈」が続きますから、Mozeさんが訳したように「翻訳」とするのがよいでしょう。
 *c'est essayer de la dominer : 直前の la faire no^tre, それからこの後のnous en appropriant la substance をふまえると、この dominer は「全体を把握する、見下ろす」の意味が強く出ています。ぼくもMozeさんと同じく、「俯瞰」という訳をつけました。
 *ce n'e'tait pas le sujet qui nous trouve : ここはce...qui の強調構文となっています。
 *une sorte de pre'sence : 私たちの外部から押し寄せてくる「何か」のことだと思うのですが、この書き方は抽象度が高く、何か特定できるものではないような気がします。

[試訳]
 (小説を)書くとはどういう行為なのだろうか。なぜ私たちは書くのだろうか。こうした問にはすました態度を取るべきだと考える人々は、それは遊びであり、他の行いとそう変わるものでもなく、ただよりおもしろく、とりわけ人の注意を引き、自分のことを話題にする効果的な方法だと答えるかもしれない…。私にはそんないい格好はできない。たしかに私たちを書くことに駆り立てる力があるのだと思う。その力とは、人生を翻訳したいという欲求でもある。翻訳する。この言葉のそもそもの意味に従えば、それはある状態から別の状態への移行を意味する。そうすると、人生を翻訳するとは、そのあり方を変えること、それを私たちの人生にすること、その本質を私たちのものにし、人生を俯瞰しようとする試みでもあるだろう。書くとは、もちろんそれだけが唯一のやり方というわけではないにしても、私たちが出来事に向ける意識によって、そうした出来事を把握しているという確信が持てる手段である。それはつまり、人間にとって自分の運命を全うする手段であるといえるだろうか…。
 そうであれば、私たちが小説を書くのは、なによりも自分のためであると、ことさらことわる必要があるだろうか。作家は、まっさらな原稿用紙に向かっているようでいて、実は自分自身に向かい合っているに過ぎないのであると…。それで結果として読者を得られれば、なんという幸運なことだろうか…。
 いつも少なからず私が驚いてしまうのは、とある書き手が小説の主題を見つけたなどという話を新聞などで読んだ時だ。主題を見つける !まるで主題なるものが、どこか、私たちの外側に存在しているかのように。あたかも雑貨店の商品のように主題が並んでいて、それをただ手にすればよいかのように…。私たちを見つけるのが主題の側ではなく、その存在感のようなものが私たちに迫ってくるかのように…。そうした存在から自分を解き放つためでないとしたら、私たちはなぜ書くのだろうか ?ひとつの想念がある日私たちのに中に託され、私たちの中で育ち、私たちとひとつになるのだ。それはまるで一粒の種が自分に適した土地に落ちたかのように。そしてそれがやがて一冊の書物となる。
………………………………………………………………………………………………..
 misayoさん、shokoさん、Mozeさん、お見舞いの言葉ありがとうございます。成人式の翌日から寝込み、身体がようやく本調子に戻ったかなと思えたのは、先月も末頃でした。寄る歳波のせいなのか、ウィルスが強敵だったのかはわかりませんが、ひどい目に遭いました。立春を過ぎていよいよ厳しい寒波が到来していますが、みなさんもどうかお身体には気をつけて下さい。
 さて今回、traduireという言葉がひとつキー・ワードになっていますが、野崎歓『翻訳教育』(河出書房新社)を今読んでいます。今やフランス文学の名翻訳家の一人に数えられる野崎歓が、翻訳という営みの喜び(歓び)と、人類の文化全般をささえるその営みの重要性を、肩の凝らない洒脱な筆致で描いた好エッセーです。
 この「教室」も、野崎と、英文学者の斎藤兆史の対談『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東京大学出版会、2004年)に触発されてはじめたことは、以前この欄で書いた通りです。ちなみに、野崎の『フランス文学と愛』(講談社現代新書)も、「愛」をめぐるコンパクトな、けれども長大な文学史を見通した、見事なフランス文学史となっています。こちらも、是非お薦めです。
 さて、次回はp. 16 a` la grandeur. までをあつかいます。19日(水)に試訳をお目にかけます。Shuhei



3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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A propos du roman 3 (misayo)
2014-02-12 10:49:56
 こんにちは、みさよです。寒い寒いと言いながら、日差しが春めいてきて、梅の花も見かけるようになりました。今回の訳はあまり悩まずに仕上げましたが、合っているでしょうか。

 詩的な生活を生きる。生活の中に詩的状態を実現することは、すべての人に与えられている。世間を見れば十分だ。他のものを見ずに、私たちの視線を注ぐことが可能な人や物などは存在しない。どんな表情も留まることはなく、どんな状況もはっきりとはしていない。何も尽きることはなく、私たちは二重の意味を持った世界に生きている。
 詩的生活の秘密は多分そこにあるのだ。ひとつの物、ひとつの言葉が、様々な反響を私たちに呼び起こすことを可能にする。そして魂を素晴らしいときめきに、またエクスタシー(静止の外)に突き落とす。なぜならエクスタシーとは、私たちを自分自身から出発させるものだから。
 以上が、例えばリルケのような人の詩的な感覚なのだ。その感覚こそが、彼のペン先にはけっして単調な影など存在しなかったかのように、もっともありふれた出来事を語るのを彼に許している。まったく取るに足らない現実との接触をけっして失うことなしに、彼は世界で最も自然に気高さに達する。
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Lecon290 (Moze)
2014-02-18 20:34:01
たいへんな大雪になりました。みなさんのお住まいでは大事はありませんか?
************
詩的な人生を生きること、人生を本来詩的な状態にすること、それはすべての人々に可能で、世界をよく見るだけで十分である。他のものを見ないで視線を注ぐことができる人や物は何もない。揺るぎない人はいないし、明確な状態といのもない。決定的なものはない。私たちは多義的な世界に生きている。おそらく、そこに詩的人生の秘訣があるのかもしれない。それは物、言葉が、様々の響きを目覚めさせ、そして魂をすばらしいときめきの中に、恍惚(外ー停止)へと投げ込むことを可能にするものだ。というのも、恍惚は私たちを私たち自身から抜け出させることなのだから。
たとえばそれはリルケによる詩的な意味がそうだ。ペン先に凡庸なかげりを全く見せることなしに、極めてありふれたの事柄について語ることを可能にするのは、この意味による。非常につまらない現実との繋がりを決して失うことなく、リルケは最も自然にこの世から崇高さへと達するのだ。
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Unknown (shoko)
2014-02-19 07:06:10
先生、皆さん、こんにちは。
2週連続して大雪に見舞われた週末でしたが、大丈夫でしたか。

<質問>
●5行目の「sur qui」は、sur lequelと同じことでしょうか。文法的な理解ができませんでした。
●figureの意味が掴めませんでした。

**********************
詩的な人生を生きることや詩的な状態を実現することは、全ての人に与えられるもので、世界に目を向けるだけで十分だ。他の存在に気付かずに視線を向けることのできる人や物は一切存在しない。決定的な顔つきというものはないし、明確な状況というものもない。最終的なことだというものもない。我々は異なる側面を併せ持つ世界の中に生きているのである。

これこそが詩的な人生の秘訣である。物や言葉が幾重にも重なる響きを目覚めさせ、この上ない心のときめきの中に、恍惚の中に、魂を逸る気持ちにさせる。恍惚とは我々自身から遊離するものだから。

これらは例えば、リルケのような詩的感覚だ。極めて日常的なことを、単調さのない文体で表すことのできるこの感覚である。極めて自然に、全く取るに足りない現実との関わりを見失うことなく、現実世界から崇高さに到達しているのだ。
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