先日、福島県海岸部で起きた原発事故についてのこの間のフランス発の報道についての違和感を書きました。その違和感のひとつは、「過敏過ぎるのではないか」というものでした。
ですが、ひょっとしたら、フランスは、日本政府および日本の大マスコミとは別の情報ソースをもっていて、そこから私たちよりも的確な状況把握をしているのかもしれない、と今は考えています。フランスの移民問題などを研究している後輩のT君から様々な情報を提供してもらって、一部考えを改めなければならない、と思いはじめています。
これも、T君から教えてもらったのですが、大震災が起きた翌日、それもあのチェルノブイリから帰国して間もないフリー・ジャーナリストの豊田直己さんが福島の現地に入った時の報告です。
http://blogs.yahoo.co.jp/erath_water/62643598.html
それから、週刊朝日の今週号に、長年原発問題を告発しつづけている広瀬隆さんが「放射能本当に怖い話」という一文を寄せています。是非参考にして下さい。
Shuhei
ですが、ひょっとしたら、フランスは、日本政府および日本の大マスコミとは別の情報ソースをもっていて、そこから私たちよりも的確な状況把握をしているのかもしれない、と今は考えています。フランスの移民問題などを研究している後輩のT君から様々な情報を提供してもらって、一部考えを改めなければならない、と思いはじめています。
これも、T君から教えてもらったのですが、大震災が起きた翌日、それもあのチェルノブイリから帰国して間もないフリー・ジャーナリストの豊田直己さんが福島の現地に入った時の報告です。
http://blogs.yahoo.co.jp/erath_water/62643598.html
それから、週刊朝日の今週号に、長年原発問題を告発しつづけている広瀬隆さんが「放射能本当に怖い話」という一文を寄せています。是非参考にして下さい。
Shuhei
モネはしばしば、彼が理解しようとした「瞬間性」に言及している。なぜなら無限に広がり、その一瞬を永遠に変化させる不可分な実体の一部に「空気」は属しているからだ。
ルーアンの大聖堂の正面の数々の絵は、つかの間の効果の記録というに留まらず、無限に進展していく他のものとの調和を模している。そしてこのようにして大聖堂にふれる「空気の膜」は、画家のものである大聖堂の綿密な認識に深く影響を受けると同時に、どことも知れぬ所から発せられた認識の確かさにも深く影響されている。
干草の絵は夏の熱気のエネルギーに反応し、反芻する牛の四つの胃袋にも、水の反射にも、海の岩にも、パンにも、髪の毛の房にも、生々しい肌の毛穴にも、巣箱にも,脳にも、他のものにも反応している。
モネのことを思い返しながら、私は展覧会の観客に展示された画布の中に、局地的でつかの間の記録だけでなく、宇宙的で永遠不変なものに開いている地平線を眺めるように勧めたい。これらの絵につきまとう他の場所はつかの間というよりは、伸びていくものであり、懐かしいというよりは隠喩に富んだものである。
モネが好んだ花のひとつはアイリスであった。他のどんな花もこれほどの力を持って自分を描くように要求はしない。アイリスは前もって完璧にプリントされたその花びらを開く特別な方法を持っている。アイリスは、予言のように、驚くべきであると同時に平静でもある。多分だから彼はアイリスを愛したのだ。
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ルーアン大聖堂正面の絵画には、限りなく伸張してゆく対応した同じではあるがもうひとつのものになろうとしている瞬時を捉えた効果を示し続けている。そして大聖堂に触れ大気の「覆い」は同時に大聖堂の些細な知覚になかに浸っている。それは画家の知覚でありまたどことも知れないところからやってくるこ知覚の確証である。
積みわらの一連の絵画は夏の暑気のエネルギー、反芻する雌牛の四つの胃、水に映る影、海の岩、パン、髪の毛束、生き生きした肌の毛穴、ミツバチの巣、脳などを伝えている。
モネを再考するとき、展覧会の来館者には絵画は描かれたその場所とはかなさを表しているのではなく普遍的で非時間的なものに開かれた眺望が絵の中にあるのを見てほしいと思う。それら絵画に纏わり漂う違う世界、一時的というよりは伸張してゆくもので、郷愁的というよりは隠喩的なものである。
アイリスはモネの好きな花の一つである。人が描くのにこれほどの力強さを要する花はない。確かにアイリスは花弁の開花が独特であり、開花時にすでに完ぺきまでに色づいている。それはまるで神託のようでありまた驚異的で穏やかである。だからモネはアイリスを愛したのであろう。
2つ目のパラグラフのest imprégnée de~に続くのは、la perceptionだけでしょうか?それともそのあとのune cofirmationも続いているのでしょうか?ここの文章は、いまひとつ理解できないままでした。
またこの文章の前にある「à l'infiniment extensif」は、infinimentとextensifのどちらが名詞なのでしょうか。冠詞がついているので、これもよくわかりませんでした。
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「瞬間性」というものの真理を理解しようとモネは試み、これについてしばしば言及している。大気は、無限に拡がる不可分の実体の一部であるから、この瞬間性から永遠性というものに変化するのだ。
ルーアン大聖堂正面の連作は、瞬間性の効果を取り入れていない。無限に拡がる他のものとの調和を考えたからだ。このようにして、大聖堂を取り囲む大気の「覆い」には、画家の感覚でもあるのだが、大聖堂がもっている繊細な感覚が影響している。と同時に、どこからともなくやってくるこの感覚の確証にも影響しているのだ。
干し草の連作では、酷暑のエネルギー、反芻する雌牛の4つの胃袋、みずもの反射、海の岩、パン、髪の房、ハリのある肌の毛穴、蜜蜂の巣、脳味噌…こういったものが関係している。
モネを回想するとき、展覧会を訪れた人たちに是非その絵の中に読みとって欲しいものがある。場所や移ろいではなく、無限の可能性である。一連のこれらの作品に繰り返し描かれているのは、束の間というよりは拡がり、ノスタルジーというよりはメタフォリックなものである。
モネが好んだ花のひとつがアイリスだ。これほど強く描きたいと思わせる花は他にはない。アイリスには、開花の時すでに人の心を強く揺さぶるような何か特別なものがあるのだ。アイリスという花は、仰天させられるけれども穏やかな、神託のようなものだ。それだからこそきっと、モネはこの花を愛したのだろう。
原発については、ついにフランスの助けを求めることになりましたね。フランスもいろいろ思惑があるのでしょうが。こんな時、フランスの大統領がシラクだったら、援助ももって違っていたんだろうなと思ったりします。
原発問題も長期にわたるだろうし、電力供給も夏に向けてどうなるのか、東京在住の私としては心配です。
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モネは、彼が理解しようとしていた「瞬間性」についてしばしば言及していた。空気は、無限に広がる分割できない物質の一部を形成しているため、この瞬時性を永遠に変容させる。
ルーアンのカテドラルの正面の絵は、つかの間の効果の証人であることをやめ、永遠に広がっているものに属する他のものとともに対応するものの複製になっている。こうして、カテドラルに触れていた空気を「覆うもの」は、画家の知覚であるカテドラルの細かい知覚と同時に、住所のない場所からやってきて受け取られたこの知覚の確認によって、浸透される。
まぐさの山の絵は、夏の暑さ、反芻する牛の4つの胃、水の中の反射、海の岩、パン、髪の房、生き生きとした肌の毛穴、ミツバチの巣箱、脳に対応している。
モネを再考して、私は、展覧会を訪ねる方々に、展示された絵に、場所や一時的な証言ではなく、普遍的な時間を超えたものの上の開かれた地平線を見ることを提案したい。これらの絵にとりつく他の場所は、一時的なものというより広がりをもつものであり、郷愁的というより暗喩にとんだものである。
モネに好まれた花の一つはアヤメだ。アヤメを描くほどの力強さを必要とした花は他にない。アヤメは、実際、すでに完全に刻印された花弁を特別な方法で開く。アヤメは、予言として、驚くべきものであるとともに穏やかでもある。おそらく、それゆえに、モネがそれを愛したのだ。
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モネはしばしば捕らえようとしていた「瞬間性」に言及した。空気、それは無限に延長する分割されない実体の一部をなすのだから、この瞬間性を永遠性に変える。
ルーアンの大聖堂のファサードの絵は、瞬間の印象のあかしであることをやめ、無限に延長するものに属する他のものに相通じる模写となる。ゆえに大聖堂に触れる空気の外皮には、画家のものである大聖堂についての綿密な知覚と、田舎のどこかで受けたこの画家の知覚の再認識とが同時にしみ込んでいる。
積み藁の絵は、夏の暑さのエネルギーに、反芻する牛の四つの胃に、水の反射に、海の岩礁に、パンに、髪の毛の房に、生き生きとした毛穴に、ミツバチに、脳みそに照応する。
モネを再考するなら、私は展覧会に足を運ぶ人々に勧めたい。かけられた絵の中に、田舎や瞬間性のしるしではなく、普遍的で時を越えたものへと開かれた領域を見てほしい。これらの絵につきまとう他の場所とは、時間的というより延長するもの、郷愁というより隠喩的なものだ。
モネが好きだった花のひとつがアイリスだ。描くのにこれ以上力が要る花はない。アイリスは実際、開花が独特で、花びらはすでに完全に模様が刻まれている。花弁は預言のようであり、同時に非凡なものだが静かなたたずまいだ。だからモネが愛した花なのかもしれない。