源氏物語の時代、
さらに、源氏物語成立にまつわる謎、
に迫ってみたいと思う。
源氏物語の愛読者、
なんといっても彰子中宮でした。
定子亡き後の、一条帝との仲、
道長との政治的駆け引きがあったとはいえ、
念願の敦成親王の誕生のころ、
紫式部日記が書き留めたころ、から、
安定してきたのでしょう。
こんなエピドードが式部日記にあります。
彰子中宮は式部に漢文を教わりたいと申しでるのですが、
それはどうも、一条帝の、源氏物語に対する深い読み、
に起因するらしい。
道長をはじめ大方の宮廷の男たちの見方は、
光源氏の恋の遍歴、
というもの、
(中宮の側近くでは)ただひとり一条帝は、
これは、日本書記をはじめとした、六国史の見識があるのだね、
と言った、という。
六国史を読むということは、漢文の素養があるということ、
ひいては、中国の史書にも明るいということなのです。
定子サロンでの風流の素養もしかり、でした。
彰子中宮は、一条帝に近づきたい、という気持ちになっていたのですね。
それにも増して、自分の愛読書の源氏物語の真の評価を得て、
感動したのですね。
よくわかりますね。読めば読むほど、源氏物語の奥深さに今の私たちも同じ感動をしていますものね。
さらに、彰子中宮は出産の後のお里帰りからの手土産に、
すばらしいものを一条帝に献上したのです。
このことがなかったら、源氏物語千年紀、はなかったかもしれないのです。
紫式部に紙を提供し、源氏物語を清書させ本の制作にあたらせた、
いわば、長編小説としての体裁にした、新本をつくったということです。
ここで問題になるのが、それまで書きためたものがどこまでで、
書き足していったのがどれで、54帖のどこまでだったのだろう、
ということでしょう。
さらに、源氏物語千年紀、の根拠になっているのは、
日記に出てくる、1008年の項、
式部が貴公子から「若紫はいずこに」と言われた、
それに依っているのね。
そのとき、すでに若紫の巻が存在した、ことははっきりしているが、
そもそも源氏物語をいつから書き始めたのか、謎なのです。
1001年、夫宣孝と死別から、
1005年、道長邸初出仕の間に、ある程度書かれてあって、
道長に見いだされて、彰子の家庭教師となった、
とは、一般的な解釈ですが、これとて、確たる根拠があるわけではなく、
道長邸に出仕したあと、その膨大な蔵書があったからこそ、
源氏が書けた、とする見解もあるのです。
いずれにしろ、
彰子の命で出来上がった「源氏物語」は一条帝に手土産として渡り、
千年のいのちを保つことができたのです。
もうひと言、加えるならば、
源氏の第一巻(最初に書かれたということではない)桐壷の巻、
これぞ一条帝と定子の美しい純な悲恋物語、
と著者は確信しているようです。
道長に出仕する前に桐壷巻は書かれた、
との前提にたっているからなのですが、
これも確たる根拠あることではありません。
さらに、源氏物語成立にまつわる謎、
に迫ってみたいと思う。
源氏物語の愛読者、
なんといっても彰子中宮でした。
定子亡き後の、一条帝との仲、
道長との政治的駆け引きがあったとはいえ、
念願の敦成親王の誕生のころ、
紫式部日記が書き留めたころ、から、
安定してきたのでしょう。
こんなエピドードが式部日記にあります。
彰子中宮は式部に漢文を教わりたいと申しでるのですが、
それはどうも、一条帝の、源氏物語に対する深い読み、
に起因するらしい。
道長をはじめ大方の宮廷の男たちの見方は、
光源氏の恋の遍歴、
というもの、
(中宮の側近くでは)ただひとり一条帝は、
これは、日本書記をはじめとした、六国史の見識があるのだね、
と言った、という。
六国史を読むということは、漢文の素養があるということ、
ひいては、中国の史書にも明るいということなのです。
定子サロンでの風流の素養もしかり、でした。
彰子中宮は、一条帝に近づきたい、という気持ちになっていたのですね。
それにも増して、自分の愛読書の源氏物語の真の評価を得て、
感動したのですね。
よくわかりますね。読めば読むほど、源氏物語の奥深さに今の私たちも同じ感動をしていますものね。
さらに、彰子中宮は出産の後のお里帰りからの手土産に、
すばらしいものを一条帝に献上したのです。
このことがなかったら、源氏物語千年紀、はなかったかもしれないのです。
紫式部に紙を提供し、源氏物語を清書させ本の制作にあたらせた、
いわば、長編小説としての体裁にした、新本をつくったということです。
ここで問題になるのが、それまで書きためたものがどこまでで、
書き足していったのがどれで、54帖のどこまでだったのだろう、
ということでしょう。
さらに、源氏物語千年紀、の根拠になっているのは、
日記に出てくる、1008年の項、
式部が貴公子から「若紫はいずこに」と言われた、
それに依っているのね。
そのとき、すでに若紫の巻が存在した、ことははっきりしているが、
そもそも源氏物語をいつから書き始めたのか、謎なのです。
1001年、夫宣孝と死別から、
1005年、道長邸初出仕の間に、ある程度書かれてあって、
道長に見いだされて、彰子の家庭教師となった、
とは、一般的な解釈ですが、これとて、確たる根拠があるわけではなく、
道長邸に出仕したあと、その膨大な蔵書があったからこそ、
源氏が書けた、とする見解もあるのです。
いずれにしろ、
彰子の命で出来上がった「源氏物語」は一条帝に手土産として渡り、
千年のいのちを保つことができたのです。
もうひと言、加えるならば、
源氏の第一巻(最初に書かれたということではない)桐壷の巻、
これぞ一条帝と定子の美しい純な悲恋物語、
と著者は確信しているようです。
道長に出仕する前に桐壷巻は書かれた、
との前提にたっているからなのですが、
これも確たる根拠あることではありません。
源氏にまつわるブログを何話か、
大変興味深く読ませて頂きました。
特に浮舟についての日記に共感します。
薫たちの浮舟を見下した態度が許せなくて
宇治十帖はあまり好きになれないのです。
六条御息所、是非書いて下さい。
楽しみに読みに来ます(^^*) ご縁に感謝です。
源氏のこと、書き綴ってらっしゃるのを
とても興味深く、拝見させていただきました。
そのうえ、ご訪問いただき、とてもうれしいです。
御息所はどこかでお祓いでも受けてから書き込みしようかしら、と思っているくらいで、恐れ多いような、
可哀想な女君に対する必要以上の魔もの扱いを払拭できないかしら、
とも思ったり…、
こもごも思って、ぐずぐずしてます。
あなた様の勇気に敬服して、
わたしも頑張ってみます。