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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(4)

2011年04月06日 | Weblog
 [注釈]
 
 * d'autre chose appartenant a` l'infiniment extensif. : l'infiniment extentif 「無限に伸びゆくもの」= une substance indivisible 少し図式化すると、こういう構図になります。
 l'extentif ; substance ; e'ternel ; universel ; intemporel <--> instantane'ite' ; effets fugitifs ;local ; e'phe'me`re ; temporel
 * a` la fois de la perception me'ticuleuse (...) et d'une confirmation de cette percetion... : a` la fois A et B 「AとBと同時に」ただ、ここは難しくて、できれば元の英文を知りたいところです。
 大気という「被い」には、モネ本人の繊細な知覚と、「それと同時に」そうした一個人の知覚 cette percption を支えている、彼方 lieux sans adresse からの力が認められる、と言いたいのだと思われます。ただ、recue がどう働いているのか、果たして必要なのか、などがよくわかりませんでした。
 * de'ja` parfaitement imprime's. : ここは、アイリスを描くことの難しさ、つまり、どんなに完璧にその花弁の一枚一枚を描いても、その独自の運動、une manie`re particulie`re d'ouvrir はなかなか捉えきれない。そして、その運動までもを司っているのが、あのune substance なのでしょう。
 
 [試訳]
 
 モネは、自らが捉えようとつとめていた「瞬間」のことをしばしば話題にしていた。大気も無限に延長する不可分の実体の一部であるのだから、それは、そうした瞬間を永遠へと変えてしまうことになる。
 ルーアンの大聖堂の正面を描いた何枚もの絵画も、移ろいやすい光りの効果の証言であることを止めて、無限に延長するものに属する他のものたちとの応答のやり取りとなる。たとえば、大聖堂を「包み込む」大気は、モネの大聖堂に対する微細な知覚を含むと同時に、どこともしれないところからやって来た何かによって、そうした知覚が信認されたことも孕んでいる。
 積み藁を描いたいくつもの作品も、さまざまなものに呼応している。夏の暑気に満ちたエネルギーや、草を食む雌牛の四つの胃袋、川のきらめき、海の岩場、パン、髪の房、呼吸する皮膚の毛穴、ミツバチの群れ、脳みそ…などに。
 モネをふたたび訪れてみて、展覧会に足を運ぶ人々にその作品の中に見てほしいと思ったのは、限られた場所の、つかの間の証言ではなく、普遍的な、無時間的なものに開かれたさまざまな地平である。これらのどの作品にも見られる彼方は、時間に属するというより、延長に属するものであり、郷愁を誘うものであるより、隠喩的なものである。
 アイリスは、モネのお気に入りの花のひとつだった。描くのにこれほどの力量を要求される花は他にはない。その花びらを完全に描いてみせても、アイリスは実際独特の仕方でその花弁を開くからだ。その花々は、まるで預言のように、おだやかであると同時に人を呆然とさせる。おそらくは、だからモネはアイリスを愛していたのだろう。
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 4月3日日曜日の夜、今回の大震災を扱ったNHKのテレビ番組を二番組二時間続けて観ていました。突然襲われた災難に、堪え忍び、あるいは立ち向かっている人々の姿を、こちらは暖かい部屋でただ映像を通して見ているだけなのですが、だらしないことに、涙を抑えて画面を見つめ続けることは出来ませんでした。
 前回、小熊英二『私たちはいまどこにいるのか』(毎日新聞社)を紹介しました。そこには、冷戦時の、ある意味恩恵を受けた高度成長、そしてグローバル資本主義モデルの成功体験が、もう通用しない段階にこの社会がさしかかっていることを語った明晰な言葉が綴られていました。この本はもちろん大震災前に書かれたものですが、私たちの社会の有り様を今一度見つめ直す必要を説いていました。
 その主張と響きあう論考をご紹介しておきます。
 http://www.counterpunch.org/karatani03242011.html
 批評家の柄谷行人が、自身の出身地を襲った阪神淡路大震災と、その後に日本社会の取った進路を再考し、今次の大震災を経て、これから私たちが考えるべきことを示唆しています。
 
 それでは、次回からは、東京在住のフランス人が今回の大災害について綴った文章を読むことにします。週末にはテキストをお届けします。

 首都圏に在住のshoko さん、明子さん、雅代さん、ウィルさん、いろいろご不便、ご心配がつきないでしょうけれど、落ち着いた日常を取りもどせる日が早く来ることを祈っています。
 Shuhei
 


5 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Le cataclysme du mars 11 (misayo)
2011-04-15 13:44:24
こんにちは、みさよです。地面が揺れるわけでもないのに、日々落ち着かない気がしています。最後の celle-là の示すものは、「必要だから自然を尊敬する」と解釈しましたが、これで良かったでしょうか。

3月11日の天変地異は、最初は注意信号だった。
 自然は人間が制御していると主張できないようなすざまじい力強さを皆に見せつけた。日本には主要な緑の党は存在しない。この党が存在しないことの説明には複合した数多くの要素を考慮して理解する必要がある。自然は最高に力強く、人間はちりあくたに過ぎないという認識だ。
 地震、津波、時々の台風は、人間が感謝すると同時に恐れもする自然と折り合いをつけていくことを余儀なくさせる。ここでは、人間は地図からあとかたもなく消滅させられうることが分かっている。最近の議論では、確かに自然はその本来的な自浄作用に一役買うと同時に、そこで作り出された不快な印象も与えている。ここの人々はその上で自覚している。人類の起こりうる消滅の後でも、この自然のエピソードは、人間なしに続く一連の出来事を書き続けるだろう。自然はこの最近の突発的な行動を受けるより前、何十億年もの間人間なしで満足していたのだから。
 自然の側に立つことは、人間にとって自明ではない。自然は最強であるがゆえに、ひとつの出来事でもって、人間に敬意を払うように仕向ける。これは危険信号である。地球温暖化が人間の活動によるものであろうが、自然は未来において、氷河期をもたらすこともできるだろう。私たちが必要とするから自然を尊敬することと、自然が私たちの生命の源であることは、まったく別の問題である。自然は私たちにとって無害であるというには程遠いが、日本に重要な代表者を持たない緑の党が焦点を合わせているのは必要だから自然を大切にする点にある。
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Le cataclysme du mars 11 (明子)
2011-04-16 16:22:29
めっきり春らしくなり桜も満開を迎えましたが、鴨長明の方丈記の最初の一節を実感してします今日この頃です。
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 3月11日の大異変はまず緑の警報だった。
自然はすべての人に掌握することのできない恐ろしいまでの力を思い知らせた。日本には明白なエコロジストによる政党はない。その不在理由を説明するには複雑に組み合わさった複数の要素を考慮に入れねばならない。そのなかには感情、むしろ経験に裏打ちされた自然の最大限の力の前には人間など埃にすぎないという直観的な知識がある。
 地震、津波、場合によって台風は感嘆と同時に畏れを抱く自然との妥協を強いる。ここで人は地図上から抹消されてしまう。最近では確かに、自然は自らを破壊して、そうするように努めているかのような不快な印象を与えている。 さらにここでは、もし人類が消滅してしまった後でも自然は人類なしでさらにその続きを辿ってゆくのだということも言わんとしている。最近のようなちょっとしたいたずらをしでかすまでに、人類なきままの数千年に充足していたのだから。

 自然の立場に立つことはおのずと人類にとって都合のいいことではない。自然はその事象によって人に崇敬の念を抱かせる。自然は超越的な力を持っており、それは青の警報である。たとえ気候温暖化が人類の行動のなせる業だとしても、自然はこれから氷河期を推し進めてゆくだろう。自然を敬わねばならないだろう。なぜなら、我々には自然が必要であり、自然は命の源であるからだ。我々にとって無害であるとは決して言えないが、それは別に考えねばならない。そして特にエコロジストの政党が必要な敬うべき自然に対する活動をするのであるが日本には代表的な政党がないのだ。
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Unknown (ウィル)
2011-04-18 00:18:16
時たま、東京でもかなり揺れることがあって、揺れには敏感になっています。世の中が落ち着くにはまだまだかかりそうですね。
今回の課題では、2パラの終わりあたりの、absenceの文のなかでどこにかかるのか、3パラの終わりあたりのcelle-laがさすもの、の2点がよくわかりませんでした。そのあたりを特にご教示ください。
ここまで読んでみた感想としては、緑の党が出てくるのが唐突感があるなあ、ということです。後半を読めばそのあたりの説明があるのでしょうか。
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まず、3月11日の天変地異は緑の警報である
自然は、人間が制御しようとなどできないその全く恐るべき力を全ての人々に思い起こさせた。日本では、力のある緑の党はない。それがないことの説明のためには、複雑な組み合わせの中で多くの要素を考慮にいれる必要があるのは確かであろう。その中に、自然は最も強い力であり、人間はチリにすぎないという、感情、むしろ経験から練られた直観的な知識の存在を見出してみよう。

地震と津波、時には台風が、尊重されるとが恐れられる自然と妥協することを強いる。ここでは、人間は地図から抹消できることを我々は知っている。最近の議論が確かに示すことは、自然は、自分自身によって自分自身の破壊の原因となることがあり、それに没頭するといういやな印象を与えさえするということだ。特に、人間が消えうせた場合、そのあとで、こうしたエピソードは自然に人間なしで続いていく一連の出来事を自然に描き続けさせるであろうという認識をここではもっている。人間がいないということは、つい最近訪れた一大絵巻を経験する前に自然が何十億年ものあいだ甘んじできたことだ。

自然の側に立つということは、当然人間の味方であるというわけではない。自然が事件を通じて、自然がきわめて強力なものであるから、敬うように仕向けること、それは緑の警報である。気候温暖化が人間の活動からくるものであっても、自然は、将来は、氷期にいたることもあるだろう。自然が必要であり、我々の生活の源であるから、自然を敬うというのは、全く別のことであり、我々にとってとるに足らないことであるどころではなく、それにこそ、日本ではあまり代表者のいない緑の党が集中するところなのだ。
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Unknown (shoko)
2011-04-19 07:19:06
先生、皆さんこんにちは。
このテキストのポイントであるalert verteの意味が何度読んでもわからないままだったので、いくつかの箇所で訳も不正確になってしまいました。
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人間が支配しようとしてもできない程、自然は凄まじく大きな威力があることを我々全ての者に思い知らせたのであった。日本には環境保護を標榜する政党は存在しない。これについては、複雑に絡み合った関係性の中に幾つかの理由があるということを考慮に入れる必要がある。それらを踏まえ、或る見解、というよりはむしろ自然には強大な威力があり、人間はその自然の前では無力な存在でしかないという、経験に裏打ちされた或る直感的認識を検証してみよう。

地震や津波、或る時は台風という現象は、人間が崇め畏怖の念をも抱く自然というものと一体となってしまうのである。人間は地図から抹消されてしまう可能性があることを知っている。確かに最近の論争では、自然そのものが破壊を誘発することや、そういう不愉快な印象もあるということが言われている。さらには、こうしたことは仮に人類が消滅したあと、人間が存在しないことにもおかまいなしに続くであろう。事実、昨今の天変地異より前の数10億年、人類はいなかった。

自然の側に立つことは人類にとって当然のこととはいえない。ある事象によって自然が人間に崇敬の念を抱かせるのは、自然そのものが超越的なものだからで、警戒域にあるものではない。仮に地球温暖化が人間たちによるものであっても、自然はいずれ氷河期をむかえることもありうる。自然に敬意をはらうのは、我々がそれを必要としているからであるし、生の根源であるからだ。自然が人間にとって危険でないとはいえないが、それは別の話であり、日本には優れた代表者のいる緑の党がないということに集約される。
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Leçon232 (Moze)
2011-04-20 01:07:36
こんにちは。今回はなんだか読みにくかったです。世の中の動きは回復しつつありますが、震災の重大さは変わらないことを心に刻み付けなければならないと思います。
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3月11日の大災害はまず緑の警報である

自然は人類が制しがたい、すさまじく絶大な力をみなに思い知らせた。日本では、明確な緑の党はない。これがないことを説明するには、確かに複雑にからんだ多くの要素を考える必要があるだろう。これらの要素のうち、自然は最も強い支配力をもつものであり、人間などはチリにすぎないという感覚、あるいはむしろ経験に培われた直感的な意識があることがあげられるだろう。

地震と津波、場合によって台風も、敬いつつ怖れもする自然と手を結ばざるをえなくさせる。ここで、人類は地図から抹消されてしまうかもしれないと思われる。最近の議論では、確かに自然は自分自身で自らを破壊しにかかっていて、それに専念しているという嫌な印象さえ与えかねないとささやかれている。そこで、さらに人類消失の後、この出来事は自然に、人類がいなくても継続される続きを描き続けるだろうと考えられる。この人類の不在は、自然が人類が最近突然現れたことによって無謀な行為を被る前の何十億年もの間受け入れてきたものなのだから。

自然の側に立つことは、自ずと人類の味方をすることにはならない。ある出来事によって、自然をその超越的な力を理由に人類に敬う気を起こさせること、これが緑の警報である。一方、気候温暖化が人間の活動が原因であるとしても、自然は将来、氷河期に至らせるだろう。私たちが必要だから自然を尊重することと、生命の源だから敬うこととはまったく別のことだ。もちろん私たちにとって、その違いは些細なことでは決してなく、日本でしかるべき代表者がいない緑の党が焦点をあてているのは、まさしくその点であるのだ。
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