年末の特番で、戦争に関係した番組をやっていた。
29年もの間、陸軍中野学校の任務赴任の為にルバング島のジャングルに潜んで戦争を全うした小野田寛郎さんの話。
83歳になる現在も、実に機敏で矍鑠としている姿に背筋を伸ばされる想いとなる。20代の若い時代から陸軍のエリートとして鍛え抜かれた肉体と精神を現在にも感じる。
外界からの終戦の知らせも知らされることなくルバング島での任務遂行の為、29年もの間、仲間の兵隊とジャングルで潜んで生活し、見つかるまでの間にはその兵隊仲間も殺されて最期は独りで終戦を過ぎても終わらない戦争と戦っていた。「今、ルバング島へ行きたいと思いますか?」と言う問いに「石ころ一つ見ても、戦友が怪我をして背中へしょって歩いた想い出、砂浜を歩いても波打ち際を歩いて自分の足跡が波で消える様に歩く行動、どれをとっても辛くて悲しい想い出ばかりで行きたくない。いいことは一つもない。」と語る。でも、戦争と言う境遇の中で逃げることはできない中でそれに挑み、教育を受けて、戦友を亡くしたことを悲しみつつも自分の兵隊としての任務を果たした。戦争と言う環境下では先にこちらが殺らなきゃ相手に殺られるので、とにかく先に殺る、と言う構図で、人を殺ることはなんともない気持ちになる、規則などない、と語る。
ジローズの唄に「戦争を知らない子供たち」と言う曲がある。
今もフォークソングのリバイバルで多方面で歌われているが、時には「今更、この唄?」とか、「今それを歌われてもピンと来ない」とかと言う感がないわけでもなく、ましてや我々も無論、戦争世代ではない、「・・・を知らない子供たち」が大きくなった、ただの戦後の大人でもある。
ましてや、戦争に関する難しい思想を語るつもりはなく、複雑なことはよくわからない。
しかし、戦下にあった小野田寛郎さんの話や経験、生きるひたむきな姿勢を見て聞くことで、忘れがちな、本当に生きる為に食べる、火の無い環境から木を使って火種を起こす、と言う様に生きる為に働く、と言う、贅沢や欲求や邪念などない、人間の本来の生きる姿の原点、使命を見る。
物や情報がありふれた現代は、必ずしも恵まれているとは言えないかもしれないが、戦下の環境を考えて比べた時、それは考えられない、創造もできないことではあることは垣間見られる。
そう言ったことを考えた時、現在自分を取り巻く境遇や環境などに贅沢や愚痴を言っている自分は随分な未熟者であると感じると共に、本来の生活の姿勢と言うものを省みて、少し緩んでいる自分に箍を締める思いになった、今日この頃である。
29年もの間、陸軍中野学校の任務赴任の為にルバング島のジャングルに潜んで戦争を全うした小野田寛郎さんの話。
83歳になる現在も、実に機敏で矍鑠としている姿に背筋を伸ばされる想いとなる。20代の若い時代から陸軍のエリートとして鍛え抜かれた肉体と精神を現在にも感じる。
外界からの終戦の知らせも知らされることなくルバング島での任務遂行の為、29年もの間、仲間の兵隊とジャングルで潜んで生活し、見つかるまでの間にはその兵隊仲間も殺されて最期は独りで終戦を過ぎても終わらない戦争と戦っていた。「今、ルバング島へ行きたいと思いますか?」と言う問いに「石ころ一つ見ても、戦友が怪我をして背中へしょって歩いた想い出、砂浜を歩いても波打ち際を歩いて自分の足跡が波で消える様に歩く行動、どれをとっても辛くて悲しい想い出ばかりで行きたくない。いいことは一つもない。」と語る。でも、戦争と言う境遇の中で逃げることはできない中でそれに挑み、教育を受けて、戦友を亡くしたことを悲しみつつも自分の兵隊としての任務を果たした。戦争と言う環境下では先にこちらが殺らなきゃ相手に殺られるので、とにかく先に殺る、と言う構図で、人を殺ることはなんともない気持ちになる、規則などない、と語る。
ジローズの唄に「戦争を知らない子供たち」と言う曲がある。
今もフォークソングのリバイバルで多方面で歌われているが、時には「今更、この唄?」とか、「今それを歌われてもピンと来ない」とかと言う感がないわけでもなく、ましてや我々も無論、戦争世代ではない、「・・・を知らない子供たち」が大きくなった、ただの戦後の大人でもある。
ましてや、戦争に関する難しい思想を語るつもりはなく、複雑なことはよくわからない。
しかし、戦下にあった小野田寛郎さんの話や経験、生きるひたむきな姿勢を見て聞くことで、忘れがちな、本当に生きる為に食べる、火の無い環境から木を使って火種を起こす、と言う様に生きる為に働く、と言う、贅沢や欲求や邪念などない、人間の本来の生きる姿の原点、使命を見る。
物や情報がありふれた現代は、必ずしも恵まれているとは言えないかもしれないが、戦下の環境を考えて比べた時、それは考えられない、創造もできないことではあることは垣間見られる。
そう言ったことを考えた時、現在自分を取り巻く境遇や環境などに贅沢や愚痴を言っている自分は随分な未熟者であると感じると共に、本来の生活の姿勢と言うものを省みて、少し緩んでいる自分に箍を締める思いになった、今日この頃である。